#59 永遠を生きることは罰(2)

*これは#58死について考えよう(1)のつづきです。

死はなぜ良くないのか


人が死ぬ境界線は先に述べたように、自我によって身体を動かすことのできなくなり、永遠に自我が回復することのない状態だとわかった。

では、死はなぜ良くないのだろうか。

そこには三つある。

第一に、 絶対的に良くない

死はこの世の生きている人が誰もがいずれ経験するが、経験した人がいないため、本質的に良くないものだと誰もが思っている。そこには体感したことのない痛みがともなうのだろうと人は感じる。人は痛みを本質的に嫌がる。そのため、痛みがともなうであろう死は絶対的に良くない。

例えば、バンジージャンプを想像してみよう。自身の足首に蔦を縛り陸橋から川底へ飛び込む行為だ。これを人は想像したときに、面白そうだからやってみようと思うだろうか。

経験者が誰一人いない場合、生きている保証はないし、もしかしたら蔦がほどけてそのまま落下し、骨折のような酷い痛みをともなう恐れがある。そのような状況下では誰もが尻込みし「そんなことはするもんじゃない」と思うだろう。

しかし、バンジージャンプを経験した人が「とてもスリリングで貴重な体験だった」と言ったとする。すると、一部の人においては「するものじゃない」から「してみても良いかも」と考えが変化することがある。未知のものに対し良いか悪いかの判断は非常に難しいが、経験者がいればその人の情報により判断材料が増え、より多様な考えが生まれるためだ。

第二に、間接的に良くない

たとえそれ自体が良いとしても、それが引き起こすことや、招く結果が良くない。なぜなら、それ自体が本質的に悪いことにつながりかねないからだ。

例えば、仕事を失うことは、本質的には悪くない。それ自体は悪くないが、間接的に悪い。なぜなら、仕事をしないことで、得られるはずの報酬が得られず、生活が困窮するおそれがあるためだ。もし、そのようになって生活が困窮した場合、今度は困窮による痛みや苦しみが生まれ、本質的に良くなくなる

第三に、相対的に良くない場合がある。

経済学者が「機会費用」と呼ぶ現象のように、自分が何かを得ているせいで、手に入れそこなっているものがあるために、現に手に入れているものが悪くなりうるためだ。

機会費用(きかいひよう、英: opportunity cost)とは、時間の使用・消費の有益性・効率性にまつわる経済学上の概念であり、複数ある選択肢の内、同一期間中に最大利益を生む選択肢とそれ以外の選択肢との利益の差のこと。

たとえば、わたしがあなたに二つの箱を見せ、どちらか好きな方をプレゼントしようと言う。あなたは、左右どちらかの箱を選び、箱の中には、10万円の金貨が入っていた。あなたは、ガッツポーズをし喜ぶだろう。

しかし、あなたが選ばなかった箱の中には金の延べ棒が一本入っていた。すると、あなたはオセロの駒をひっくり返すように、今度はがっかりすることだろう。このとき、本質的にも間接的にも悪くはないが、相対的には良くない

このように選ばなかった方が価値がある場合、相対的によくない。

とりわけわたしたちにとって良くないのは、相対的なものだ。もし仮に、絶対的に良くないとしても、それを確かめるすべはなく、確かめられた時にはもうこの世にいない。また、間接的に悪いことも主観的に考えれば、直接的ではなく、死後悪影響があるとしてもわたしたちはそれを体感も経験もできない。

しかし、相対的に死はわたしたちが得られるであろう良いものを、奪い去っていくように思える。わたしが今死んでしまったら、これから生きるであろう歳月に得られる良いことを経験できなくなってしまう。

たとえば、三日後にお気に入りのアーティストのライブを観る予定があるとして、今日死んでしまったら、ライブで得られるはずの感動や高揚が得られない。

つまり、死はそれらをわたしから奪っていくのだ。

これは、死の害悪あるいは悪さを説明する「略奪」説としてしられる。

 不死の私


わたしたちが死について悲観的に感じるのは、略奪説にあるようにわたしたちから人生で享受できると思われる幸福を奪い去って行くからだと理解できる。では、死ぬことのない「不死の私」を得られたら、人生で享受できるはずのすべてを得ることができるのだろうか。

試しに不死を体験してみよう。

わたしたちは、精子と卵子が出会い受精卵となった時点から不可逆的に止まることなく細胞分裂を繰り返し個体となる。生命の誕生を受精卵とするならば、誕生から死にいたるまで、一度たりとも止まることはない。

当然だが呼吸を止めてしまえば、酸素不足になるし、水分を取らなければ脱水症状になるし、栄養を取らなければ餓死してしまう。生きるためにはこれらの作業を定期的に繰り返さなければならない。空気を入れた風船のように成人までに膨らみ、あとは緩やかに萎んでいく。

