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もしも劇場版の悪役がヒーローになったら

 『仮面ライダーディケイド』が好きになったのでディケイドの話をします。本編と劇場版のネタバレを思いっきりするので見てから読んでください。
 以前の龍騎に関する記事でも述べたとおりアマゾンプライム加入をきっかけに平成仮面ライダーシリーズの視聴を始め、W、オーズ、フォーゼ、エグゼイド、龍騎、剣、555、キバ、そしてディケイドを完走しました。東映特撮ファンクラブのアプリも利用し、『超光戦士シャンゼリオン』なども楽しんでいます。

 さて、『ディケイド』第1話はアウトサイダー門矢士とヒロイン夏海の暮らす世界が突如として崩壊を始めるところから始まります。戸惑う門矢士の前に彼を「ディケイド」と呼ぶ青年が現れ、世界を救うためには9つの世界を巡らなければならないことを告げる。かくして士たちの異世界を渡り歩く旅が始まるわけですが、このカタストロフと謎めいた男の予言から始まる異世界を巡る旅という設定がもうドツボでした。わたしは子供の頃ダイアナ・ウィン・ジョーンズ女史(安らかならんことを)の『大魔法使いクレストマンシー』シリーズが大好きでした。これはファンタジーにパラレルワールドの概念を持ち込んだ作品で、様々に分岐した無数の平行世界を観測し渡り歩く力を持つ、9つの命を持つ魔法使いクレストマンシーを中心にした児童文学シリーズです。女史は他にも『魔法使いハウルと火の悪魔』『バウンダーズ この世で最も邪悪なゲーム』等の作品で並行世界を扱っています(チョー面白いよ!)。これらの世界観に親しんできたわたしが『ディケイド』を好きにならないわけがなかった。もはや実家のような安心感。9つの世界を巡る不思議な力の持ち主なのでディケイドはおおむねクレストマンシーだ。いいね?

 わたしはディケイドに変身する門矢士というキャラクターがとても気に入っています。常に自信満々で高飛車に振る舞いながら、一方で己が何者かわからない、自分には居場所がないという不安を包えた青年というキャラクター造形がとても魅力的なんですね。異世界でどんな職を振り当てられても器用に、かつ自信満々にこなしてしまう万能タイプのヒーローとして描かれているのに、写真をうまく撮れないことに密かに悩む姿には等身大の主人公という印象を受けるのが不思議。

 ヒロインの光夏海とのやりとりも非常に良くて、彼女に「ナツミカン」とあだ名をつけてなにかと憎まれ口を叩きながら、その言葉にはどこか彼女への信頼と甘えが匂います。個人的には士と夏海の関係性はオープニング映像のサビの入りあたりの、士のバイクの後ろに乗った夏海が士のお腹の前で指を組むカットが象徴的だと思っていて、振り落とされないようしがみついているようでもあり、後ろからそっと抱擁するようでもある。仮面ライダーである士に守護される存在であり、帰る場所のない士を受け入れて守る居場所。股旅物において旅の仲間というコミュニティはとても重要な拠点ですから、ユウスケ、夏海、料理上手のおじいちゃんという暖かい結束はとても癒しになるものでした。

 あまりにも終わらせる気がない投げっぱなしの最終回は非常に衝撃的でしたが。もっと無難な落としどころ、例えば大ショッカーを世界滅亡の黒幕ということにしてしまって、士が縁を繋いできた仮面ライダーたちと共闘して倒して希望の未来へレディーゴー!するような終わりにしようと思えばできる物語の積み上げが十分にありそうな状況で、それをぶん投げて走り抜けていった意図はあるんだろうけどわからないので呆然としました。しかし劇場版『完結編』でその勇気ありすぎる意図は判明します。

 『完結編』は非常に挑戦的かつ実験的で、中盤『ディケイド』という作品が持つ所謂レジェンドライダー商法という商業的性質をそのまま「門矢士の役割」と作中人物に語らせて突きつけるメタ全開の物語でした。ここからはわたしの解釈になるのですが、つまり門矢士は、「お祭り映画だから深く考えるな」と言われる類のオールスター映画に登場する、不思議な力で世界を繋げてヒーローを集めてくれる悪役が、記憶を奪われ、ヒーローとして主人公に仕立て上げられた存在であったというわけです。それを踏まえると、驚くほどに全てが綺麗に繋がっていく。門矢士が大ショッカー大首領の座を与えられたこと、彼が傍若無人なヒールとして振る舞う理由。そして紅渡の言葉通り、門矢士は語るべきバックグラウンドを持たせる必要のない空虚な巨悪である故に「ディケイドに物語はない」わけです。しかし記憶を失い、悪役のアイデンティティを喪失したことで偶然にヒーローとなった。平成ライダー10周年記念というお祭り作品で、お祭り作品の悪役の虚無と苦悩を描くその勇気はいささか蛮勇の気もしますし、実に迂遠な物語ですが、プロデューサーが白倉氏だということを考慮すると「らしい」と思います。さらに言えば、「怪人のなりそこない」という仮面ライダーの在り方そのものを体現している。

 ディケイドが物語の類型を踏まえて生まれたキャラクターだというメタフィクション性を念頭に置くと、鳴滝がディケイドの介入による仮面ライダーの変質を厭う懐古ファンの化身、海東大樹がディケイドのファン且つガジェットコレクターの化身として設定されている説も信憑性を帯びてきますし、クウガ=ユウスケが士一行に同行するのも、悪役、ヒーロー、そしてヒロインの旅、それを側から見てヤイヤイ言うファンたちの構造になるから妥当なんですね。小野寺ユウスケの前身たる五代雄介は冒険家で旅人でしたから、世界を渡る股旅物のディケイドにおいてクウガがレギュラーキャラクターを務めるのは必然でしょう。『完結編』で仮面ライダーキバーラと電波人間タックルという2人のヒロインが活躍するのも好き。それぞれの役割を云々すると批評家の受け売りになってしまうのでやめておきますが、タックルことゆりが、物語上の死と、ファンから忘れられることによるキャラクターとしての死、二つの死を内包した存在として士の側にいるのが上手いなと思います。

 わたしはマーケティングの虚無の怪物として生み出されマーケティングの虚無から脱した1人のヒーローという回りくどく素直でないディケイドを愛さずにはいられません。誰かがディケイドを好きでいる限り、門矢士はどこかの世界を旅し、マゼンタ色のトイカメラのシャッターを切ることができるから。さらに一方で『ディケイド』本編は流石と言うべきか「これが見たかった!」というポイントを実に的確に押さえてくれる作品でもありました。ライドブッカーの刀身をおもむろに撫で上げる手つき、カブトのクロックアップにファイズ・アクセルフォームで肉薄する姿、烈火大斬刀とブレイドブレードの同時攻撃、物語の山を越えてから主題歌の歌詞が2番になるオープニング、「通りすがりの仮面ライダーだ、覚えておけ!」という門矢士の決め台詞と見栄切りと共に始まるラテン調のテーマ曲、そして歴代ライダーたちと同時変身!クライマックスの瞬間最大風速で、全ては「カッコイイ」という感嘆のため息に収束され、ディケイドは爽やかな風を残して走り抜けて行きました。ディケイドは名作です!

 『ディケイド』、ありがとう!大好き!


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