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幸も不幸もわかんないなら、希望がある方がいい。

親が別居した小学4年生のころから数年間は、極端に変化を恐れて生きている時間があった。

こんにちは、こんばんは。
くりたまきです。

今考えると「仕方がなかったよなあ」とも思うのだけれど、幼いわたしの中では変化=悪化だった。坂道を下るように、物事が悪化していく中で暮らしていたことが、その時間を脱してもべったりと記憶にはりついていた。

めんどくさい電話対応をさせられたり、パジャマのままほぼ知らないおばさんに車で連れまわされたり、身内の裏切りを知ったり、家が殺伐とした雰囲気で喧嘩が絶えなかったえり、日々家事に追われていたり。

もう、中学校で学年が上がってクラスが変わることさえ恐怖だった。「今はたまたま居心地がいいクラスにいるけれど、これよりよくなることはない」と子ども心に本気で信じていた。未来は常に悪化の可能性で満ちている。足元がグラグラしていると錯覚していた。

漠然としたトラウマのようなものに囚われていた。

そういうの、ほんっと、どーでもいいよね。

大人になって、やっと思える。シンプルに生きていくことは、たまに難しい。

未来はわからない。幸と不幸、どっちもあるだろうし、いつどっちに転がるかわからないし、不幸さえ解釈次第だ。

だったら、見つめる方向は希望がある方がいい。それを誰も責めないし、自分でも責めなくていい。

人間は大人になっても、大きな変化を嫌う。子どもも大人も基本的には保守的だ。それが身を守る手段でもある。でも、変わってもいいんだ。

明るいほうを見ていて、たとえ暗闇に突っ込んだとしても、明るいほうを見つめていた時間の光は消えない。少しでも明るい時間を増やして生きていきたい。

すこしずつ、すこしずつ、そう思える自分になってきた。わずかな変化を重ねていく。決して器用ではなかったけれど、そうして這い上がってきた自分が、好きだ。

なんだかんだ、しあわせなことのほうが多いのに、不幸にフォーカスしてたらもったいない。ちょっとのやけどのほうが、平穏な日々よりも刺激的だから、つい目がいっちゃうけど。ただただすべての経験は、しあわせを感じるためのスパイスなのだ。

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