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椅子をなめんな!

いっすー いっすー なんかいっすー
いっすー いっすー ちょっといっすー

 Eテレ「みいつけた!」で時々聞いていた「なんかいっすー」。今もなお、そのワルツな曲が頭から離れられない。その当時、どうして椅子がフォーカスされていたのだろう、と疑問が浮かんで仕方なかった。だって、椅子は家具の一種でしょ。座るための道具じゃん。なんで、いすの応援団があるの? なんで、学校の椅子が踊ってんの? なんで、「みいつけた!」には椅子のキャラクターがいっぱいなの??......

 

数年経った後。

現在、椅子に復讐されている。


 「復讐」という物々しい言い方をしたのは、椅子によって人生を狂わされたレベルの事態があった、ということである。

 というのも。

 昨日、ニトリに行って学習机(作業机)に置く椅子を買い換えた。たった今、その椅子に座ってnoteを執筆しているのだが、なんだこの集中力の続く椅子は。「君はここに居るんだよ」、と座面からそっと語りかけてくるような、優しいクッション。優しい、と言っても、じんわり沈み込むようにお尻を包み込むのではなく、下からそっと支えて居るような感覚。その感覚のおかげで、背もたれに寄りかかるのはあまりなく、自分の背骨が「まっすぐこの座面に支えられて欲しい」と、あまり肩こりを起こさない姿勢にしようと喜んで取り組んでくれている。この優しい椅子のおかげで、私は今、集中力持続時間の自己最高記録を超えようとしている。

 この集中力が続いてさえいれば。

作品の推敲だって粘り強く出来ていたのかもしれないし。

ブレインストーミングが長く続けられていたのかもしれないし。

大学受験だって乗り越えられていたのかもしれない。

私の「拠り所」が布団しかなかった人生に、革命が起きた。


 ごめんな、椅子のことなめてた。

 「ここじゃ集中出来へん! 学校に行く!」と私が思った時点で君の潮時やってんな。

 クッション性もなくなったからカッチカチになって、椅子の高さも変えられんで、背もたれの位置も私がデカくなったから低くなっちゃって、親は私がグルグルするの嫌がって出来へんやつ使わされたけど、それは結局座り直す時に融通きかん様になって、足は変な高さの位置に着くわ、腰掛ける位置が微妙に低いわで最悪やった。

ごめんな。今日から君は、上の荷物取る時の台座な。

 

 そうだ、だからこそ、椅子はコンテンツ化できるほど深みのある存在なのかもしれない。「なんかいっすー」を作詞した宮藤官九郎サマも、各話伏線貼りまくり、しかも明治から昭和の時代をスポーツの視点で概観する大河ドラマ「いだてん」脚本を、フカフカで力持ちな椅子と共に書き上げただろうし、作曲した星野源も、エッセイの執筆や、星野源ワールドな詩の世界観を机上の紙一枚から繰り広げたり、出演作品の脚本の読み込み、ギターのつま弾きも、質の良い、自身に合った椅子の上で素晴らしい創作活動を展開しているのだろう。彼らも椅子に大いなる愛を込めて制作したに違いない。

 椅子は、人生を狂わす程の大事な相棒だと。

 

 





スペシャルサンクス:ニトリ Nキャドレ

創作活動の促進のため、本の購入費にあてたいと思います。