らしさのおしつけあい

最近自分のふつうってなんだろってなる
ずっと主治医は10代くらいから私は病気でも正常でもないといわれていた
ふつうになれるといわれてきた

ふつうが主治医にとってなんだったか、わからない

だけど私は主治医に都度はなしつたえた
それを主治医が
イエスとノーでぶったぎってくれていた
主治医のGOで動いた
主治医のSTOPで止まった

わたしってなんだったんだあの頃

患者だし信者だしペットだし
なんとか生きてて
なにかと馬鹿正直だった

いまわたしの当時うまくいっていたふつうが
通用しなくなっている

例えば
ふつうとは
その人らしさで
千差満別など

わたしはよくわからないけど
千差満別らしさの
人それぞれのふつうがわからない
わたしの経験がわたしの当たり前
わたしのこだわり、わたしの世界のみえかた
わたしのもの存在思考
それらが私です

ただ、いままで私をあらわすたびに
判断されて切り分けられ
よしとされるほうをふつう、だと
なにか変な気がしても矯正され、うまく洗脳され躾られてきた
自分にはなんだかそれは絶対的な感覚で正しいしすぐれている

ただいまそれをいってもわたしは意味のわからない言葉をはなしてしまうようなかんじ

妹からは古い教科書といわれた
知り合いは主治医のふつうがどういう範囲のふつうかわからないといわれた


ずっと生きにくく
自分の感覚は、判断されて、イエスとGOがないと行えないほどに判断能力がおかしかったとおもう。


不安定な時に援交相手に会いに行くといったり、
アルバイト先がみつかったのに、店主からそういう対象としてみられ、その話をするとやめなさいといわれた
好きといわれてもどうしたらいいかわからなくて全てにこたえていれば、ありがとうで終わらせていいといわれたし
私が性的におかしい人間かもしれないと伝えるとあなたはふつうでLGBTの世界は正しくないから近寄るなといわれた


腑に落ちることはいいのだけど
よくわからないこともそのひとがいうから従っていた
成功体験があるから、ずっと信じてしまって

今の先生に主治医はわたしの脳だったので
いま自分で決めれないし不安だしわからないといった

これからは自分で考えていいし
そうしていこうといわれた

主治医の呪縛だね、ともいわれた

あるとき元気はあるしフッ軽だからこそ
誤った道にもわからずにどんどん行けるからこそ
主治医はふつう、といって、
私の逸脱行動をふつうじゃないといいやめなさいといい
止められて、わたしは多分生き延びた

だけどそのなかには、私で決めていい選択肢もあったのに、
主治医の偏りで疑問がある中で違う方向に誘導された部分もあったかもしれない


いま固定されたせまい世界から色々な世界を知ると
主治医は乱暴な世界から保護されたインコみたいな私を必死に守って苦労のない野生に返すために色々してくれたよね
わざわざもういらない苦労をしないために、一般的とされることを非常識なわたしに色々おしえてくれた

それは本当によかったし
ありがとうだし
だから生きれたし
頭が良くなった

ただ、もうその聖書はおしえであるけど
守れないこともあるのかなとおもう

そのひとらしさや
自分が自分であることを認めにくい、認めたくないのは
それを否定されてきたから
他人のことも、自分がしたいようにすることも
偏ったふつうがあるために
らしくあれないし
らしくがわからない

否定されるらしさもあった
でもそれは私の場合らしさではなくて、逸脱行動や犯罪だったのかもしれない

それ以外にあるわたしのらしさは私のふつうにしていい感覚であり、
それは主治医のふつうではなくても私にはふつうでいいのかもしれない


親にも
やめとけば
よくないよ

といわれるたびに
やめても後悔し
やっても後悔していた

親に反発するために行うし
やめるにもやりたいのに親から止められたことを遂行しにくかった

一理あるからである。

わたしはやめときなといわれてやめてよかったこと悪かったことあるとおもう
やるべきことして失敗したりやらなくていいことにやっきになり本来したいことすべきことに燃料がのこらないことも多い

いまさら自由にしていい
あなたらしくしていい
人それぞれ


そんなことはやりたかったけどできなかったから
どうしてもなかなかあけれないのです

でもいま
死にかけのわたしが
偏りのあるなかでも
生きれていて
自分の頭で悩み、判断すること
それにより起きた失敗も
もちろん成功も自分のおかげでおきること

それが責任なのかなとかおもう。

他人に迷惑をかけたくなくて自分を殺して
他人のせいにすることが責任のような当たり前だったけど

自分の判断でなにかすること、そして自分のせいにすることで
責任をとること

みんな誰かのせいにするなとかいうし
自己責任って響き、本当に勝手でこわいこと

だけど嫌なことして嫌な思いすることを、がんばるなら
自分のすきなことをしてなにか不都合おきてもしかたないよね


変わる時はいつだってくるしいのに
喉元過ぎれば熱さを忘れるわけじゃないけど
あんなに辛かったことがいまは辛くないように
できなかったことが、できるようになる変わり目を
わたしは初めてかんじてる

いままでいつのまにかできちゃっていたから

それをいま、他人と関わるむずかしさ
意見してかえってくる返答、はげまし、
毎日変わる自分の内面心理病理と、
一人暮らしをはじめてからは金銭的には一切だれにも頼らず、なんとか働き
いま無職でもなんとか貯金でやりくりしている

18のときの私はいまの私なんかみえていなかったよね

見当違いの意見や助言、信念は理解する意味も理解する価値もないとおもう。

ただ、いまやっているセッションノートで言われることは、わかりたいけどわかれないこと。
きっと私にいいことなのに、わたしの及ばない点でなかなか身にしみない部分がある


らしさが自由でらしさが普通なら
向き不向きもないのかもしんない
なのでこういうひとには向かないみたいなことは決めつけたあたしの偏りが言ったのかな

結局それがなにかわからないけどなんとなくいい方向に行けそうな気がするから私はいまいろんなことをガムシャラガムシャラやってる。
周りがそれはよくないとか意味無いとか回り道とかいうけど
わたしがしたいからやってます。
したくなくなったらしないし。
無駄も私らしさ。
本当は時間は有意義に使うのが一番なんだけど
周りが無駄っていうこと、いま、わたしのなかではたくさん意味があります。
いつかああ無駄だったとか思っても
それがあったからいま無駄とかわかるわけだからしかたないこと
てか無駄かどうかも人それぞれだからそもそも
概念がわからなくなってきちゃうけど


みんなが生きやすい世の中って
なんなんだろう
概念てなに
常識やふつうも変わるから信じるものも変わっちゃう

平和って意見しなくなる世の中になることか?
したら個性って大丈夫なのかな?
満足だらけになるのかな

変わること変えることがこわいし
変えていいとされるいまの言葉についてけない未更新な自分いる

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