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主体性 =「自らすること」ではない

文科省が出している現行の学習指導要領では、アクティブ・ラーニングの充実がいわれている。アクティブ・ラーニングとは、「主体的、対話的で深い学び」が合言葉になっており、学習者の主体性が重要であることが至る所で言われるようになった。しかし、この「主体性」をやや短絡的・限定的に捉えてしまっている教育関係者(保護者も含む)が多いのではないだろうか。

危機感を抱いたある校長の何気ない一言

スポーツ観戦を研究している私は、とある小学校の校長先生とお話する機会があった。そこで私が「学校でもぜひ子供たちにスポーツ観戦の楽しさを実感させたいのですが、なぜ学校ではみるスポーツをあまり扱わないのでしょうか?」と質問すると、次のように回答が返ってきた。

「スポーツ観戦って、子供たちは見てるだけでしょ?子供が何もしないのはちょっとね…」

私はこの言葉に大きな違和感と強い危機感を抱いた。提案したスポーツ観戦を否定されたからではなく、子供が「何もしない」ことを一様に否定していることに、だ。

当然この校長先生も「アクティブ・ラーニング」のことはご存知だろうし、だからこそ「主体的な学び」の重要性からこの返答が来たことは容易に想像できる。しかし、「何もしない=主体的でない」という判断になるのは、「主体的=自らすること」という前提からくるものであり、その前提に私は違和感を感じるのである。

もしかしたら、主体性を同様に定義している人も少なくないかもしれない。だから教育をデザインするときは、多くの場合「子供が何をするか」が考えられる。しかしそう考えるからこそ、子供の「行動」が焦点となり、「何もしない=行動がない」活動に対して否定的になるのである。

本稿は、この「主体性=自らすること」という定義を、①Production Participation (Chelladurai,2014)、②Experience (Schmitt,1999) の2つの概念から批判的に捉えることを目指し、さらに「行動」に代わる視点から主体性の再定義を試みる。

自己生産(Production Participation)とは

スポーツマネジメント研究の第一人者であるChelladurai は、スポーツとの多様な関わり方をスポーツの「自己生産度合い (production participation, 以降PP)」という概念で比較した。「自己生産」とは、その時間に消費するスポーツコンテンツをどれくらい自分が生み出しているかということである。

例として、A:ジョギング、B:ボウリング、C:サッカー観戦の3つのスポーツ消費で2時間を楽しむとする。ジョギングをする場合、その2時間を埋める「ジョギング」というスポーツコンテンツは100%自分で生産することになる(PP=100)。一方、友人とボウリングを楽しむ場合、①自分が投げるプレーと②友人が投げるプレーがともに存在するため、その2時間を埋める「ボウリング」全体のうち自ら生産するのは一部になる(0<PP<100)。また、サッカー観戦をする場合、自分が消費する「サッカー」はすべて他者がつくり出すものであり、2時間のスポーツ消費はしていても自己生産は0になる(PP=0)。

このようにスポーツの自己生産(PP)は3つのパターンがあるが、どのパターンも自ら選んで実施すれば、主体的なスポーツ消費活動といえるはずである。しかし、前述の校長のような「スポーツ観戦=何もしない=主体的でない」という評価は、「高い自己生産=主体的」という基準によるものであり、主体的なスポーツ観戦など不可能だということにもなってしまう。

学習における自己生産(PP)

これを学習に置き換えてみる。学習はインプットによるものとアウトプットによるものがあり、誰かのアウトプットが自分のインプットに、自分のアウトプットが誰かのインプットになるという連続性を持つ。学習を「自己生産」しているものは当然アウトプットによるものであり、学習のPPはアウトプットの割合で決定される。

PP=100となる学習は、すなわち100%アウトプット型学習となり、テストなどの問題演習や漢字の書き取りなどがこれにあたる。他者と協同した時点で、他者のアウトプット情報(=自分にとってはインプット)が発生してしまうため、PP=100ではなくなる。つまりPP=100の学習とは、完全なる個人学習である。

同じ個人学習でも、読書や動画視聴などインプット型の学習は「自己生産」とはならないため、もしそれだけで終わってしまったら、むしろPP=0である。一般的に学校でとられる「①要点の確認→②演習」という流れはインプット→アウトプットという組み合わせになっており、多かれ少なかれ0<PP<100にあてはまるだろう。

アクティブ・ラーイングが言われ始めてから、「アウトプット型学習こそ主体的」とする短絡的な見解が広まったように思う。しかし、PP=0である読書や授業動画コンテンツの視聴も、進んで行えばそれも十分主体的な学習ではないだろうか。逆にPP=100はもはや学校で行わなくてもよい学習スタイルであり、いうなれば宿題こそ最高の主体的学習としても過言ではない。やはり「自らやること=主体的」言い換えれば「自己生産度(PP指数)=主体性」とするのは妥当ではない。

個人ごとに異なるExperience

少々、視点を変えた話をする。マーケティング等の経済分野では、消費者の「経験価値 (customer experienceまたは user experience) 」という概念が重視されている。これは消費者が何をするかではなく、その消費行動の結果何を感じるかということに焦点があてられている。この「経験価値」を提唱した代表的な研究者の一人がSchmittであり、

