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作家殺し【短編小説】#8


解けていく
 


 時期が夏の盛りじゃなくてよかった。十月になると街の景色に温かくも鮮やかな赤や黄色の色合いが混ざり始め、秋の訪れを感じられる。

 西上は気分転換に近くの公園を散歩していた。小さな滝から水が流れ落ち、川の流れに沿って歩いていく。池のある所まで行くと、屋根のあるベンチで池を眺めた。池は濃い緑色をしていて、紅色や黒色の鯉が時々水面に浮かんでくる。池の中央には小島があり、岩肌には亀が気持ちよさそうに、優しくもどこかカラッとした秋の日を浴びていた。

 自然に触れていると、あの空間が異常な空間だという事を思い知らされる。
大きく息を吸い込んでから、西上は鳥羽のマンションへと戻った。

 初めてこの部屋に入ったのは、もう随分と昔の事だ。何にもなかったあの頃と比べれば、随分と物も多くなってきたし、男が椅子に括り付けられているこの状況も、可笑しくてたまらない。
コンビを組んでいた相方の大和誠治、その友人の鳥羽一、西上が両者に感じたのは隙だった。
ネタ合わせの時も小説の話をしだす大和は、小説を愛し、それを生み出す作家に異常な敬意を払っているのに、自分の中にある定義と異なると、彼は頭を悩ませていた。ある意味、世間と自分との価値観のズレのようなものだと西上は感じた。世間には受け入れられているカニバリズムが自分には受け入れられない、それでも、受け入れようと試みる姿にどこか歪んだ真剣さがあった。そしてその彼を、どこか面白いもの見たさで接している友人の鳥羽は、大和の真剣さをどこか軽んじて見ているのが分かった。

 大和からある作家を殺すかもしれないと告白されたとき、西上は止めることよりも、鳥羽と同じ様に面白いもの見たさの気持ちが勝っていた。例えそれが、自分の夫だとしても。

 大和誠治の見ている世界、作り出す世界を見てみたいと言っていた鳥羽は、事が終わるまで家に帰らず、職場の同僚の所に世話になると言ってここに姿はない。

「死神ちゃん、あの箱取ってきてくれる?」

掠れた声でそう言われて、西上は赤い工具箱を玄関からとってくる。大和は工具箱を開けると、中から赤いペンチを手にした。

「何するんですか」西上が大和に訊ねる。

「噛まれないように歯を抜く。一応、窓閉めておいて」

そう言われて西上は窓を閉めた。

ガムテープをはがされた男は、六日間閉じられた口をゆっくりと開き「ぽふう」と息を吐き出した。そして、西上へと視線を向けるが、彼が助けを求めるようなことはなかった。この六日間で、彼なりに状況を把握したのかもしれない。

大和は男の顎を手で持ち上げる。

「お前はいかれてる」

 弱々しい声で男が一言いうと、大和はテーブルに置かれた工具箱に戻り、中から銀色のスパナを取り出すと、男の額に向かって一振りした。

男の額からは真っ赤な鮮血が流れる。

 西上は大和の口元から、ずず、と音が鳴った気がした。

「舌を切る前に、歯を抜いておかないとお前の小説に出てくる奴みたいに噛まれちまうからな。いい教訓になったよ、ありがとう」

そう言って大和は、再び赤いペンチに持ち変えて男の上前歯を挟み込む。

「どうだ、何か気付くことはないか」

大和に言われるも、男は黙っていた。

「お前の小説にも出てくるこのシーンは、手を噛まれた後に歯を抜こうとする。そして抜く前に、歯を食いしばれ。と言って、歯を食いしばったような表現がされていたが、こうしてペンチで前歯を挟まれた状態で、歯を食いしばれるか?」

依然答えようとしない男に大和は続ける。

「○○は奥歯を力強く食いしばるも、勢いよく抜き取られた。だったか?」

大和は最早相手のリアクションを求めていない様子だ。

「自分が考えた状況になる気分はどうだ、色々気付くこともあるだろ。お前の書く小説はちゃんと校閲がされてるのか些か疑問だな」

そう言って、左手で男の額を抑え、右手に持ったペンチで一気に男の上前歯を抜き取ると、男の声にならない声が苦しみを帯びて弾けた。

そうして、上前歯四本、下前歯五本を抜くころには、男は口をあんぐりと開き、深紅の血がたらたらと零れ、体を小刻みに震わせながら両の瞳から涙を流していた。

「六日ぶりに口にする自分の血はどうだ?」大和が訊ねる。

「生憎、俺は自分をここまで追い込んでもお前を食べようなんて思わなかったよ。これっぽっちも美味しそうだと思わない。お前が好みの女なら、抱く感情は違っていたのかもしれないがな」と言って大和は続ける。

「この六日間、もしお前を食べるならどこから俺は食べるんだろうかと、ずっと考えていた。動物の食肉みたいに腿かと考えたが、人肉を食べることにおいて素人の俺に足を切除して、それを食べるのは少しハードルが高い。あれこれ考えていると、かつてカニバリズムについて調べてた時に、臀部を齧った奴がいたのを思い出したんだ。そいつが言うには臀部は硬くて顎の力では噛み切ることができなかったらしい。結局刃物で切り付けると、黄色い卵のようなゼラチン質のものが赤い皮膚の裏側にこびり付いていたという記録が残っている。所謂、皮下脂肪だ。別にこれらのことは医学の観点から調べても、画像なんかがネットにあって簡単に見ることができるが、お前のそのだらしない体型の中にあの脂肪が沢山ついてると思うととても食べる気にならなかったよ」

