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日記 2月20日

もしかして、いま元気なかったりしますか、なんて声をかけられて、ああいえいえ、そんなことはないですよと返す。三百六十円のコーヒーはとっくに冷めてしまっていて、中野さんは少し不満そうに眉をひそめて、「ならいいんですけど」と小さく呟いて、帰り支度を始めようとする。

六月の空は鉛のように暗く、そのまんま落ちてきそうだった。灰色が街を覆っている。不幸という言葉に色を付けるとしたらこんな感じ。道行く人も、降ってきた雨を迷惑そうに見上げて、それぞれの傘をさす。落ちてくる空から目をそらすみたいに。

三百六十円は私にとって大出費だ。帰り道のスーパーで、割引になってるお惣菜が沢山買える。中野さんは仕送りで暮らしている、私なんかとは金銭感覚の違う私立の大学生なので、コーヒーをちびちび飲むような真似はしない。氷がたっぷりと入ったアイスカフェラテを頼んで、席に運ばれてきたとたんにぐいっと飲み干した。この時期の外は、蒸し暑くて嫌です、とか言って。

「……あ、お土産、要ります?」

かばんの中で、折りたたみの傘やらレシートが雑に詰められた財布やらをごそごそしていた中野さんが、唐突に顔を上げた。完全に忘れてた、そういえばこんなもん、渡す予定あったかもな、なんて言いたそうな表情。ひとりで行ってきたのかな、樹海。そう思っていると、彼女は私の答えも待たずに、青と白の、ひらひらしたリボンで丁寧にラッピングされた小さな小瓶を取り出した。

「金平糖です、星が綺麗に見えたもんで」

私は自殺サイトを運営していたが、法規制の関係で閉鎖せざるを得なくなり、誰かと連れ立って死にたい若者たちはSNSで相手を募るようになっていた。今の若い子は勇気も希死念慮も人一倍あるのか、幇助してやらなくても勝手にぽんぽんと現世を手放していった。私はサイトを前任者から引き継ぎ、さあみんなで死ぬぞと思い立った矢先にページにアクセスできなくなっただけの人間なので、若者が次々と死んでしまうのは悲しいなあというぼんやりとした感想しか持てずに、「死にたいあなたへ」なんて掲示板に時折書き込まれる呪詛のようなメッセージに定型文を貼り付けて返していた。もっとも、インターネットの深海にわざと潜らない限り自殺サイトなんて見つけられない。検索サーチを潜り抜けて、今も活動している場所なんて山ほどあるんだろう。中野さんは、そこで、ネットの海に溺れるようにしながら、最後の死に場所を探していた。

中野さんは空を見上げて、降り出しそうですね、やだなー、と吐いた。中野さんにとって、ここは樹海とさほど変わらないようだった。むしろ、爛々と瞳を輝かせて、私、これでもう人生終われるんですねと、まるでこの世で一番嬉しいことが起こった人のようにぴょんぴょん騒いでいた道中があっただけ、樹海の方がエンターテインメント性もあっただろう。全てが灰色になったような世界で、色のついたパラソルが二つ花開く。ついて行きますよ、と言ったら、中野さんはちょっとまた迷惑そうにしながらも、まあ、べつに。いいですけど、と返した。沢尻かよと心の中で笑いそうになるのを堪える。めんどくさいけど、ちょっと憎めないひと。美月という名前も似合わない。美しい空に浮かぶ月、中野さんからは一番遠い言葉に思える。暗い樹海で、ひとり死のうとしてたんだから。でも、だけど、全然似合わないけれど、綺麗な星には逢えたんだろうな、その証拠に私の手の中に小瓶がある。いろんな色に光る小さなお星様は、曇天の街の中で、優しく私を見上げる。
どうしたんですか、着いてくるんなら早くしてください。中野さんは振り返った。ピンク色の傘から、ぽたぽたと水滴が落ちていく。


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