出来事 (incident) × 個人的反応 (perception) = Experience

で表せるとしている。つまり、同じ出来事に遭遇しても、個人によって異なる感じ方をするため、消費する経験 (experience) も異なるという理論である。また、Schmitt は ”experiences are private" ともいっており、反応の結果感じた意識や感情などの内面的なものこそが焦点に当てられるべきだとしている。

さらに、心理学者のLazarus(1966)らが提唱した Appraisal Theory に基づき、自らが体験した experience を自己の内面で評価し、そこから得られた価値として「経験価値」を認識するとしている。例えば、Aさんが「映画を観る」という活動をすると、

①映画を観る → incident
②主人公の姿に感動した → perception
③心が温まった → experience
④映画鑑賞の魅力に気が付いた → 経験価値

という段階が発生していることが説明できる。もし友人のBさんと一緒に観に行ったとしても、Bさんの中では

①映画を観る → incident
②ストーリー展開が難しかった → perception
③退屈だった → experience
④映画鑑賞のイメージが低下した → 経験価値

という段階が発生している可能性もある。

Experience と「主体性」の関係

「主体的」の意味を調べると、「自分の意志・判断によって行動するさま」とされている。これまでの「行動」に着目した主体性を一連の experience のプロセスに対して照合すると、①incident に焦点があることがわかる。「何をするか」が重要とされており、デザインする側はどんな活動に従事させるかを考える。しかし、上記のとおり活動によってむしろネガティブが経験価値を抱かせる可能性だってあることがわかる。

前述の2人の映画鑑賞という experience が大きく変わってしまったのは、②perception の段階である。Bさんもはじめこそ自分の意志で映画を観に来たかもしれないが、いざ見始めるとストーリーが難しく、途中から飽きてしまっている。つまり、活動の開始は自分の意志でも、活動の継続は強制されているのである。その結果、映画鑑賞という活動のアウトカムはネガティブなものになってしまった。

果たしてこれを「主体的」とよんでいいのだろうか。多くの人は首を横に振るだろう。一方、Aさんの映画鑑賞は、自ら活動を開始し、終始満喫してポジティブな経験価値を味わったため、主体的であったと認められるのではないか。すなわち、主体的であるとは、「活動の開始」よりも「活動の継続」を自らの意志で行うことだといえる。では、ポジティブな反応 (perception) を示し、活動の継続意志を高めるには何が必要なのか。

関与(involvement)の構造

それは「関与 (involvement) 」である。関与とは、言い換えれば「意識がその対象に向いている状態」である。ある対象と物理的な接点があるとき、自分とその対象がパイプでつながっていることをイメージしてほしい。しかし、ただパイプでつながるだけでは関与しているとは言えず、そのパイプに水(自分の意識)が流れる状態が関与である。

では、どのようにしたら水は流れるのか。その意識レベルの現象を構造化したのが堀田(2017)の研究である。堀田は、自己の意識が対象に向いている状態、すなわちパイプに水が流れている状態を「活性状態」とよび、その活性化には、対象に関する知識の認知構造が大きく関係するとした。

堀田は、関与に関連する知識を「①領域知識」と「②自己関連知識」に分類した。①領域知識とは、その対象や状況を示す情報のことを指す。対象に関する情報(①)を獲得すると、自己の価値体系や目的と関連させ、対象の意味づけを行う(自分にとって好きか嫌いか、必要か、あるいは面白そうかなど)。こうして獲得されるのが②自己関連知識である。意味づけによって対象が自己にとって価値あるものだと認識すると、③自己の価値観と対象の結びつけ(内因的自己関連性)や④特定の状況における一時的な目的(状況的自己関連性)が発生し、対象への関与が活性化される仕組みとなっている。

つまり、単に①領域知識を獲得しただけでは関与とはならず、対象に価値を見出し(②)、③または④が発生して初めて関与状態となるということである。先ほどの映画鑑賞の2人のケースでは、同じ映画のストーリー(①)がAさんには「感動的な話(②)」として、Bさんには「難しい話(②)」として結び付けられたため、「感動に触れたい(③)」「映画の展開を観たい(④)」という意識がAさんにしか発生しなかったと説明ができる。

関与の活性化と主体性の関係

スポーツ観戦におけるNelson et al. (2008)の研究では、観戦するチームの情報を知るだけでなく、勝敗予想までした方が、観戦の満足度が高まることが明らかとなった。これは、まだ自分にとって”他人事”だったチーム情報(①領域知識)が、勝敗予想によって当該チームの勝利願望(②自己関連知識)を自覚し、”自分事”として結びついたことで、勝利への期待(③内因的自己関連性)や観戦への意欲(④状況的自己関連性)につながったと考えられる。

また国内の研究でも、チームや競技に関する知識量が多い人の方が、スポーツ観戦で感動を味わいやすいことも明らかにされている(押見・原田,2013)。たくさんの①領域知識を獲得することで、それが自分にとっての関心事(②)として結びつきやすくなり、関与が活性化されやすくなることが示唆される。

