見出し画像

誰かの声を「うるせえ」と一蹴して。

誰かの言葉を受け取るとき、どんな内容でも、フィルターにかける。

「疑り深いことを」と言われても、大いに結構だ。その言葉もフィルターにかけている。なんてへそ曲がりだよね。

でも、意識してるかどうかは関係なく、ひとを傷つけることを、他人は言う。そして、耳という器官は、目とちがって音を遮断する能力を持っていない。耳栓でもすればいいのかもしれないけど、まぶたほど便利とは言えないはずだ。

どうしようもなく耳に入ってくる声を、ぜんぶ受け止めてたらキリがない。わたしの場合は、ストレングスファインダーという、まあざっくり説明すると性格診断みたいなもの(強みとなる資質がわかるテスト)で、共感性が上位にきているから余計に、言った相手の気持ちを考えてどん底まで落ち込んだりする。

他人の意見は、しょせん、他人の意見だ。だからこそ、じぶんなりのフィルターを通して濾過し、受け止めるほうがいい。健全だと思う。

甘やかすこと、過保護なこと、蔑むこと、ヘンに依存すること、軽んじることなんかをわたしに言ってくるやつには、心のなかでこう言ってる。

「うるせえ」

冷たいひとだと思われてもいい、だって、わたしがいちばん大切にし、やさしくしたいのは、いやするべきなのは、ほかでもないわたしだ。だから雑音は一蹴する。親の言葉であっても、これはわたしの人生だから。

父に言われた言葉を、いまでも覚えてる。転職活動をしようと思うと告げたときに言われた。
「お前にコピーライターなんて、無理だ」
20代半ばから後半になろうかという歳で、なにを夢見てるんだ、と。

「うるせえ」である。

逆に火がついたから、よかったのだろうか。きっと心配していたのだと思う。コピーを書いて(写真もだし、おおまかなレイアウトもした)もらった準朝日広告賞のトロフィーもまだリビングに飾ってくれているし、父も悪意があって放った言葉じゃない。ホワイトで安定した仕事を手放そうとしている娘を、見ていられなかったのかもしれない。

それでもわたしの人生だ。父の言葉を鵜呑みにして「そうだよね、わたしには無理だよね。いまの会社で頑張るよ」とは言えなかった。たとえ無理だとしても、チャレンジしない選択肢はなかった。いま、コピーライターの名刺を持ってはいるものの、まだまだでチャレンジは続いている。

甘やかすのと、やさしくするのは、ちがうことだ。だから、厳しいことを言ってくれるひとの言葉をはねのけることはない。それでも、可能性を潰す言葉に埋もれて動けなくなるなんて、ごめんだ。

耳たぶで耳の穴がパタンと閉じられたら、ちょっとは考えも変わるのかしら。今日のnoteはちょっと過激なじぶんだわ。

最近、ほぼ日の塾同期の菊池さんとつぐみちゃんからもらった言葉がどれもうれしくて。嘘のない言葉を素直に受け取りたいし、わたしも嘘のない言葉を渡したいと思っていて、こんな荒々しいnoteができちゃいました(ついつい言い訳が長くなる……)。過激なじぶんも、すきだよ!

さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。