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【感想】南極ゴジラ『怪奇星キューのすべて』at 北千住BUoY

何はともあれインドカレー。

このnoteのプロフィールで僕は「演劇の感想を言います」などと謳っておきながら、ここに至るまでの2回、全く演劇から遠い記事を書いていたので、そろそろ演劇の感想を書こうと思う。
記念すべき(演劇関連記事の)第1回目は……

南極ゴジラ『怪奇星キューのすべて』
@北千住BUoY

なんともう全席チケット完売しているらしく、「これから見る人へ…」みたいな記事を書いても全然意味がない感じがするので、ネタバレゴリゴリの記事を書きます。なので観劇予定の人はこれから先を読むか読まぬかは自己判断でお願いしたい。
今回チケットを取れなかった人には、ぜひこの記事を読んでもらって「うぉ〜なんか楽しそうやん?次回公演は絶対観たろ」と思ってもらえれば幸いである。

だが、「なんだよ!じゃあ俺この記事読めねぇじゃん!」とチケット予約済みの方々に思われるのも何なので、とりあえずひとつお役立ち情報として、僕が観劇前に食べたご飯の情報を載せておく。

会場である北千住BUoYから、車椅子で10分弱(普通に歩けば多分5分)くらいのところにある「ウェルカム」という居酒屋(とサイトでは謳ってるが印象は完全にインドカレーの店)を紹介したい。

僕が今回頂いたのは、この店の1100円のディナーセットで、なんと1100円でカレー・ナン・ライス・サラダ・ドリンク(マンゴーラッシー美味かった…)が楽しめる。怪奇星キューは2時間超えの作品なので、観劇前の腹ごなしには最適である。店員さんもフレンドリーだし。ぜひ。

写ってないけど小皿でサラダも付いてきて1100円である。

以下、ネタバレないし印象を与えかねない文言の羅列。

ちなみに前半はほぼ劇団の紹介なので、「まぁそれくらいなら…」と思ってもらえるなら、読んで頂きたい。


Twitterで出会った最後の劇団「南極ゴジラ」

南極ゴジラという劇団に出会ったのは、7月の半ば頃、twitterのAPI制限が起き、スレッズへの大移動の後、青い鳥が飛び去ってしまう、その一連の瓦解の少し前…僕たちが好きだったtwitterの(その予期せぬ)晩年で出会ったいわば「最後の劇団」、それが南極ゴジラだった。

ゼロ年代的狂騒(こだわりの詰まった混沌)

ファーストルックとなった『怪奇星キューのすべて』のフライヤー。絵の素敵さ・カッコよさもさることながら、僕が心惹かれたのはそこに書かれた「恐怖と笑いと詩のSF演劇」という文言。

公演フライヤー

「……好きな単語のビュッフェ状態じゃん」

だが、この5単語(恐怖・笑い・詩・SF・演劇)を一挙にやるって相当難しくないか? だがその試み、その野心、嫌いじゃないぜ。
ということで、即刻予約をした。
調べてみると、南極ゴジラは、王子小劇場が主催する「佐藤佐吉演劇祭」で5部門を受賞したという今をときめく劇団らしく、SNS等からも自信と勢いが感じられる。
加えて、なるほど公式サイトなどを覗いてみると、レトロ感もありつつポップ、そしてlo-fiな抜け感もある…「こりゃあ皆好きだよ俺ら世代は」と思ってしまう24歳男性。一周回ったゼロ年代的狂騒がノスタルジックを呼び起こしてくれる(象徴的な単語を多用し過ぎだな俺)。

細工は流々仕上げを御覧じろ

そして、劇場の雰囲気、グッズ、当日パンフまで、世界観が徹底されている感じがした。世界観とは言っても「ゼロ年代的狂騒」言っちゃえば「整然とした混沌」みたいな感じなので一言でパッとは表しにくいのだけど、例えば、開場中と休憩中に行われる物販は(劇中でも使われる)移動式の屋台にて行われたりと遊び心に溢れていたり、早期予約特典でミニ人形がもらえたり、上演台本が文庫本のような装丁が施されていたりして(それで1000円と言うんだから太っ腹だ)、こだわりを感じる。「細工は流々(ないし粒々)仕上げを御覧じろ」と言わんばかりの心配りである。うーん、好き!