このようなことはスポーツ観戦以外でもいえる。例えば「安倍首相が辞任(①)」という情報を「自分にとっては重大(②)」と自分事として結び付ける人は、政治の情報収集という関与行動を自ら起こす。すなわち、主体的に政治を学ぼうとする。しかし、同じ情報を「あまり政治には期待していない(②)」「どうせ投票できない(②)」と他人事として結び付ける人は、自ら政治に関与しようとはせず、仮に政治ニュースが届いてもあまり関心を示さない。すなわち、主体的に政治を学ぼうとしない。

このように、日本の教育が子供に期待する「主体的な姿」とは、自らそこに意識を向け、関与している状態であり、堀田のいう「②自己関連知識」をより多く自己と結びつけられる人が主体的であるといえる。

教師・指導者が目指すべき「主体的な子供の姿」とは

これまでの考察から、教師・指導者が目指すべき「主体的な子供の姿」とは、まさしく「自らそこに関与している状態」であるといえる。前半で述べたような「自己生産(PP)」が低い読書や講義形式の授業だとしても、自らの意志で読もう、聞こうとしていれば、それも十分主体的な姿といえるのである。

それを促すために教師・指導者にできることは①領域知識の提供だけである。すなわち、学習活動および学習内容の情報提供だけとなる。しかし、この「①領域知識」も100%教師がコントロールできるわけではない。

「領域知識」に該当する情報とは、教師が提示するものだけでなく、環境から認知する非言語的な情報や、子供の過去の経験から蓄積している既知の情報も含まれる。また、関与によって子供の内部あるいは外部環境に変化が生じれば、それが新たな領域知識となる。その新たな情報により、子供の関与状態が加速したり減衰したりといった影響が出ることも考えられる(課題をやり終えて満足してしまった、あと5分で終わるとわかったら急にやる気になるなど)。

それら情報をいかに子供の中に「価値あるもの」や「期待できるもの」として結び付け、関与状態を持続させられるかが勝負どころになる。しかし、提示した領域知識がどのように子供の中に結びついたのか、それによってどんな価値を見出し、どの程度関与が活性化されたのか、ということは、当然ながら外から見て取ることはできない。つまり、主体的であることを目指しつつも、真に主体的であるかどうかは評価できないのである。

これを理解し、受け容れなければ、子供の真の主体性を育むことはできない。初めに例示した「主体的=自らすること」という定義は、客観的に評価できる「行動」だけを切り取ったものであり、いわば”見せかけの主体性”なのである。日本の教育は、「教師が評価するため」に真の姿を歪曲させてしまうことがしばしばある。主体性などのような目に見えない潜在的な概念を、すべて行動レベルで顕在化させようと試みるのは、大きな誤謬を生むことを肝に銘じなければならない。

まとめ

ここまで長文を読んでいただいたことにまずはお礼を申し上げたい。最後に2つのことを記して本稿の結びとする。まず第一に、誤解してはならないのが、「主体的である」ことが望ましいとされるのは、その方がポジティブな経験価値(学習内容の定着、学習対象への興味関心など)を得られやすいからということである。主体的な学習姿勢で臨む方が、学習効果が得られやすく、主体的にスポーツ観戦をした方が、観戦を満喫しやすいというだけである。つまり、真に目指すべきはその経験価値であり、主体的に活動させることが目的化してはならない。

第二に、Deciの「自己決定理論 self-determination theory」に基づけば、人間の行動は、自律的な調整の結果と統制的な調整の結果があるとされている。すなわち、「やりたいからやっている場合」と「やりたくないけど仕方なくやっている場合」があるということである。本稿の「主体的=自らそこに意識を向け、関与している状態」の定義でいくと、それが「前向きな関与」なのか「後ろ向きな関与」なのかが区別できなくなり、後者を主体的と呼んでいいのかという議論が生まれると考えられる。

この議論については、今後の思考材料としてさらに深めた上で、稿を改めて記述したい。本稿を”主体的に”読んでくださった方に、改めてお礼申し上げます。


・自己生産(PP)の視点でみれば、「自分でやること」が「主体的」であるとはいえない
・対象に対して「関与状態」をつくりだすことで、そこでの experience をポジティブなものにしやすくなる
・「主体的である」とは「自らそこに意識を向け、関与している状態」である

参考文献

・Chelladurai, P.(2014): Managing Organizations for Sport and Physical Activity a systems perspective - 4th edition
・Schmitt, B.(1999): Experiential marketing, Journal of marketing management, 15 (1-3), 53-67
・堀田治 (2017), 体験消費による新たな関与研究の視点ー認知構造と関与状態への分離ー, 日本マーケティングジャーナル, 37(1), 101-123
・長沢真也、大津真一 (2010), 経験価値モジュール(SEM)の再考, 早稲田国際経営研究, 41, 69-77
・押見大地、原田宗彦 (2013), スポーツ観戦における感動:顧客感動・満足モデルおよび調整変数の検討, スポーツマネジメント研究, 5(1), 19-40
・Nelson, L., Galak, J., Vosgerau, J., (2008): The Unexpected Enjoyment of Expected Events: the Suboptimal Consumption of Televised Sports. NA - Advances in Consumer Research, 35, 185-188.

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