大和は自分に向かって嘲笑った。

「おまけにお前の臀部には糞がカピカピになってこびり付いてるしな。色々考えた結果、食べるなら舌かなって」

言い終えると、大和はソファでじっと成り行きを見ていた西上を呼び、頭を押さえるように指示する。

 大和は刃先がしっかりとした食用ハサミを工具箱から取り出し、左手で男の舌先を摘まもうとするが、男は大和に摘ままれないように必死に舌を口の中で逃がす。

やがて真っ赤な男の口の中に無理やり手を突っ込み、舌を掴み取ると、男は咽ながら「やええくえ、は、はおう、やええくえ」と懇願する。

男の願いも虚しく、舌先から二、三センチほどの所で、右手の開かれたハサミの刃先が、ゆっくりと交わる。

ざ、く。

と、手に伝わる感触は、焼肉屋で出てくる、焼ける前のサイズの大きい肉塊をハサミでカットするのとなんら変わりはなかった。

「ぐっ。は、ぁぁ、ぁぁ。ぅぅ。なん、なんえ、くっ。ぅぅ」

男は舌先から感じる激痛に、体を激しくくねらせた。

 生き物は苦しみを感じるとどうして体が激しく波打つのだろう。椅子に縛られているといえ、脳からの電気信号が全身の神経系を錯綜し、人体の可動域を超えそうな激しさだった。

 これまで淡々と大和の指示に従っていた西上も、流石に目を見開き、自分の口元を手で覆った。

 柔らかそうな男の舌が大和の親指と人差し指に挟まれて、キッチンに運ばれる。

「お前のそのリアクションも、漏れ出た声も、小説に活かすといい。きっとここにいる三人にしか書けないリアルなものになるだろうな」

だー、と水道の水がシンクを叩き、切り取られた舌が洗われる。

 フライパンに油がひかれ、舌は徐々に熱が入って鼠色に変色し始める。普段目にする肉と何ら変わらないことに、大和も西上も何とも言えない気持ちになった。少なからず、二人共普段とは違う何かを期待していたからに他ならない。

 焼きあがった舌を白い丸皿に乗せ、男の前に持っていく。

「六日振りの食事だ」

 男は皿に乗った自分の舌を一瞥するだけで、激痛と流血で意識が朦朧としている。顎には流れた血の筋が固まっていて、だらしなくたるんだお腹にも同様に赤い斑点や血の流れた筋がいくつもついている。

「自分の舌を食べようと思うか?」

 大和が訊ねるも、男は荒い呼吸をしているだけで無言だった。

「お互い空腹になっても、人肉を食べたいとは思わないもんなんだな」と大和は囁いてから、小さく「いただきます」と言ってフォークで舌を突き刺した。

やや、固くなっていた舌に、ぶすっと刺さり、口に運ばれていく。大和は一口で口に放り込み、しばらく咀嚼した後、飲み込むのが分かった。

西上はたまらず訊ねる。

「ど、どうですか?」

「硬い」

出た言葉は有り触れていた。

「こりこり? 違うな。歯ごたえはあるけど、血の味が強い。煮込みとかに入れたらそれなりにいけそうな気はしなくもないが…。」

そう言って、真剣に考えを巡らせる大和の表情が一変する。

「おえぇっ」

嘔吐した大和の口からは、ほつれたようなボロボロの塊と、胃液が出てきた。その形状をみて、舌を噛み切る前に飲み込んだことは容易に理解できた。

大和は咽ると、自分の吐き出したものを手に取り、慌てて再び口にする。

「ぐふっ」

再び吐き気が来たのか、大和は吐き出さないように自分の口を抑えるが、口からは男の舌が出てきた。

 大和は膝に手をつき、二、三咽た後にコップに水を入れて一気に飲み込む。

「はぁ、食べなきゃ意味がない、はぁ、俺の中で消化されなきゃ食べたことにならない」

鼓舞するように、やや興奮気味に大和は自分に言い聞かせる。

再び、口に運ぼうとする大和をみて、男がついに血混じりに胃液を吐き出した。

自分の舌が、食べられ、吐き出され、それを何度も見せられては仕方ない。

西上はこの光景を怯えたように見つめ、遂に彼女も口を抑えてトイレに駆け込む。

 動悸がして、呼吸が落ち着くまで三十分ほどかかった。

西上は恐る恐るリビングに戻ると、全裸で抵抗力を失っている男の耳に、大和が齧りついていた。その光景を目の当たりにして、西上は立ち尽さずにはいられない。

よく見ると、体中に血とは別の、赤い歯型と、噛み千切られた箇所が無数にあった。

男の頭と肩を手で押さえ、勢いよく耳が齧り取られると、大和はそれを勢いよく口から吐き捨てた。

やがて、獣と化した大和は何かに取り憑かれたような勢いを鎮めると、落ち着いた声で言った。

「死神ちゃん、俺…。」

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