区切り線以下より、マジで作品内容に触れますので留意されたし。


上演台本



予約特典でもらえる人形。かわちい。


感想に入る前に

では作品の中身に入っていく。もちろんポジティブな結論にする予定なんだけれど、その過程で作品に関するネガティブな意見も出てくる。だが、これも一意見と受け取って頂ければ幸いである。

あらすじ

ストーリー
彼は恐怖症のパレードのような男だった。
高所恐怖症や閉所恐怖症はもちろん、幽霊恐怖症や病院恐怖症や電話恐怖症になったし、さいごは恐怖症恐怖症にまでなった。日に日に怖いものは増えていった。

そんな彼はある日テレビで観た一遍の詩をきっかけに宇宙飛行士を目指し始める。時代は宇宙開発競争の真っ只中、大国と大国による冷戦に巻き込まれることになるとは知らず、彼は小さな一歩を踏み出した。
400万年がたった。
月でのミッションを終えた、 甘電池(かんでんち)、森山ボンド (もりやま・ぼんど)、 UB (ゆうびぃ)、3人の宇宙飛行士は地球への帰還中、 謎の救難信号をキャッチする。 信号に引き寄せられるように知らない星に辿り着くと、 そこは人間が持つ「こわい」という感覚が何よりも価値を持つ奇妙な星だった

『怪奇星キューのすべて』当日パンフレットより

全ては「人の手」によって引き起こされる
~『怪奇星キューのすべて』感想~

「連続性のカタルシス(グルーヴ感)」の不在

この135分間の劇の最大の特徴は前編70分のなかで、15分毎に座席の移動がある点だ(ちなみに後編は55分で移動ナシ)。
座席の種類は3種類(前方から桟敷、ミニ椅子、パイプ椅子。価格差ナシ)あり、観客は入場時に自身で三種類の中から好きな席種を選択するという形になっている。選んだ席種は前編が終わるまでは変更できず、移動の際は桟敷クッションとミニ椅子の選択者は自身で椅子やらクッションやらを持って指定された場(次のアクションエリア)に移動する。ちなみに、パイプ椅子選択者は、移動先のエリアにパイプ椅子が設置されているので、好きなパイプ椅子に座る仕組み。
と、こんな感じで劇場内公演でありながらツアー演劇を観ているかのようなシステムになっている。これが恐らく観客の好き嫌いを分ける(気がする)部分で、前半部分は、劇世界に没入しかけたタイミング(15分)で場面転換という名の移動が発生するので、イマイチ、波というかグルーヴ感みたいなものを掴みきれない感じがあった。
もちろん、昨今はTikTokはじめショートコンテンツ優勢の時代なので、逆にノりやすいという観客もいるかもしれない。だが、シーン毎に緊張が高まった状態で次のシーンへ、といった構成上、どうしてもわらわらと移動する観客や、ガチャガチャと立てられるパイプ椅子、シーンの終わり毎に丁寧に次の場へと誘導してくれるスタッフ(それ自体はめっちゃいいこと)など、劇世界的には、断絶し、失速してしまう感じは否めない。
もちろん、場の統一感を保つ工夫として、移動のタイミングでは架空(?)のラジオ「やさしい地球」がオンエアされており、丁度いい塩梅につまらないお便りを読んでくれていたり、前提として舞台美術が点在しているのでアミューズメントな雰囲気があって楽しいのだけれど、個人的には移動のない後半55分の方が物語にしっかり入り込めて楽しかった。

キャラクターの薄さ

また、作劇上で気になったのは、各キャラクターの薄さである。
4がラッキーナンバーの宇宙飛行士、牛人間、顔を見せられない怖い眼医者、300年同じ場所に引っかかっていたアナログテレビ、スランプに陥って冷蔵庫に籠もりきりのホラー脚本家など、もう本当にワクワクする設定のキャラクターがたくさん登場するのだが、そのどれもが薄い。もちろん、それこそ『アドベンチャータイム』的な感じで説明しない面白さもあるのだけれど、自己紹介をした時がピークといった感じで、各々のキャラクターのその場所絡みのエピソードだったり、キャラクター同士の絡みで見えてくる関係性みたいなものが希薄なのは勿体ない感じがした。
また、音の悪さが今回(8月3日19時回)は目立っていた。前編では俳優がピンマイクを使っているのだけど、それが声を拾ったり拾わなかったりで、少々ヤキモキさせられた。もちろん、演出意図として「宇宙で交信してるから音は響いたり響かなかったりするのだ」と読み取れないわけでもないのだが、やはり音像の統一感のなさは観客を引き込みきれない感じがある。せっかくの生演奏も劇世界と隔離している感じ(後付け感)がある。
……と、ここまで散々ネガティブな意見を言ってきたが、
この意味合いを(個人的に)見事にひっくり返されたのが後半部である。

