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増殖する才能

ある大都市の片隅で、好奇心旺盛な男の子が産声をあげた。

「なんてかわいい子だろう。そうだ、陽気な子だからサンと名づけよう」

彼はサンと名づけられました。

両親は好奇心旺盛なサンを溺愛し、彼のすることが命の危険が伴わないかぎり思い通りにさせてやりました。

サンが3才になると、家にある様々なものを分解し、両親を困らせました。しかし両親はそんな陽一を温かく見守りました。

ある日のこと、陽一坊やは両親が電話で会話をしていることを目にすると、

あの箱の中には、きっとすごいものが詰まっているに違いない」と思い、母親の目を盗んで電話機を分解しました。数時間後、母親は分解された電話機をめにすると、サンのもとにやってきてこう言いました。

「サン、いいですか日常的に使われているものは分解はしてはいけません。なぜかと言うと、日常的に使われているものは、必要不可欠なものなのです。それを失ったら生活に支障をきたすおそれがあるのです。わかりましたか、日常的に必要なものは分解してはいけません。」

愛情と憎悪の混じった表情です。さすがにサンもことの重大性を理解し泣きました。すると母親はサンを抱きしめました。この一件以来、サンは日常的に不可欠な物は分解しなくなりました。

それでもある日に分解した電卓にサンは魅了されました。緑色の基盤の上に樹脂で固定され、たくさんの配線が伸びているICチップは、まるで生き物のように見えたのです。

サンは幼稚園に通った後、月曜日はピアノと音楽を、火曜は算数と理科を、水曜は空手教室と体操教室を、木曜は実験教室を、金曜は絵画を習い、一週間のほぼ毎日を好奇心の赴くままに吸収していきました。そのどれもがサンが自ら両親にお願いしたものです。

ただちょっと変わっているのは、多くがマンツーマン指導であったことです。ピアノなどが個別指導が当たり前ですが、算数や理科は家庭教師を招き指導を受け、絵画なども自由に描くなかで必要な助言を受けるというものです。カスタマイズされた個人指導を受け、サンの知識量と好奇心は日々拡大していきました。

小学校に入ると、サンの遊びは辞書を引くことだったり図鑑を眺めその世界に深くもぐり込むことに夢中になりました。様々な解釈や世界の生き物にふれ世の中の森羅万象に魅せられたのです。

小4になると、両親からもらった一眼レフカメラを通して新たな世界を観ました。肉眼で見る世界とレンズ越しに見える景色はサンには違って見えました。写真に切り取られた景色と自分の見ている景色の違いは、肉眼と機械の目の違いを教えてくれたのです。

機械の目は主観ではなく客観の目です。のちにわかることですが、肉眼で物を見ているときは現実のサイズに見えていません。たとえば月を見るときに意識が月に集中して実際のサイズよりも心理的に大きく見えてしまいます。しかし、写真で撮ると、意外と小さい。この主観と客観の違いをサンはカメラで学びました。

小学生の時にサンに衝撃が走りました。まさに天啓のような光です。

世間に個人向けようパーソナルコンピューターが登場したのです。サンはパソコンが欲しくてたまりませんでした。今は一人一台の時代ですがサンの小学生の時には仕事で使うもので、個人で遊びで使うものではなかったからです。当然、サンの家にもパソコンはありませんでした。当時40万もするパソコンはサンの遊び道具にしては高価です。

それでもサンは一計を案じ、祖父に「これからの時代に絶対必要になる」と力説し、パソコンを購入してもらいました。サンの家では、本当に必要なものはプレゼンし認められれば買ってもらえるシステムだったのです。

ようやくパソコンを手にしたのは良いものの、インターネットの回線を開通させることは小学生のサンには大変でした。しかし、オペレーターに問い合わせをして試行錯誤を繰り返し開通させました。初めはホームページを作ったりして遊んでいましたが、両親に3Dムービーが作れるCGソフトを買ってもらうと夢中になり、グラフィックソフトで絵を描き、それに脚本をつけ録音し、立体的な世界を表現するのを楽しみました。

