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作家殺し【短編小説】#3

歪な眼差し


 目が覚めて最初に感じたのは、体の気怠さだった。体の節々が筋肉痛のように痛み、瞼の裏には小石でも入っているかのように痛く疲れていた。
 
 鳥羽一は大きく欠伸をしながら玄関を開けた。朝だというのに外は暗く、アスファルトの上に漂う空気には湿り気があって、今にも雨が降り出しそうな天気だった。

 自宅マンションから歩いて十秒もしないところにコンビニがあり、鳥羽はそこに寄って、今週に出た週刊誌の立ち読みを始め、読み終えるなり栄養ドリンクを買ってコンビニの裏手にあるファストフード店へと入って行く。
 
 大学入学を機に上京して一年が過ぎたが、未だに自炊をしたことがない鳥羽はマンションの目の前にあるコンビニか、その裏手にあるファストフード店で食事を済ませることが多い。鳥羽は二階へと階段で上がり、隅の定位置にリュックを置いてから一階に降りてアイスコーヒーを注文した。
 
 朝のこの時間は決まった顔ぶれが揃っていて顔見知りが既に何人も席に着いている。新聞を読みながらコーヒーを啜る白髪の老人。手にしたナンクロと睨み合いをしている中年女性。白いワイシャツに社員証か何かを提げた男性は、パソコンのキーボードを叩き続けている。そしてもう一人、眼鏡を掛けた男がソファ席に横たわり、肘をついて読書をしていた。お客さんは他にもいたが見知った顔ではない。
 
 アイスコーヒーを手にした鳥羽は、黒いパーカーにグレーのスウェットというラフな格好で、ソファで横になっている男に近づいた。

「やあ大和」

 大和誠治は鳥羽を見上げ、眼鏡の位置を調節してから硬い表情をゆっくりと和ませた。

「鳥羽か。今日はいつもよりも遅かったな。寝坊でもしたか? それとも立ち読みか?」

 そう言われて携帯を手にして時刻を確認すると、時刻は九時を三分過ぎていて、普段九時前には来ているので、三分過ぎただけでこう訊ねてくる友人を面白おかしく感じ「両方かな」と言って笑顔を見せる。

 大和は上体を起こし、読んでいた本をテーブルの上に置くと、その本に鳥羽は反応した。

「あれ、大和って漫画も読むの?」

 鳥羽は、大和誠治という人間が小説しか読まないものだと認識していたので、意外に思った。

「最近は小説の中でもこういったものが流行っているんだ。だから小説以外のこのジャンルを見てみたいと思ってね。カニバリズムと言うらしい。読者にも、作者にも人気なんだ」

 大和は、作者にも、という部分を少しだけ強調していた。

 テーブルに置かれた漫画は鳥羽も知っている大人気コミックだった。人間同士が共食いをし、立場の違う種の生存と共存、そしてその弊害が永遠のテーマとなって物語が進行していく。これらの作品の最たる特徴は過激な描写にある。人同士の共食いの描写には大抵が血や臓器が出てきて、現実から少し飛躍した世界観と掛け合わせられている。気付くと好奇の目で夢中になっている事が鳥羽にも度々あった。アニメ化だけでなく、映画化までされるほどの人気があるその漫画は、カニバリズムを世間に周知させる立役者となり、その人気から徐々に、デスゲームという一つのジャンルが生まれた時のように、似たものが溢れ出ている印象が鳥羽にはあった。

 エロやグロなどの過激なものが好まれる時代だ。漫画も小説もアニメも、一つ人気のものが出てくると作者はそれが「当たる」と思うし、自分だったらこうする。といった具合に次々と似たり寄ったりのものが生まれてくる。それが流行となり、一つの時代となるのが世の常なのかもしれない。週刊誌などを欠かさず読む鳥羽には、専門的な分析はできなくても、感覚的な傾向はなんとなく掴んでいた。

 鳥羽は大和と大学で知り合ってから住んでいる家が近いことを知り、いつしかこのファストフード店でお互いに約束をするわけでもなく、顔を合わせることが多くなっていた。読書家の大和と話していると、これまで興味のなかったことにも興味がわいてくる、不思議な感覚がしていた。

