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作家殺し【短編小説】#4

伝記の章


 彼が東京を離れたのは、僕が大学を卒業する少し前のことだった。

「東京にいるとなんでも当たり前に見えてきてしまうから、この街を出ようと思う」

 きっと色んなものに触れてみたいんだと、あの時の僕は彼の言動からそう解釈していた。それは、彼が小説を書き始めてからしみじみと口にする言葉が物語っている。

「小説を書くにあたって、自分の見てきたもの、聞いてきたもの、経験してきたもの、出会った人、これら全てが無駄にならないんだ、こんな素晴らしいことがあるか? 誰もが、自分にしか書けない物語、世界観を持っているんだ。だけどそれをうまく表現することが何よりも難しいし、書き始める人も多いわけじゃない。誰かの作り上げた世界、描いた世界、この世の生きとし生ける人の物語が自然とどこかに記録されればいいのにって、つくづく思うよ。それだけこの世界は面白い話でできている」

 僕は今でもエネルギーに満ち溢れた彼の言葉と、それを口にする輝かしい表情を思い出すようにしている。そうしないと、彼の本質的な部分を見失ってしまいそうだから、とでも言っておこう。

 齢三十にして、彼の小説が日の目を見ることはなかったようだ。

 もっとも、僕から言わせれば小説を書く人たちはもっと年をとっていて、人生経験に良くも悪くも富んでいる印象がある。ましてや同年代の友人知人で小説を書こうなんて思う人は極めて少なかった。まだまだ書き続ければいいじゃん、と口にするのは簡単だが、彼の中では三十という歳は見切りをつける節目のような歳だったのかもしれない。そんな歳だからこそ、彼の中では歯止めが効かなくなり、悪い方向に思い切りのよさが出てしまったようだ。

 彼が人を殺し、その人肉を食べてしまった様子を見せられてからしばらく経つが、僕の脳内ではあの日の出来事が鮮明に記憶され、未だに少しでも思い出そうとすると、鼻に染みついた鉄臭い血の臭いと、溝に浸かった生ごみのような酸っぱい臭いがしているような気がしてくる。

 自分も死んでしまったら、同じように腐敗臭がして、赤黒く、出鱈目に血でコーティングされたような艶やかな臓器が、自分の体内にも収まっていることを考えてしまい、何度嗚咽と嘔吐を繰り返したか分からないし、見ているだけで精神異常を起こしそうになり、正気を保つのも至難の業だった。

 僕がそんな状態になっていても、彼は闇の中で口の周りを赤黒く汚し、満足感に満ちた表情をしていたのを覚えている。

 僕はこの伝記に彼の行動の一部始終を書き記すべきかどうか未だに悩んでいる節がある。いつ、世間に彼の事が知れるのかは分からないが、このご時世、人を殺した犯人である彼が捕まるのは時間の問題で、捕まった彼の倫理観などが、テレビやネットなど至る所で議論されるのが目に浮かぶ。彼も叩かれるだろうが、僕も彼を引き留めなかったことを叩かれるかもしれない。彼の人生がそこで終わりを迎えるのであれば、この伝記はまさしく彼の生きた証になるのかもしれない。そう考えると、こうして彼と出会ったことに何か意味が見出せた気がしてくる。しかし、やはり突っかかるのは、僕はどこまで書き記せばいいのだろうか、ということだ。

 あれこれ悩む前に、彼がこのような行動をとった経緯を記さないといけない。

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