第二夜【鬼の子】scene8

★★★☆☆☆★☆

 昼休み。それは起こった。
 食堂を訪れるとすでに京子と知恵が一緒にいて、ソラは話しかけるのを躊躇っていると、背後から渡辺がやってきて声をかけた。
 ソラは気恥ずかしかった正直に、
「京子と話すつもりだったけど先約がいるらしいから、一緒にどう」
 と言うと、渡辺は席に目をやった後ソラに戻して、
「お前、知恵のこと好きなのか?」
 と言った。反射的に首を横に振ると、渡辺は少し安心したような顔になって、
「じゃあ京子の方か?」
 と訊いた。
「だから違うってば!」
 言葉に力が籠ってしまったことを恥じ入っていると、渡辺が何食わぬ顔で歩いていって、京子たちに声をかけた。会話の間際にチラチラとソラの方を見やる。
 誘われるがまま席に着くと、ソラは京子と隣り合う形になった。二人の手元には弁当があって、向いに座る二人は食券を買ってくると言って一旦出て行った。
 ソラと京子はコップに水を注ぎ、二人両手で持って四人分を拵えるなどして、再び席に着くと、ちょうど天体観測部の後輩と共に来ていた木下が、給仕の女性に食券を渡ししているのが横目に入った。
 さわやか定食、通称S定は、一日二十食の限定メニューである。密度の異様に高い肉塊のハンバーグが、鉄板の上に乗ってサーブされる。木下は今まさに、その売り切れを宣告されていた。
「まだ十二時十分だっていうのに、なんで」
 木下がごねると、女性はふてくされた顔をして、ナイロンのお玉でフロアの中心あたりを指した。
 火継だ。
 彼女の周囲は、ドーナツ化現象のように席が空いている。
 ガニ股で椅子に浅く座る火継の目の前には多量の鉄板が積み上がっていて、肉塊ハンバーグに箸を突き刺し、りんご飴のように持ってかじりついている。その近傍に、無数のライスと味噌汁の茶碗だけが手付かずのまま置かれていた。
 木下が、何だあの女は、S定ひとりじめかよ、と恨み節を吐いた、
 ソラは京子の方に体を寄せて、何か普通の話しをしようとした。頭に浮かんでいたのは、彼女に合わせたオカルトのことや、得意な天体観測のことだ。しかしその時何か大きなものがズボンの左ポケットに引っかかり、違和感を走らせた。
「あれ、なんだこれ」
 ポケットを探ると、一筋縄では取り出せない何かが中につっかえていた。ゴムとプラスチックの肌触りがある。仕方なく立ち上がって引っ張り出すと、ごつい大型のゴーグルが姿を現す。
「なによそれ。ボブスレーでもするの?」
「ボブスレーは四人いないとできないよ。それより、これは確か三限の技術で……」
 ハンダゴテの実習があった。練習用の基盤に、溶けた金属の玉を垂らしていく。ソラはこの手の授業に疎く、危うく熱する部分を持ちそうになったりあまりに危なっかしかったので、技術教師の野田がソラをその気にさせるために渡してきたのが、合成プラスチックの防護用ゴーグルだった。
「ちょっとかけてみてよ」
「嫌だよ恥ずかしい」
「じゃあ何のために出したのよ」
 そりゃ股にひっかかってたから、と言いかけてソラはやめた。京子のことだ、あとでごね始めるに決まっている。やった方が早い。
「なにそれ、似合わなさすぎる!」
 ソラは黙ってゴーグルをかなぐり取ると、机の上にドンと置いた。
「床無火継ッ」
 その時、野太い声が食堂に響き渡った。後ろの入り口から、徳川勇を先頭に、風紀部員たちが軍隊の行進のようになだれ込んで来る。
「貴様の髪、やはり届けが出ていないことがわかった。校法第十六条第二項に違反する。しかしそれはもはや些末なこと」
 佐藤は面白がって、風紀部の詰問を観察している。
 火継の正面に立ち、徳川は部員のひとりから調書らしきものを受け取ると、
「先日西校舎で見つかった非常階段の破損事案。これに貴様が関係しているという証言が得られた。校有備品の破損! これは校法第十条第一項に違反する。さらに生徒への恫喝。下駄箱の破壊。多目的トイレの便座の破壊。挙げ出したらキリがない」
 と、低い声は終いには呆れ返って上ずっていった。そして調書をぐしゃりと握り潰すと、火継の頭部を指差して言い放った。
「そのふざけた髪が全ての元凶。体の悪は心を犯す。そして心の悪は体を悪に慣れさせる。貴様は悪に染まっている」
「わかってるじゃねえか」
 火継の両の目玉がぎょろりと徳川を向く。
「精神は肉体に作用する。この髪はアタシの絶望そのもの。アンタらにわかるはずがねえさ。文明の飽和地点でゆりかごに揺られる乳飲み子どもにはなぁ」
「何を訳のわからぬことを言っている。さっさとここを出ろ」
 徳川が怒声を上げると、風紀委員たちは火継を一斉に包囲した。
「触んなよ」
 火継は腕を振り払った。かき乱された熱風の波がソラの鼻先まで届く。
「軍隊の真似事かよ? 戦争の何を知ってるのさ」
「貴様こそ何を知ってる」
「アタシはこの目で見てきたからね。闇市で売られる人肉入りのスープ。八月六日に哨戒した爆撃機の影。秒速一キロで広がる六十テラジュールの爆風」
「気でも触れたか」
 徳川が嘲笑を込めて言った。
 火継は何も言葉を返さなかった。ただ俯いて、力を押さえ込んでいるように見える。
 徳川は首を傾げた。そして今が好機とばかりに、じりじりと包囲を狭めていく。
「ダメだ」
 その時、火継は絞り出すように言った。
「アタシの力ではもうダメだ。寄るな」
 風紀部員の女子生徒が突出して、火継の腕を掴もうとした。
「寄るなって言ってるだろ!」
 女子生徒は熱せられた鍋にでも触れたように、あつ、と叫んで手を引っ込めた。と同時に、けたたましいアラームのような音が鳴り響く。
 火継は腰の装置を確認すると蒼白になった。脇目も振らず、女子生徒を突き飛ばして走り出した。その後を一拍遅れて風紀部員たちが追っていく。
 ソラは痺れを切らして立ち上がった。その目はある種の信頼に満ちている。京子は行くの? と問いかけた。ソラは迷いなく頷いた。
「だったら一つ話しておかなくちゃ」
 京子は先日の体育の授業に来る前に何が起こったかを話した。火継が生理になったこと。今回で六度目、つまり半年前に始まったこと。そして今の今まで、誰からも対処の仕方を教わらなかったこと。ずっと一人だったこと。
 定食コーナーに並んでいる知恵と渡辺に声をかけると、食堂を飛び出した。売店の手前でファンタグレープを握り締めたセンジと合流し、風紀部員たちを追う。
 校庭へ出たところで、最後尾の男は姿をくらます。息を整える三人は、それぞれ周囲を見回した。
 次の瞬間、雷鳴のような音が轟き、全ての視線が上を向く。上空がほのかに赤らんでいる。西校舎が窓枠をがたつかせて小刻みに震えている。
 三人は頷き合って、再び走り出す。

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