 鳥羽は自分の定位置に戻るとパソコンを開き、ワードで大学のレポート課題の仕上げに取り掛かる。この土日の二日間で仕上げないとならないせいで、昨日も深夜までここに籠っていた。調べ上げた資料を見ながらキーボードを叩いていると、横目に大和が先ほどの漫画を捲っているのが視界に入ってくる。その表情はいつになく真剣なものだな、と鳥羽は頭の片隅で思い、直ぐに目の前の液晶画面に目を戻した。

 結局この日も夜までかかった。途中ダラダラと携帯を弄ったりしたせいもあって随分とかかってしまったが、鳥羽は自分のレポートよりも大和の方が気になって仕方がなかった。

 大和は朝と同じ表紙の漫画を今も読んでいる。一日中同じ漫画を繰り返し読んでいて、次の巻に進むことなく、読み終えては、また最初から、といった具合だ。 

 朝から薄暗かった窓の景色は雲もなくなり青黒く、学校帰りに屯っていた制服を着た中高生たちの姿まで消えている。

 鳥羽は大和の横たわっているところまで近寄る。

「まだそれ読んでるの?」

「ああ」淡泊な返事で視線は手にした漫画に向けられたままだった。

「ずっと同じの読んでて飽きない?」

「とっくに飽きてるさ。けど、どう読み解いてもこいつらの事が理解できないんだ」こいつら、と言うのはこの漫画に出てくる登場人物たちのことだろう。と容易に見当がつく。

 大和はテーブルに両肘をつき、頭を抱えこんでからぶつぶつと独りでに呟き始める。

「カマキリや蜘蛛も交尾の後に相手を食べてしまうが、その感覚なのだろうか。突き詰めるところ種の存続の為に、目の前にいる栄養を摂取できる手ごろな存在だから相手を食べるということなのかもしれないが。確かに、人間も普段口にしている食べ物が手に入らなければ、栄養を摂取するためには、相手を食べざるを得ない極限の状態が来るのかもしれない。いや、人間は愛する相手を食べて生きながらえるよりも、共に命を絶つことを選択するのかもしれないな」

 呟き終えると大和は鳥羽に向き直り、やや明るさを帯びて続ける。

「主人公が性交し、妊娠した女性からは人間ではない化け物が生まれてきてしまうという漫画があるんだが、知ってるか?」

 鳥羽が「知らないなあ」と答えると、大和は説明を始める。

「主人公は自分の精子からちゃんとした人間が生まれてくることを信じ続けて虱潰しに女性と性交を繰り返すが、産まれてくるのは化け物ばかりで、おまけにその化け物は産んでくれた女性を体内の臓器から喰らい尽くすっていう設定になっている。この主人公はいい加減自分の精子が子孫繁栄や人間を産むには適さないことを認めてもいいのに、今度こそはと、自分の精子を信じてやまないんだ」

「へー、そんなのがあるんだ。確かに自分がその主人公だったら信じたくなる気持ちは分からなくもないけど。その漫画って面白いの? ひたすら性交して、化け物が生まれてくるイメージしかないけど」

 大和は考え込む顔になり、少し間を置いてから「分からない」と、閑散とした店内で低く良く通る声で答えた。

 鳥羽は真剣に答える友人に、砕けたように突っ込みを入れる。

「なんだよ、分かんないのかよ。今読んでるやつはどうなの」

 そう言われて大和は手に持っていた漫画を片手に持ち、親指を器用に使って初めから最後までパラララとページを捲り切ってから口を開く。

「敢えて答えるなら面白い。さっき話した奴も見方を変えれば面白いのかもしれない。あの話は今も続いているんだが、生まれてきた化け物は母体を食い尽くした後に姿を消していき、実はこの化け物たちは日の当たらない暗いところで集まって生活をしていたんだ」

「そいつらって、みんな一人の男が生ませたんだよね?」

「そうだ。人間的に言えば異母兄弟たちが集まって暮らしている。さらに言えば、通常の人間よりも成長の早いその化け物たちは成熟するとちゃんとした人間の見かけになる。成熟したそいつらは人間社会に溶け込み始めて、生みの親である主人公を探しているところまでは分かっているけれど、何の目的で探しているのかまではまだ明らかになっていない」

