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~移植と昏睡②~

前回の続きになります。


▼ 目覚め

7月上旬、私は目覚めました。

その様子を見てバタつく医師や看護師の姿が印象的でした。

「大丈夫ですか?」
「ここはどこか分かりますか?」
「苦しい所はありませんか?」

そんな言葉を矢継ぎ早にかけられました。正直何が起きたのか、全く自分の頭では理解できませんでした…。

ひと通りのバタバタが終わって、自分の身体を確認した時に声を失いました。まぁ正しくは声はでなかったんですが…。

・ 皮膚の色が生きている人間の色ではなく、どす黒い
・ 手が震えて開かない
・ 足が全く動かない
・ 声が出ない
・ 数えきれないほどの管が繋がった身体

もはや私の知る状態では無くなっていました。一体何が起きて、この様なことになったんだろうか見当もつきません。

ただ、医師や看護師の方が「良かったですね」と口々に言っているのが印象的でした。

「…何が起きているのか??」私にはそればかりがあった気がします。

▼ 生活

目が覚めてからは当然生活が始まります。

ただ、動けないので自分で出来ることはほとんどありません。トイレや体拭き、歯磨きなどは全て介護されました。

薬の摂取は鼻からの管で行われ、食事は点滴のみのためありません。水を飲むことすら許されませんでした。

「生きるってどういうことだろう…?」

この期間に日々考えていたことです。なにせ声も出せないので、自分の意志を伝える術がありません…。
※当然字も書けません。

もしこの状況が永遠に続いたとして、それは自分の望む『生きる』ということなのかが分からなくなっていました。

そんな日々がしばらく続きます。部屋の移動は透析の時間のみで、ただボーっと天井だけを見つめる日々です。

▼ せん妄

この生活が続いた中で、ほとんど記憶が無いのは日々の暮らしに強弱が無かっただけでなく、薬の副作用に伴う「せん妄」という症状もあった様です。

知らない間に体の管を抜いたり、立ち上がろうとしたり…という行動もとった様です。

そのため手には手袋がはめられ、四肢をバンドで固定されて動けなくされた日々もありました。

自分に何が起きているのか、なぜこうなったのか、これからどうなるのか…。様々な不安が襲い掛かって来て、耐えがたい苦痛を受けた時期でもありました。

▼ 面会

そんな中、遠く離れた両親と妻が面会に来ました。昏睡中にも数回訪れてくれた様ですが、もちろん私は知りません。

会うと、みんな泣いていました。…もちろん私も。

「よく頑張った」
「もう十分だけどもう少し頑張れ」
「焦らなくていいから」

そんな言葉を掛けられたことを覚えています。3歳になった息子との面会は叶いませんでしたが、1日も早い退院を目指して、このどうしようもなくなった身体を元に戻すことを決めました。

入院前に『入院から順調なら3ヶ月が目安』と言われていたことを思い出し、「5月12日に入院→8月12日退院」を目標に頑張ろうと決めました。

そして7月中旬に次にICUに入る方の関係で、一般病棟に移ることになりました。

次回は一般病棟に移ってからの話をしたいと思います。

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