~過去の私との会話③~
メモは殴り書きで、その都度残していたものなので基本的には関連性が無い。その時に率直に感じたことを自由に書いていたりする。
イロイロと眺めているうちにある程度同じことや似たことも考えているのは、もちろん思考している人が一緒ということもあるが、繰り返し思うことだからなんだと思う。
今回のまとめは自分の治療や体調に関わることが多いのであるが、現在にも通ずるところは大いにある。
新しい学びと共に、自分の考え方をある程度揺るぎないものとするためにしっかりとまとめていきたい。
▼ 骨髄移植の立ち位置
骨髄移植について色々と調べていく中で、病人としての主観的な見方ではなく客観的に考えてみると『提供者は想像以上にやるメリットが少ない』というのが正直な感想である。
こういったネガティブな部分が現実的には存在するわけで、移植は献血と同様にいわば『人間の良心に問いかけるやり方』なのかもしれないと感じている。
私の場合は親族から移植を行ったわけなのだが、骨髄バンク経由は本当に見ず知らずの方から細胞を提供頂くことになる。仮に寛解したとしてもその方に御礼を申し上げることすら出来ない。
自分の家族から移植を求められたとして、よっぽど険悪な状況でなければ断る…ということはあまりないのではないかと勝手ながら感じているが、それが「他人」であれば話は変わってくると思う。
どれも移植を依頼された時に、断る理由としては十分すぎると思う。
臍帯血の様に冷凍保存して必要なタイミングに応じて…ということが難しい骨髄移植なので、タイミング一つで移植の可否が決定してしまうのだ。
だからこそ骨髄移植に登録してくれる人を増やすのではなく、登録時にしっかりとした説明をすることの方が大切ではないかなと思う。
想像以上に移植実現前の交渉時に断る人が多いと私は感じたので、その折り合いを事前の段階でしっかりとつけていく必要性を感じる。
個人的に病気をして骨髄移植の必要性を本当に切に感じる自分でさえ、もし健康であった時にそれを受けるかどうか…と考えさせられるのは、様々なリスクやデメリットを天秤にかけたとして見ず知らずの人に提供しても構わないという意思を示せるかどうかではないかと思う。
一般的な人間の性善説、俗にいう『正しさ』にあぐらをかいてしっかりとした説明を行わないと、結果的に助かる可能性のあった命が助からないということも十二分に起こり得るのだろう。
▼ 『正しさ』の殺人者
私は『正しさ』という言葉が好きではない。厳密に言うとその言葉を大義名分として話す人が一番好きではない。
『正しい』という後ろ盾を持つと、人は強引になれるし、戦争も出来る。
例えば「病は気から」という言葉があるが、病気と向き合ってる人が治療の気持ちを持たずに頑張っていると本当に思っているのだろうか?…と思う。
気持ちが大事だというのは紛れもない事実なのではあろうが、それを何の気なしに使う人が私は好きではない。
残念ながらTwitter等を見ていても、周囲にいる友人や医療従事者からこの言葉を告げられる人は少なくないようであるが…。
私は医療従事者にはあまり期待をしない様にしていて、必要に応じて会話の量を減らすように努力をしている。大きなストレスを感じるからだ。
医療の知識は十二分に有るとしても、対人コミュニケーションに疑問符が付く例はいくつも見てきた。大学病院で本当に感じたのは、目の前にいる患者の口から出る言葉より、数値等の患者のデータが優先されることであった。
何のために色々なことを聞くのであろうか?答えなければ詰問されてまで聞くのに…。
「じゃあデータは絶対なのか」と聞くと決してそんなことはないとも言う。
ダブルスタンダードで、ツラい精神状態の時はうんざりしたものだ。
目の前にいる患者からの感じる情報を優先したところでバチは当たらないと思うのだが、制度の仕組み上そうはいかないんだろうとはこちらももちろん理解はしている。
ただ、間違うことを極端に恐れて「正論という名の武装」をしてそれ以上考えることを停止している様な扱いを度々受けてきている。
私なりに理屈を組んで問いかけて正論を覆すと、さらなる「力」を持っている人の意見を仰ぎにその場を離れるというのがお決まりのカタチである。
しかしながらそんなことをしていては『優しさ』は決して身につかない。
患者は意外と求めているものは『正しさ』以上に『優しさ』だったり『納得感 』である気がする。
今回の入院を通じて切に感じたのは『プロセスを中抜きして結論だけ端的に話す』という人は信用が出来ないということである。
そういう話し方が流行ってる…のかもしれないが、こちらが最後に説明を求めて幾つか質問をするとしどろもどろになってその場を離れるなんてことを繰り返されるとこちら側の不安感は大きく増すのである。
「結論だけ聞いて大人しく納得してくれ。正しいから」
…というスタンスの人が、とことん嫌いになった。自分もそうならない様に他山の石として気をつけなければならない。
まぁ人と話す時にその辺りの配慮を今までの人生で体感してきていないわけではないと思うのだが、どうして日々そう感じるかは不思議なことである。
▼ 過去の自分には戻れない
医師から言われてなかなか引っかかったことがある。「もう過去の自分の幻影に囚われない方が良い」ということである。
これは私の体調の戻り具合について改めて言及されたものであるのだが、どうしても自分の頭の中のイメージと現実のギャップが精神を蝕むことは往々にしてある様で、そこに固執しない方がいいというアドバイスであった。
私はその傾向がかなり強いらしい。
数値的に自分の頭の中を100だとすると、今は20~30程度である。だからこれを100に近づけたいというのが私の希望であるが、医師からすればもうそれで十分だという温度感である。
例えば、今の状況としては杖を外してとりあえず歩くことが出来る。もちろん距離や時間をどこまで伸ばせるかは試したことが無いので分からないのであるが。
数少ないデータとしては「現時点で歩いている」ことが例外中の例外らしく、杖どころか車イスで生活していてもおかしくないというのが医師からの見解である。
ただ、私はそれ以上を求めているので医師から戒められるという流れとなっている。
今の年齢からすると加齢の影響もある程度あり、頭の中でイメージする動きが出来ない人も当然いるのではあるが「もう過去の自分には戻れない」と頭では理解しようとしていても、体が一切付いてきていない。
いや…付いてこないからこそ戻れないのだろうか。
「私にはまだやりたいことが、やらなきゃいけないことが、仕事が、家庭が…」そう伝えたが、結論としてその幻影を追い続ける限りずっと苦しむことになると伝えられた。
人は諦めることの出来る生き物であり、現に私も様々なことを過去に諦めてきた。諦めないことが美徳という気持ちも捨てきれてはいないが、どこかで折り合いをつけなければいけなそうだ。
▼ さいごに
移植や入院中の医療者との接した際の記憶をメモしている書き殴りであるが、やはり今の自分も考えるところが大いにある内容であった。
我ながら色々なことを感じ、色々なことをじんわりと深めていく面倒な性格なんだと思う。
これからもこの性格はそうそう変わりそうもないが、何か理解を深めたり新しい発見をすることに繋がればいい。
さいごまでありがとうございました。
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