「どうせ生みの親を食べたりするんだろうな、そいつら」

 そう言って鳥羽は携帯で時刻を確認する。明日は大学の講義が一限からあるので、帰って寝たい頃合いだった。

「俺は基本的に」と話を続けようとする大和を、鳥羽は掌を向けて制した。

「自分以外の全ての人間と、生み出されたものは面白いと思う。でしょ?」

 大和は静かに頷く。眼鏡の奥底から眼力に満ちた視線が向けられて鳥羽はたじろいだ。

「な、なに」

「けど、この漫画に関しては面白いと思えないかもしれない」そう言って手に持っていた漫画をひらひらと向けてくる。

「そ、そっか。とりあえず僕はそろそろ帰るよ。明日も早いからね」

 大和が再び手にした漫画を初めから読み始めるのを横目に確認しながら、鳥羽は階段を下りて行った。
 
 翌日の夕暮れ時、西武新宿線の高田馬場駅から、車体が黄色く玩具のような電車に乗り込む。急行電車を鷺ノ宮駅で降り、各駅停車の電車に乗り換え、次の下井草駅で降りた。雲がなければ改札を出た正面の大きな窓から、街を照らす夕日が見えてくるはずなのだが、しばらくは見えそうにない。

 鳥羽は大学のある日も、帰りにはファストフード店へ行き、読書や勉強に時間を費やした。そしてそこには必ずと言っていいほど大和誠治がいる。彼は昨日と同じ場所で、同じ漫画を読んでいた。黒いパーカーにグレーのスウェットを着ていて服装も同じことに気が付く。

「ちょっと外の空気を吸いに行かないか?」大和は鳥羽が来たことに気付くと、第一声でこう言うが、来たばかりの鳥羽は少し戸惑うも、彼の提案には賛成した。

「いいけど、アイスコーヒーを買ってもいいかな」

大和は「もちろん」と落ち着いた声で返事をする。

 鳥羽は友人の目元に陥没したような隈を見つけると、一日中いたのかもしれないと思い至り、先を行く彼の背中を好奇な眼差しで見つめた。

 二人は外に出て、そのまま十分ほどかけて井荻駅へと会話をしながら歩いていく。目的は駅前の小さな書店で、大和は昨日から読み続けている漫画の続きを買いたいと言い出した。

「大和でも面白くないと思うことがあるんだね」鳥羽は昨日の大和の発言を思い出し、猫背気味の友人の背中に声を掛けた。

「まだそうと決まった訳じゃないけど、面白くないと感じるものはそれなりにあるさ。考えようによっては何でも面白いと感じられるし、何も面白いと感じないこともできる。考え方の問題だ」

 大和が履いているゴム製のサンダルが素足から離れては、くっつきと、ぬちゃ、ぬちゃ、と一定のリズムで聞こえてくる。

「その考え方ってので、自分の事を面白いと思うことはないんだよね?」

 大和は少し間を置いてから「そうだな」と自分の考えを再確認するように答えた。

「前から気になってたんだけどさ、大和はどんなことに面白いって感じるの?」ぬちゃ、ぬちゃ、と二回音がした後に返事が来る。

「自分では想像がつかないこと」

 大和は用意された回答を、これ以外の言い方はするつもりがないとでも言うような口ぶりで言った。

 踏切を渡り、角にあるコンビニを曲がって商店街に入る。決して大きな商店街ではない。何か有名なお店やイベントがあるわけでもないが、最低限のものは揃えられるし、住み慣れるとこれぐらいがちょうどいいと、大和は自分の地元を気に入っている。

 書店で買い物を終えた二人はその足で近くの公園へと向かった。池や原っぱ、サッカーのグラウンドがある井草森公園は、この辺では一番大きな公園で、自然豊かなこの場所で、原っぱの端にあるベンチに二人は腰掛けた。