全ては「人の手」によって引き起こされる

僕が特に気になったのは前半部、いわゆる移動時のパイプ椅子を立てるガチャガチャ音で、この音が何とも僕たちを現実に引き戻してくる。僕たちはシーン毎、自分のなかでスイッチのオンオフを切り替えなくてはいけない。僕は思った。

「怖いと言っても、所詮は全て人の手で起こされたものじゃないか」

僕は思いもしなかった。
この感想がまさかラストシーンで劇的な意味の転換を起こすとは。

後半部は、この世のありとあらゆるものが恐怖症の男、9号が主軸となり、タイトル通り「怪奇星キューのすべて」が明かされる。
この後半部、特に演出が光っていて、美しいシーンがいくつもあった。
僕が特に好きだったのは、9号がスプートニク9号で半ば強制的に宇宙に打ち上げられてしまうシーン。前半部で珍奇なキャラクターを演じていた俳優たちが白い衣装に身を包み、闇と白光の間に佇みながら、キリンジの『エイリアンズ』でもってスプートニク9号を見送るシーンは残酷でありながらもとても美しかった。『エイリアンズ』をあの使い方するのは流石としか言えない。

そして何よりも語りたいのはラストシーンだ。
キャラクターの一人、ナショナルテレビの切なくも楽しい葬儀を終え、主人公(甘 電池)はスプートニク9号によってキューからの脱出を試みる。ここが非常に演劇的で、このスプートニク9号、デカい板に車輪がついただけみたいな感じなので、全然前に進まないのだ。
全然進まない主人公とスプートニク9号を見て、僕は思った。

「え、そんなバッドエンドありなの…?」

絶望しかける主人公。だがそこで、スプートニク9号が少し、前進する。
何が起こったか。
実はキューの地上ではナショナルテレビを喪って、ダンスパーティーが行われており、キューに生きる亡者たちが踊りながら、足や腰などで少しずつスプートニク9号を押していくという演出が施されており、単独では全く走行能力を持たないスプートニク9号が、キューの「怖い」住人たちによって、少しずつ地球に近づいて行くという……泣けちゃうね

そう、全ては「人の手」によって引き起こされているのだ。
怪奇星キューにおける「怖い」も、また『怪奇星キューのすべて』の上演も、その全てが超常現象でなく、例えそう見えたとしても、元を辿れば「人の手」という名の「努力」、「仕事」によって生まれているものなのだ。

「優しいお化け屋敷」としての『怪奇星キューのすべて』

そう考えると、『怪奇星キューのすべて』という公演そのものが「優しいお化け屋敷」とでもいう様な構造を持っているのだ。
シーン毎の観客の移動なんかはとてもお化け屋敷的だし、(チープな)お化け屋敷に散見する「(人形が動く仕掛けなどの)人の手仕事がよく見える感じ」や「音像の薄さ」「数多の種類出てくるがどこか統一感のないキャラクターたち」などの(チープな)お化け屋敷的要素を、この『怪奇星キューのすべて』は持っている。
言わば「優しい(怖くない)お化け屋敷」と呼ぶに相応しい要素と構造を持っているのだ。

「怖さ」も「優しさ」もそして「感動」も、そのどれもに「人の手」が介在している。
それに気付く時、僕たちは「人の手」が持つ可能性の大きさに深く驚かされるのだ。

「怖い」は「生」を前進させる。

この物語が持つ主たるメッセージは、「『怖い』は『生』を前進させる」といったところだろうか。ラストシーンのスプートニク9号前進の演出などはそれが非常によく表れていた。
前項の「人の手」の話に絡めれば、現実世界でも、「人の手」は「怖い」を生むものである。だからこそ、僕らは他人が怖いのだ。世界が怖いのだ。
だが「人の手」は、それと同じくらい、いやそれ以上に「優しさ」を「希望」を「感動」を生むもののはずだ。
この作品が持つ「優しさ」も「感動」も人の手が生んだものなのだ。

北千住BUoYは劇場が地下にあるので、僕はスタッフの肩を借り、手を繋いでもらって階段を降り劇場に向かい、そして終演後、また同じようにして階段を登って劇場を出た。
僕をこの「怖い」演劇『怪奇星キューのすべて』に向かわせてくれたのは「人の手」であり、劇場から現実世界へと向かう「生」に前進させたのもまた「人の手」であり、そして『怪奇星キューのすべて』であった。
その意味でもやはり、「怖い」は「生」を前進させるのだろう。
そんなことを考えながら、劇場の出口へと階段を登っていった。
蒸し暑い夜だったが、僕の手を握るスタッフの方の手の熱には、なにか心地よいものを感じた。

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