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新しい靴、嫌い。

 靴はどちらかと言うと嫌いだ。新しい靴を履くと、足の居心地が分からなくなる。なんとなく試着した時には気づかない。新しさに気を取られ、本当に合っているかどうかの判断を忘れる。しばらく新しい靴で歩いていると、じわじわと違和感に気づく。
 ひとたび気がつくと違和感が頭の中で増殖し、身体のあちこちに転移する。見るもの聞くもの匂うもの、すべてが靴の感覚の後ろに隠れる。おぼろな感覚で町を漂う靴に支配された私。「靴」に閉ざされた私は観念的な狭い世界を、内省の世界を、より多く見る。そこはいつも、無時間的で、爽やかさが微塵もない。

 交差点で立ち止まると、時間が流れる。

 水色のアイシャドウみたいな色の、大きな車が左折しようと待っている。ウインカーが眠たそうに明滅し、歩行者に「ああ、おはよう」と気の抜けた挨拶を呟く。
 直進する銀色の車がボディの縁で太陽を小さく切り取り、それが鋭利な光線に見えた、と同時に私の眼球が焼かれる。昼の空の向こう側で、私に関係のないサイレンが響く。過ぎ去るタイヤたちが擦過音を軋ませる。空気は物体みたいな音を立てて車のボディに砕かれていく。
 市街の空気は微かに、破壊された街みたいな匂いがする。街は、私からあまりにも遠い。何年も住んでるのにあんまり住んでないような、知ってるのに知らないような、別れた女に出会ったような、隔絶した距離を感じる。
 あっ、杖を付いた近眼の女が、己の世界を背負っている。道を渡っている。ゆっくりと、確かな速度で遠ざかっていく。この人は近所で何度も見かけたことがある。道でよく見るから、道に閉じ込められた人と見間違える。また、動きが遅く、標準ではないからか、生活を連れて歩いているようにも見える。楽しみはあるんだろうか。ハレとケの、ケの部分しか見えないから、そんなことを思う。視界から外れると、どうでもよくなる。

 信号が青に変わると、これらの見たり聞いたり匂ったりの感覚が、無時間の靴の世界の後ろに退行していく。色彩に鮮度がなくなる。
 それもこれも、新しい靴が悪い。靴は履き潰して馴染んでこないうちは、よその子だ。

 しかし、新しい靴は慣れてくると新しさが日に日に抜けていき、足に馴染んで快適なものになっていく。どうやら、靴が嫌いなのではないようだ。新しさに順応する期間が、少しストレスで鬱陶しいということだろう。まあ、ストレスが程よいものなら、楽しさ嬉しさも少なからずあるものだけれど。

 次回は、「シュークリーム」でやります。

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