 街灯が灯っていても、密集した木の陰で暗く感じる中で、大和は購入した漫画を早速読み始める。

 鳥羽は空になったアイスコーヒーのカップを捨てに立ちあがると、大和は神妙な面持ちで質問を投げかける。

「なあ、俺って面白いか?」

 鳥羽は唐突に変なことを訊いてくる友人を小さく鼻で笑い、ゴミ箱に向かってカップを投げた。

「面白いんじゃないかな」

そう言って外れたカップを取りに行く。

「本当か?」大和は興奮気味に訊ねてくるので、鳥羽は「僕も基本的には自分以外の人間は面白いと思ってるからね。大和に出会ってからそう思うようになったんだ」と言った。

「俺と出会ってから?」

「うん、大和を見ていると、自分と違う部分が見えてくるんだ。その差が大きければ大きいほど僕は面白いと思う。自分には考え付かない、自分にはできない。けど、この人は考え付くし、やってしまう。そんな具合に他者との違いを面白いと思えてる。きっと大和はこんな感じの考えなんじゃないかなと思うと、なるほど確かにって共感できる部分があるんだよね」

 鳥羽が話し終えるころには、大和は隈の上を見開いていた。

 そして一言。「すごいな」と呟いた。

「全くその通りだ」

「とまあ、僕が面白いと感じるのは、厳密にいうと少し違うんだけどね」

「と言うと?」

 大和は力強く鳥羽を見つめる。

「僕は大和みたいになんでも面白いなんて思わないけど、視点を変えると面白いと感じるっていう大和の言い分には、面白い意見だなと思う。僕の中ではその辺は凄く曖昧だからね。面白いっていうのが何なのか、明確な定義があるわけじゃないんだ。だけどさっきも言ったように、僕は大和と出会ってから価値観が少し変わってきてるんだ。完全に一致しているわけじゃないけど、僕も他者との違いを面白いと感じ始めてる。だから大和のことは純粋に面白いと思うよ。こうやって価値観を変えられる存在やその出会いそのものをね」

「なら、鳥羽は自分の事を面白いと思うか?」

「うーん、どうだろうね。大和の言葉を借りれば、少しは面白い、のかな。と言うよりも、面白い要素もあるんじゃないかな。自分で言うのもなんだけど、そうであってほしいよ。願望だけど」

 そういって鳥羽は微笑んだ。

 大和は手にしている漫画を見つめ、徐に口を開く。

「鳥羽はいいよな」と呟き「自分を面白いと思えて」と吐き捨てた。

 悲観的で羨望の籠った声音を発する友人に対して、鳥羽は自分との間にこの話題に関する温度差があると感じ、少しだけ申し訳なく思った。

「どうしたんだよ。大和だって自分を客観的に見れば、面白いと思える対象じゃないの?」

 数秒、沈黙があって近くを走る車の音が際立ち、遠くで散歩をしているであろう犬が吠えているのにも気が付く。

「俺は、自分が面白いっていう確かな証拠が欲しいんだ。これさえあれば自分は面白いんだって思える何かが」

「お笑いで人気になるとか?」

 大和が求めているのはそういった面白さではない。分かっていても適当な言葉が思い浮かばず、出てきた言葉に鳥羽は少しだけ後悔をした。しかし、二人の間に生じた淀んだ空気を勢いよく掻き消すように、返ってきた言葉は予想に反していた。

大和は力強く鳥羽に視線を向ける。

「それだ」

 翌日、この日は大学の講義が一緒のはずの大和の姿が、講義室にないことに鳥羽は直ぐに気が付いた。大学が終わり、下井草駅からファストフード店へ行ってみたが、いつもの席にも大和の姿はない。鳥羽は二階席を確認しただけでお店を出て、自宅マンションへと帰ることにした。

 荷物を投げ捨て、まともに使ったことのない綺麗なキッチンに立つ。シンクの横に寂しく佇むポットでお湯を沸かして、溜め込んでいるカップラーメンで夕飯を済ませると、本棚から一冊の漫画を手に取った。昨日大和が読んでいた漫画を一巻から読み始めるが、もう何度も読んでいて台詞を全て読むのが少し面倒だった。結局現在出ている最新刊まで所々読み飛ばしながらあっという間に読み終えてしまった。

 読後に、大和はこの漫画は面白いとは思えないかもしれない、と言っていたことを鳥羽は思い出した。彼が普段読む小説には特定のジャンルが決まっていたわけではない。しかし、彼が共感できずに頭を抱えるのは、大抵は殺人が起こるものだった。

