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透明日記「鳥取砂丘・出雲大社の石」 2024/06/05〜06/06

鳥取に行った、砂丘に行った、バスに揺られた、一泊二日。

砂丘は当たり前に砂がいっぱいあって、どーんって、すり鉢を斜めに切ったような丘があって、うす茶の起毛のカーペットみたいな感じで、だだっ広げに存在してた。

すべては砂、ただの砂、ただの細かい砂、やのにそれがのぺーって広がると、どこか突き抜けたような、悲しみ。砂丘の上は青い空、これものぺーってしてる。丘の方を見つめたら、うす茶と青の起伏だけが景色のぜんぶで、心が漠として茫漠。人間など、どうでもいいっていう感じの世界観。人間性が、突き放されてる。

人間は点になって、砂丘にパラパラ撒かれてて、すり鉢のふちを、ということは坂を、すなわち丘を、受難者みたいに歩いてた。

みんななにか事情があって、この砂丘を登らなあかん感じ。目に見える人間は観光客じゃなくって、この砂丘の世界で砂丘の論理を下敷きにして、なにかしら砂丘的な生活をしてる人間って感じで、自分だけがこの土地のルールを知らされてない異邦人のような、そんな気分になる。諸星大二郎のマンガの世界みたい。安部公房の『砂の女』の匂いも感じる。風景の根っこに不穏な音が響いてる。

砂丘に配置された人々は、人間性を失ってるように見え、ただのカタチ、っていうか、自分には分からない論理で動く生き物、なんか遠い、決して手の届かない存在。人間に見える何者か。異質なモノ。

砂丘に踏み込めば、自分も誰かの不穏な風景の一部となる。って思うと、視点はめちゃくちゃ。見てる自分、カッコ付きの人間として見られてる自分、そのあいだいには途方もない距離がある。そんな二重の視点を、砂丘の人々それぞれが隠し持ってるような気分。どこまでも繋がらない共同体。

砂丘に登ると海が見えて急な斜面、行き止まり。それから、トンビが下の方に飛ぶのを見た。海岸の男を狙ってるらしい。砂をいじったり、風に煽られたり、写真をパシャパシャ。観光客をやった。

それはさておき人間は、のっぺりした風景の中では人間性が削がれる。と思う。砂丘の人間は観光客という属性を除去してやれば、異質。このことは意外な感触をぼくに与えるけど、なにが意外なんかよう分からんから、ちょっと考えてみることにするる。

人が何してるんかっていうのはどうも、その人単体で見てもよう分からんもんで、周りの風景とともに見てはじめて、ああ、と何かが分かるような仕組みらしい。

てことは、場所とかモノとか何かしらの物理的なもんが人と結びついて何かしらの、ああ、というものが生まれてる。

つまりは、人間の意味は環境とセットで理解される仕組みってことっぽい。大前提として、人間っぽいものには何かしら目的があるように見え、その目的の対象として、何かしらそこら辺のものをつなぎ合わせる。そうやって頭は、自動的にとりあえずって感じで、他人の意味を紡いでる。

考えてみたら意外でもなんでもなくって、当たり前にも程がありすぎることで、ちょっと興が削がれた感じがするけど、まあ、当たり前すぎて意外っていうことなんやろう。何でもかんでも、意味と意味の繋がり合いの強弱があって、その強弱のバランスの中で意味が立ってる。意味っちゅうのは、関係やな。

ああ、砂丘のことを云々してるあいだに、他のことあんま書かれへん感じになってきてるけど、旅館はよかったな。

湖のほとり、湖畔ってやつ。千年亭や言うたか、はわい温泉の。露天風呂は湖に開かれてて、ひょいって一歩で脱走できそうな感じやったけど、手拭い一本の全裸で脱走する意味はないからやらんかった。それでも湯に浸かりながら岩に半身をあずけて、湖の向こうの山のへんを眺めたり目をつむったりしとったうちには、何遍か全裸で旅立った自分の影があったように思う。それは六月五日のことだった。

そう言えば出雲大社にも寄った二日目。ほんのり緑っぽい感触を感じる黒の鳥居は、鳥居にはめずらしい色合いでカッコよく、目に吸い付くような色。ええなあええなあ言いながら右の方を通る。

鳥居をくぐるとき、鳥居の左側におばはんが出現した。おばはんは連れの者どもに向かって手を横にばしゃばしゃ振りながら、「真ん中は通ったらあかん、神さんの通り道じゃ。あかんあかん。」と、何度も何度も。鳥居をくぐり抜けると、おばはんは消えた。

境内をぐるっと回って、しめ縄は十トンあるとかないとか、持ってみないうちには分からないとか、でも重たそうなのでたぶん一人では持てないだろうとか、添乗員が言うのを聞く。

しめ縄の前の方から出雲大社を出る。出口の横に神楽殿って刻まれた石があったけど、その石がよくって、多面的で、キュビズムって言いたくなるような形の石で、つるつるの墓石的直線の印象があったかと思うと、素材を生かしたざらざらの石が融合されててぼてっとした印象があるところもあって、平面と平面は角度をつけて境目が直線になってるところがほとんどやけど、中には紙の一点に指を押し当てたように平面がやらこく繋がってるようなとこもあって、どの角度から見ても多彩な印象がバーンて来るから、ああ、楽しい、カッコイイ、現代的な石。

石の立体は石の重さが存分に活かされてる感じもあって、不規則な印象を重みでまとめてるようで、総合的にすごくいい石。

出雲大社は全体的にのっぺり。道順が規則的というか、神様しか通ったらあかん道があったり、こっちは東の神々のホテル、あっちは西の神々のホテル、などと理屈が勝ちすぎてる印象があって、少し窮屈。地の利を生かした荒さがないというか。

他にも色々行ったけど、これぐらいにしておこう。久しぶりに旅行して楽しかった。

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