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義務教育で「音読」は必要だと思う派だけれども。

そうか、音読って、不必要なものだと思われているのか。

今日、小学生のお子さんのいるお父さんを交えて、大人3人で井戸端雑談していた。彼は子どもの宿題を見ていると義務教育には「これも必要?」と思うことがちょこちょこあると言っていた。そこには音読も含まれていた。

こんにちは、こんばんは。くりたまきです。ライターという仕事をしているので、音読が重視されていないのは驚いた。

誰が言い出したかも忘れたけど、「音読もあんまりね〜」という話の流れになったのだ。

音読って、超超超超超超大事だ、と思う。

自分の声として出力してみると、気づくことがたくさんある。まず一文が長すぎることに気づける。ひと息で読めないものは長い可能性が高い。素読みでは見逃していた誤字脱字にも気づける。全体の語尾の違和感にも気づけて、リズムもよくなる。

人間は原始、書くことより先に、話していた。声が、音が、歌が、先にあったのだ。根幹には、音がある。言葉には、口にする快感がある。

でも、不要説を唱える人の気持ちも、想像できる。

多感な子ども時代に、クラスみんなの前で、国語の教科書を読む。苦行と思う人もいるだろう。

わたしが小学生のころ、とても頭がいいのに恥ずかしさで音読ができずに、授業中に泣いてしまった子がいた。静かな教室で、教科書を持って立ち顔を真っ赤にして涙をこぼす彼を見上げたあのとき。自分のことのように胸が締め付けられたことを思い出す。

それでも、音読は楽しいし、文章をよりよくしてくれる。そのことを義務教育で、できるなら子どもたちに知ってほしいと思う。

だから、みんなの前で誰かひとりに読ませなくてもよいのではないか。みんなで合唱してもいいし、少人数のグループでちょっとずつ読むのもいいかもしれない。子どもたちが楽しめる方法を大人と子どもみんなで探せたらいいなあと勝手に願う。


ちなみに、わたしも自分の原稿の音読はそんなに得意じゃない。ほかの人の文章とはまた違う恥ずかしさがある。でも、必要で効果があるから、仕事として堂々とやる。「やったぞ」という気持ちを積み上げる。

むかしコピーライターになる前、CMプランナーの人の授業を受けたことがある。有名で実力もありすばらしいCMをたくさん手がけている人だった。講義では、生徒みんなが書いてきたCMコピー案を、その先生はぜんぶ読み上げた。ただ読むだけじゃない。気持ちを込めて、声色や抑揚を変えて読む。先生が読むと、紙に書かれた生徒のコピー案の良し悪しがくっきりと浮かび上がってくるのがわかった。

声に出して読むことは、仕事の一部なのだ。まだ書く仕事に就く前、そうはっきり認識した瞬間があった。

いまは、とにかく世に出す原稿はすべて読む。何度も読む。自分の声を通して濾過したものを、提出する。

音読はどんなかけだしのライターにだってできることなのに、やらない人が案外いる。もったいないなあと思う。もったいないと思える自分でよかったと思う。

夜中に音読するときは、ちょっぴり切ないけど。でも、やるよ。音読するよ、わたしは。

あ、このnoteは音読してません!30分で書くと決めてますからね。はい。それじゃ、また明日。

30minutes note No.892


さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。