「人を殺したいと思うところまでは大体が共感できるものだけど、殺している瞬間や殺した後の気持ちになってみるのは難しいものだ」と大和が言っていたのを覚えている。

 そんな彼がデスゲームやカニバリズムに登場する人物たちに共感するのは、難儀だろうと容易に想像がついた。

 本の楽しみ方は人それぞれだが、彼のように登場人物に誰彼構わず共感しようと試みるのは、鳥羽には少し理解できない部分である。他にも、自分以外の人間を面白いと感じているからと言って、自分を面白いと思えないことに悩むのも分からなくはないが、彼の場合は真剣さがどこか歪んでいるように感じられた。
 
 それから、鳥羽が大和の姿を見なくなって二か月が過ぎようとしていた。七月に入り、蒸し暑く、エアコンのない自宅から逃げるように冷房の効いたファストフード店へ向かうと、大和の姿がそこにあった。

 久方ぶりに会う大和は髪を金髪に染め上げ、体つきも少しだらしなくなっていたので、大和だと気付くのに少々時間がかかった。

 テーブルを挟んだ大和の向かいには、肌の色が白く、目の大きなアイドル顔の女性が座っている。真っ黒の髪に、白い襟がついた黒のワンピースという出で立ちだ。二人はテーブルに拡げられたノートを見つめて頭を抱えている。

 鳥羽は声を掛けづらいと感じ、下を向いたままいつもの自分の定位置に向かおうとしたが、どうやら大和の方がこちらに気付き、声を掛けられた。

「はじめちゃんっ。ひっさしぶりー。元気だった?」

 声のトーン、話し方、名前の呼び方。それに見た目。どれもが変わっていて、鳥羽が大和の変貌ぶりに対応できずに立ち往生していると、向かいに座っている女性も無言で視線を向けてくる。すると、大和は思い立ったように鳥羽と女性を紹介し始めた。

「あ、そうだ。このひょろくていかにもインテリそうなのははじめちゃん。同い年で、大学で一緒だったんだ」女性はどこかとぼけたような表情を引き締め「どうも、しにがみです」と言って頭を下げた。

 鳥羽は一瞬きょとん、として名前を訊き返そうとするが、直ぐに大和が鳥羽に向き直り、紹介を続ける。

「ほんで、こっちのいかにも死神みたいなのが俺の相方、西上。しにがみじゃなくて、にしがみ、ね。この子普段はメイド喫茶でアルバイトしてて、そこでも死神って呼ばれてるんだよね。見かけによらずはじめちゃん並みに頭もいいから、まあ、気も合うと思うし仲良くしておくれよ」

 鳥羽が呆気にとられていると、西上という女性は「ふふ」と小馬鹿にしたように笑い、鼻先を手で擦った。

 鳥羽は申し訳程度に会釈をする。

 一体何がどうなっているのか、鳥羽は頭の中で整理が追いつかない。

「大和大学は」どうしたの。と言い切る前に、大和は「辞めたよ」とあっさりと言った。

「え?」

「いやー、さ。お笑い芸人になろうと思ってさ。はじめちゃんと公園で話した時に、お笑いで人気になれば、お笑いは面白い人の代表格みたいだし、人気になればそれだけ周囲から認められてるってことだろ? だからはじめちゃんの言う通り、お笑いで人気になるのが手っ取り早いかなって思ってさ」

「それで大学辞めたの?」

「そうだよ。あの後直ぐにお笑い芸人になるにはどうするのがいいか、あれやこれやと調べてたら、お笑い芸人を目指す人のための有名な養成所みたいなのが出てきて、たまたまそこの入学受付が五月まで延長してたもんだから、これは運命だと思って即決したよ」鳥羽は返す言葉が見つからなかった。

「そこでこの子と知り合って、今ではコンビを組んでるってわけよ」

「そうなんだ」と鳥羽は何とかリアクションしたが、頭の中で、東京には色んな人がいるんだなと、雰囲気の違う友人を受け入れるのに必死だった。

「これからはこの子とここでネタ考えたりすることもあるから、見かけたら今まで通りよろしく頼むよ。ごめんな呼び止めちゃって」

 鳥羽は大和のその言葉を合図に隅の定位置の席に向かった。リュックを置き、一階に注文をしに行くときに二人の会話がちらりと聞こえてくる。

「とりあえず、死神ちゃんのコスプレのレパートリーをリストにまとめて、そこからネタにできそうなのをピックアップしてみるのはどう?」

「いいですけど、この前の歌えないヴィジュアル系ユニット、セイジとカネコはダメでしたか?」

「ああ、あれは、俺の被害が大きいからね。別のを考えよう」この言葉に、鳥羽は友人の事を少しだけ心配に思った。

 炎天下の外界から隔離された店内は、冷房が効きすぎて寒気を感じるほどに冷え込んでいる。しばらくアイスコーヒーを飲みながら読書をしていると、大和の相方が席を立つのが目に入った。