中学生にあがると、部活は科学部に入りいろいろな生き物を解剖し生き物の仕組みに目を向けました。特にサンが感動したのは鳥類と恐竜の骨格が似ていることでした。鳥類の骨格を通して白亜紀の恐竜に想いをはせたのです。

また、ギターの演奏もはじめ、ミュージシャンのように作曲をしてみたりと創作活動を広げていきました。それでも次第にギターの演奏よりもギター本体の分解の方に興味がわいて、電子回路に手を加え自分の好む音になるように試行錯誤をしました。

高校では「青春の18きっぷ」を使い、都道府県を巡る旅をしました。青春の18きっぷは普通列車と快速列車しか使えないので大変でしたが、持ち前の好奇心で全国の県庁所在地をすべて回りました。自分の持つ知識とそこに根ずく思考や文化に触れることで、新鮮な刺激を受けることができました。なかでも、香川県のうどんの美味さと価格には驚かされました。また、当時はうどんを生醤油で食べることは全国的に知られておらず、サンはカルチャーショックを受けました。北海道が広いことは地図をみれば一目瞭然でしたが、体感する100kmは実に雄大でした。

この旅の経験で、情報を集めたり聞いたりして想像するのと、実際に見ることでは解像度が全然違うことに気づかされました。

多くの経験を得たサンにも大学受験の時期になりました。周りの多くが東京大学を目指していたので、サンも何となく東大を目指すことにしました。しかし、ポイント稼ぎのゲームのような受験に、楽しみを見いだせなかったサンは東大受験に落ちてしまいました。一浪して、前期は東大に、後期は筑波大学に出願した時には学部はどこでもよいと思い、鉛筆を転がして決めました。鉛筆転がしで選ばれたのは「筑波大学情報メディア創成学類」という学部でした。

偶然か必然かコンピューターを扱う学部でした。小学生のころからパソコンやインターネットに触れていたサンには好相性でした。サンは水を得た魚のように研究と勉学にのめり込みました。

そして在籍中に、世界で初めて薄膜の反射制御スクリーンの作成に成功し、BBCなどのメディアに取り上げられました。

あれ、この人何となく知ってる気がする・・・。


そうです、おわかりの人もいるかと思いますが、サン=落合陽一さんなのでした。

落合陽一
1987年生まれ。メディアアーティスト。東京大学学際情報学府博士課程修了。筑波大学准教授。筑波大学学長補佐。筑波大学デジタルネイチャー推進戦略研究基盤代表。

彼の半生に触れることで現代の天才と呼ばれる人物がどのようにつくられたのかが良くわかります。幼少期から大学に入学するまで彼は一貫として自由に自分の道を歩んでいるようにみえます。

自分の進むべき道を自分で選び学び表現してきたことが良くわかります。世の中に出回る「天才の育て方」のような自己啓発本が多くありますが、彼は良い教育と指導を受けてきたことは間違いありませんが、自分で学ぶことの補助的役割として指導者が存在しているようにみえます。

幼少期の毎日違った習い事をすることで、多くの刺激を受け才能を開花させてきたように思われますが、あくまでも親がやらせたのではなく、本人がそれを望んでいたにすぎません。

彼の半生をみていると人の遺伝的な要素というのは非常に影響を与えているのだろうと言わざる得ない。親の立場で言えば、毎日習い事を進んで習いたいという強い好奇心は外的要因で誘発させるのが難しいことを嫌でも痛感させられています。

しかし、それと同時にわかることは、人という生き物は「自分が自ら考えて選択した行為でなければ良い成長は難しい」ということでしょう。

ならば、自ら考えて選択した行為は非常に価値があり、人の成長に役立つことになります。人は死ぬまで学び続けなければなりません。それなら、自分の選んだものを突き詰めて夢中になることが、一見無駄なように感じてもいずれは自分を助ける糧になるのかもしれません。

まさに「好きこそ物の上手なれ」ですね


                               おわり

参考文献:「0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書 落合陽一著」

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no.44 2020.12.11




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