「カラマーゾフの兄弟」のフョードル像に物申す

二十年以上も前に読んだ本を今更蒸し返すのもどうかと思うが、ずっと晴れないモヤモヤをこの機会にぶつけてみたい。

古今東西、演劇・映画・ドラマ・コミック等で描かれてきた「カラマーゾフの兄弟」のフョードル像があまりにもおかしくないか、というものだ。小説と、それをもとにした映画やドラマはその媒体の性質上キャラクターやストーリーやなんなら結末も違っても全然OKで、むしろ原作の本質・魂の部分を重視して違う媒体で表現しようとすると、必然的に多少のキャラ変更やストーリー変更も多々起こるのが自然というのも理解している。
しかし、そうならそれで、映画なり演劇なりコミックなりでのフョードルの描き方も、その媒体に合わせてそれぞれ違いのある描かれ方をしているならわかる。しかし、私がこの二十年間に見聞きした(たいていはチラ見程度だが)映画や演劇、コミックは、判で押したようにフョードルを一律同じキャラ、裏表もありそうもない、単なる金と女が好きな<強欲親父>として描かれている。百歩譲って、原作でも単純明快な<強欲親父>キャラだとしたら、まあ、原作に忠実に描きたかったのか、と思える。しかし、原作ではフョードルは決して単純な<強欲親父>ではない。むしろどっちかといえば内面は感傷的で繊細がゆえに、現実社会にうまく適応できず、トンチンカンな言動を繰り広げ、そしてそんな自分を痛いほど恥じて高尚な人間でありたいと思うもキャパがついていかず失敗続きで、またしても挙動不審になり、結局は金と女に逃げて、周囲から白い目で見られ呆れられる・・といった、強欲というよりは、卑小で残念な人物だ。
「カラマーゾフの兄弟」が小説界の最高峰に君臨している理由は、何よりも、登場人物たちの内面の多面性を惜しげもなく、執拗に細部まで描ききるという、つまりは<生身の人間>を描いているからに他ならない。はい、悪人は悪人です、善人は善人です、ではまるでユゴーの「レ・ミゼラブル」ではないか。はい、宿屋のテナルディエは悪人です、ミリエル司教は善人です、ええ、それ以外ではありません、は小説では通用するが、現実の人間では通用しまい。ある人は、ある状況下で、ある瞬間悪人であるかもしれないが、違う状況下で違う瞬間は、善人ということが、生身の人間では普通である。その、善悪では絶対に二分できない人間の多様性を描くことに神経をすり減らしたであろうこの小説を原作に、何か二次的作品を作ろうとした場合、絶対にしてはいけないのが、キャラクターの単純化だ、と思うのだ。いやいや、そんな、映画や演劇の限られた時間ではそんなの無理ですよ・・と反論がくるかもしれないが、それなら、作らない方がマシだ。なぜならこの小説の特徴は<生身の人間>を描いていることでありその<生身>感を省くのであれば、もはやこの小説の魂抜きで、二次作品を作る冒涜を犯しているからである。それに、フョードルなど早々と殺されるのだから、多面性を描くシーンの作成も何も難しいことはあるまい。俺は女遊びに金を使いたいからおまえにはやらんぞと息子に暴言でも吐かせておいて、道すがら捨て猫がいたら、ふと自分の孤独と捨て猫を重ね合わせ涙を流し女に使う予定の金で猫を保護する・・といったシーンをぽっと入れるだけで、単純な<強欲>キャラから一歩踏み出せるのだ。
「カラマーゾフの兄弟」の小説を読まずに、原作の魂が抜けきった二次作品を観た人は、はて、なぜこの作品が面白い??と思うだろう。その感想は正しい。魂が抜けた「カラマーゾフの兄弟」と原作「カラマーゾフの兄弟」はいわば同姓同名の別人だと思ってほしい。
ぜひ小説そのものを読んでほしい。

※個人的には、三兄弟の次男、イワンが児童虐待について自身の考えを述べるところが印象深い。19世紀のロシアの新聞に掲載される児童虐待とこの令和の日本のニュースで日々流れる児童虐待のニュースの悲痛さは、国も時代も超えて共通するものがあるからだ。私は児童虐待のニュースがあるたびにイワンを想う・・ワーニャ(イワン)なら決して許しはしないだろう、たった一人の幼子が流した涙が贖われることがないなら、決して彼は神を認めないだろう・・聖書に描かれる最後の和解も彼は拒否し、神とこの世を呪う言葉を吐くだろう・・。たった一人の幼子の涙が贖われることがないならば・・。(このイワンの考えが、有名な彼のフレーズ「神はいない」となります)

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