 死神こと、西上という女性は大和に深くお辞儀をすると、ショルダーバッグを肩に提げて、背筋を伸ばしたままゆっくりと階段を下りて行く。そして間もなく、大和は鳥羽の座る席の向かいに、大きなため息と一緒に腰かけた。

「浮かない顔をしてるね」

「そう見えるか?」大和は不敵に微笑む。

「少なくとも僕には」鳥羽が答えると、大和は「いや」と発し、一呼吸入れてから続ける。

「その真逆さ。彼女はとても魅力的だ」

「確かに、可愛い子だったね。少しミステリアスというか不気味な感じもしたけど」と、初対面で死神です、と挨拶してくる彼女を鳥羽は思い返す。

「容姿も確かに魅力的なんだけど、真に魅力的なのは彼女の趣味さ。なんだと思う?」

 大和は相方といた時の喋り方とは打って変わって、鳥羽には馴染のある雰囲気に戻っている。

「コスプレ?」

 大和は力強く頷く。

「彼女は自分以外の何者かになりきる天才だ」
なるほど、と、友人がどうしてあの子を選んだのか、鳥羽は少しだけ背景が見えた気がした。

「彼女は、好きなアニメのキャラクターの衣装に着替えると、そのキャラクターの喋り方や、性格になって、食べ物の好き嫌いまで変わるそうだ」
「食べ物の好き嫌いまで…。」と、鳥羽は感心したようにぼそりと囁き、続ける。

「その死神ちゃんは女優か何かやった方がいいんじゃないかな?」

「そうかもしれない。けど、今の時点で女優に転身してもらっては困る」

「どうして?」

「彼女から学ぶことが数多くあるからだ。俺は彼女と出会ったことを最大限活かしたい」

 そう言って大和は、黒縁の眼鏡にかかった金髪の前髪を横に流した。

「なるほどね、でもまさか大学辞めてお笑いの道に行くとは思わなかったよ。親御さんとか何も言わないの?」

「言われたさ、猛烈に反対されたけど、今の世の中反対に従ってるようじゃ、自分の想いの強さは伝わらない」

「確かにそうだけど」と鳥羽は友人の意見に、どこか軽率で陶酔的な印象を持った。

「それで、一つ相談があるんだ」

 鳥羽は無言のまま大和に視線を合わせた。

「実は、家を追い出されることになってしまったんだ。色々言い訳をしながら引き伸ばしているけど、だからその、鳥羽のところに少しばかり世話になってもいいか。なるべく迷惑はかけないようにする。と言っても、迷惑はかけてしまうと思うが」

 鳥羽は一瞬思案をするが、曖昧な生返事をした。

「うーん、まぁ大丈夫だけど」

「本当か? 助かるよ。厚かましい話なんだが、早速今日から泊めてもらってもいいか」

「いいけど、何もないよ? うち」

「寝床が確保できるだけで十分だ」

「そこまで言うなら別にいいけど。念を押すようだけど、本当に何もないよ? 食べ物もカップ麺とか缶詰くらいしかないし」

「けど、本はあるだろ?」と大和は、それさえあればなんとかなる。といった表情を向けてくる。

「まあ、確かにあるっちゃあるけど」

「さすがにご飯まで世話になるつもりはないよ。そこは自分で何とかするさ」

 荷物を取りに帰った大和が、鳥羽のマンションに来たのは深夜一時を過ぎた頃だった。部屋に入った大和は開口一番に「うわ、まじでなんもねーな」と、引き渡し当初の状態に近い部屋を一周見回した。

 引越しの時から一度も開けていない段ボールもいくつかクローゼットの中に眠っていて、テレビも冷蔵庫もなければ電子レンジもない殺伐とした空間に一枚の布団が敷かれ、隅に白い本棚だけが出ている。当然、もう一人分の布団など持ち合わせていなかったので、大和は持参した布団を並べるように敷き始める。

