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サッカー選手にも芸名が必要ではないか

人間には、いくつもの顔がある。

 さっそくサッカーから離れるが、オードリーの若林さんは芸名を付けなかったことを後悔している。

ぼくは、芸人としての自分に対して後悔していることがある。
それは、芸名を付けなかったことだ。
別の名前が欲しかった。
若林正恭という本名の名残もないほどにかけ離れた芸名〝X〟を名乗っていれば、テレビでの発言もその〝X〟のコメントとしてよりハッキリと分人化できたのではないか、と。

 分人主義とは「人間には、いくつもの顔がある」ことを肯定する考えで、分人はそれぞれの顔のことだ。これまで個人は分割不可能だと考えられていたが、分人主義では対人関係に合わせて複数の分人に分割可能であり、そのすべてが「自分自身」である。確固たる自分にとらわれる必要はない。
 これは作家の平野啓一郎さんが唱えた考え方で、より詳しく知りたい方は著書を読んでほしい。

全ての言動が本名に紐づけられる

 冒頭の若林さんのような悩みを持つサッカー選手は多いのではないか。サッカーに限らずスポーツ選手はピッチ内と外では全くの別人で、つまり選手はみな分人を持っている。モチベーションを高めて試合モードにスイッチを入れることは、分人の切り替えには不可欠なのだろう。それくらいそれぞれの分人は異なっている。
 ただ日本人のサッカー選手の多くは学生時代に名前が知られており、本名でプレーしている。そのためピッチ内と外で異なる分人を一つの本名で包括されている。
 さらには最近ではクラブ広報や選手のブランディングのためメディアやSNSでの露出が増加している。世間との接点が多くなると分人も増える。この点においては芸人と大差はなく、若林さんと同様である。しかし一つ違うのは、サッカー選手には芸名はなく全ての言動が本名と結びつけられていることだ。
 現在は自ら積極的に露出を増やす選手もいるが、消極的な選手でさえサポーターへのコメントがSNSで発信される。本人の意思に関係なくピッチ内外で存在する分人が増え、それらすべてが本名で統一されてしまうことに息苦しさを覚える選手も多いのではないだろうか。

芸名で個人を分割する

 スポーツ選手における分人だと「イチロー」がわかりやすい。鈴木一朗にとって「イチロー」は一つの分人なのだろう。「孤高でストイック」なイメージをイチローに持たせてきた。

鈴木一朗とイチローは別人です。鈴木一朗がイチローに、作品を作らせている感覚です。

 過去にはメディアが作り上げた「イチロー」が一人歩きしたこともあった。イチローほど注目度が高いと分人のコントロールにも苦労するのだろう。ただもし「鈴木一朗」個人に「孤高でストイック」なイメージが乗せられていたら、押しつぶされていたのではと邪推してしまう。
 本田圭佑の"Little Honda"や"ケイスケホンダ"も分人だろう。内なる自分と言い換えられるかもしれない。プロフェッショナルであってほしいと願うメディアや人々(本田圭佑自身も含む)に相対した時に生まれたのが「ケイスケホンダ」であると考えれば、それも一人の分人だ。
 このようにスポーツ選手は環境や求められることに合わせて見せる顔をコントロールしている。SNSによって一般人でさえ複数の顔を持つことに苦労している。より露出の多いスポーツ選手の苦労は想像を超えるだろう。 
 現状、Jリーグは日本人選手の本名以外での登録を認めていない。強いて言えばユニフォームに通称を記載することは可能で(申請が必要)、かつては中澤が"BOMBER"の文字を入れている。
 自分の中に複数の分人を持つことは、今後のプロスポーツ選手のメンタルコントロールに必要だ。そのためにも芸名(ニックネーム)での登録を許可しても良いのではないだろうか。

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