「不死の私」とは、あくまでも身体ではなく自我であるあなたのことだ。なぜなら、わたしたちの考える死とは、自我の消失であるためだ。

成長過程を終えた私は、やがて成人し社会生活を始める。これから先私は死ぬことはない。社会生活をはじめいつしか運命の人と結ばれ結婚する。やがて子どもに恵まれ子育てがはじまり青年期から老年期に入っていく。成人した子供たちが伴侶と出会い、私には孫ができた。

しかし、人生の多く幸福を手にした私はやがて100歳を過ぎ、身体は少しずつやせ細り目も霞んできて、足腰が痛くなる。120歳を過ぎたところだろうか、自身では身体を動かすことが困難になり、話す言葉もかすれ始める。

身体の臓器は、加齢による劣化で活動が遅くなり、さまざまな活動に支障をきたしはじめる。心臓の伸縮回数もすくなくなり、肺が取り込む酸素の量も少なくなった。

しかし、私は不死なので死ぬことはない。

やがて、身体の終わりを告げるように体が動かなくなり、その場から一歩も動けなくなる。ミイラのように干上がった肉体はもはや、私だという面影は一切ない。しかし、頭蓋骨の中にある前頭前野の私は健在だ。

幸い視覚野からの情報は入ってくるので、外の世界は認識できる。世界の片隅で、世界の変貌する様を見続けることはできるだろう。なぜなら、私は不死だからだ。

どうだろうか、不死は素晴らしいものに感じただろうか。

このように身体が朽ち果ててしまったら、自我が生き続けても身動きがとれなくなってしまう。そのため、世に出回る永遠の命は「不老不死」である不老も付け加えられるのである。

では、不老不死になったらどうだろう。試しに25歳の私が永遠に生きることを想定してみよう。

私は成長過程を終えて25歳になった。これからは、私の肉体は成長も衰退もしない。意気揚々と25歳の永遠の人生を200年過ごした。人の寿命の2倍以上の人生を過ごして私は幸せだ。

しかし、悲しいこともあった。最愛の人が93歳でなくなったのだ。出会った頃は互いに25歳で、いつの間にか最愛の人が年上となり、老人となった。同時に子どもだった息子も、25歳を境に年上となり、私が123歳のときに亡くなった。

息子の子である私の孫は156歳のときに亡くなった。今は、ひ孫である老人が病気で床に臥せている。しかし、私は不老不死なので死ぬことはなく年をとらない。この近親の深い悲しみを繰り返し経験するうちに私は、人と深く関わることを避けるようになった。

その後、私は家族を持たず一人で暮らした。

そして700年が過ぎたあたりから、私は人生で行いたいものがなくなった。時代は変化していくが、自分の蓄積された経験の方が多くなり、何をしてもつまらなくなった。

初めて食べたアイスクリームは感動的な美味しさだったが、何百年も毎日食べていれば飽きるように、すべての経験が経験済であり、未経験なものはもはや何一つなくなった。

そして、1000年を過ぎた辺りから、何もしたくなくなり希薄な日々が続いた。

それでも私は死ねない

どうだろうか、わたしの不老不死を幸福に感じた人はいるだろうか。少なくとも私自身は、不死も不老不死も魅力は感じなかった。

魅力を感じなかった点は二つある。一つは、不老不死といえども痛みが発生する。なぜなら、幸福を感じるためにドーパミンがでるためには感覚器が正常に機能していなければならないためだ。

つまり、死ぬことはなくとも、不老不死の身体を傷つけられれば痛みは感じるし、普通の人が死んでしまうような事故に遭った時には身体が再生するまでに痛みを受け続けなればならいのだ。

死なないことは、痛みがないとこではないのだ。もし、痛みの感じない身体を望むなら同時に幸福も感じられなくなる。この場合、生の実感を得るのが非常に難しくなるだろう。何も感じられない身体で永遠を生きることは、恩恵よりも罰に近い。

また、自我である不死の場合においても、身体が機能していなければ意識はあるが寝たきりの状態と変わらない。そのような状況下で永遠を生きることも罰に近い。

お気づきになった方がいるかもしれないが、不死とは植物の木のようなものであり、不老不死とは機械のようなものだ。

わたしたちは、今ここに生きている以上、進化の過程で植物ではなく動物を選択し、霊長類の中のホモサピエンス種を選んだ。この事実は、わたしたちが存在していることで証明されている。

つまり、身動きがとれなくても非常に多くの寿命を得られる方を選択しなかったのだ。たとえば木の中には樹齢1000年も生きているものもいる。わたしたちは、そのような木をみて自分もこうなりたいと思う人はいないはずだ。1000年の寿命を得られなくても自由に自分の意思で動き回れる100年を選ぶのではないだろうか。


つづく


参考文献「DEATH シェリー・ケーガン著」

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no.59 2021.3.26



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