「ここ禁煙?」

「どうだったかな、忘れた。僕は吸わないから、まあ、ベランダで吸ってくれれば大丈夫だと思うよ」

「了解」と言って、大和は水道の水をコーヒーの空き缶に入れてベランダに出て行った。

 解放された窓からは涼しげな夜風が入り込んできて、カーテンのレースが静かに靡いている。
大和は煙草をふかし、井荻でも下井草でもなく、電車の駅すらない井草の街を眺めながら鳥羽に話しかける。

「こんな何にもないところに上京してくるなんて、鳥羽も変わってるよな」

「まあね」と微笑みながら返し、自然と理由を口にし始める。

「最寄り駅は急行止まらないし。大学までは一本で行けるけど、もっと近くまでは乗り換えが必要だし、不便なのか便利なのか微妙だね。でも、都会過ぎず、田舎過ぎないところがいいなと思って探してたんだ。両方の良さを知れるし、何かあっても目立たない感じの空気感が、どこか自分に似てる気がしてさ。不動産屋に案内をしてもらってる時から物件で選ぶってよりも、この街ならどこでもいいやって、結構適当に決めたんだ」

「ふーん」とだけ言って、大和はベランダの窓を閉めて中に入ってくると、身長よりも高い白い本棚を上から左右に目を動かしながら見下ろしていく。

その背中に鳥羽は声を掛ける。

「お笑いはやってて楽しい?」

「どうだろう。まだ始めたばかりでよく分からないのが正直な感想だけど。誰かと一緒になって、どうやったら見てくれた人が面白いと感じてくれるか、笑ってくれるか、そんなことをひたすら考える行為は楽しいかな。それに、養成所には色んな奴がいるんだ。有名になりたい。お笑いが好き。面白くなりたい。気付いたらここにいた。好きな芸能人と仕事がしたい。誰よりも面白い自信があるから確かめに来た。自分にはお笑いしかない。俺はそいつらみんな面白いなと思った」一拍置いて大和は続ける。

「鳥羽は小学生の頃に国語の教科書で金子みすゞの、私と小鳥と鈴と。ってみたことあるか?」

鳥羽は直ぐに返事をする。

「ああ、みんな違って、みんないい。ってやつ?」

「そう。俺は小学生の頃にその詩を読んだとき、何故か涙が流れてきたんだ。授業が終わった後も、教科書を見つめたまま動けなかった。周囲と比べて劣等感を抱いていたわけでも、優越感を抱いていたわけでもなく、ただ純粋に、自分がこの世界に受け入れられた気がしたのを覚えてる」

「すごいね、僕はそこまで印象には残らなかったかな、なんとなく捲っていたページの一つに過ぎなかったかも」

大和は鳥羽の返答には触れずに続ける。

「詩も小説も、漫画も。読んでいると全身で反応してしまう瞬間があるんだ。感動的で、啓発的で、教訓的な言葉がこれまでの世界を劇的に変えてしまう瞬間を、言葉は作り出すことができる」
大和は本棚から一冊の本を取り出した。

「大学を辞めて、急にお笑いの道に進みだした奴を、お前は面白いと思うか?」

鳥羽は言葉に詰まる。

 彼はまだ、自分を面白いと確かめる術を探している。お笑いの道に進んでみたものの、彼は既に自分の選択に疑問を抱いているようだった。

 きっと大和は、今すぐに答えを求めてしまっているのかもしれない。鳥羽が面白い、と絶賛しても、彼は認めないだろう。実感として、面白いという証拠を彼は欲している。お笑いとは少し種の違う、もっと人間臭い面白味を彼は求めているのだろう。

「僕は」と俯き気味に声を溢し、大和の背中に向かって鳥羽は言葉をぶつけてみた。

「大和の見ている世界とか、作り出す世界を見てみたいかな」

 返事は返って来ないが、無言の背中に確かに言葉が行き届いた気がした。

 他人事の無責任な言動だと自覚しつつも、面白いもの見たさ、怖いもの見たさと言うのは責任を伴わなければ何処までも膨張していく欲求のような気がしていた。鳥羽は眠りに就く最後の瞬間まで、白い本棚の前で立ち尽す友人の背中をただ、じっと見つめ、眠りについた

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