体育授業での「自由」のつくり方 ~中動態の視点~

だれでも「自由」という言葉を聞くと嬉しい気持ちになる。「自由」には開放的なイメージが強く、自分の(あるいは集団の)意のままに行動することができる状態を思い浮かべるだろう。特に子供にとって「自由」は最高の”ご褒美”であり、最も生き生きとする瞬間でもある。これは裏を返せば、子供たちは常に「縛られている」状態であり、何かを「強制されている」状態ともいえる。

一方、授業において「規律」の重要性を認識していない教師はいない。殊に体育という広い空間で開放的に行う授業においては、より”整えられた”集団であることが非常に大きな意味をもつ。そのため、体育指導者は自然と「厳しく」なる傾向にあり、小学校においてもまずは子供たちを「従える」ことを教師は無意識に目指す。

このことから、体育授業に窮屈なイメージを持つ人は相当数いるだろう。同じ体を動かす時間でも、休み時間や放課後は楽しいけど、体育の時間はちょっと…という人もいるはずである。実際に今の子供に聞いてもその意見は聞こえてくる。そもそも、なぜ体育の授業において「規律」が重要なのか?子供が学習しやすくなるため、活動が進めやすくなるため、あるいは教師が指導しやすくするためといった理由が挙げられるだろう。適切なフレームをつくりその中での「自由」を手に入れるために、むしろ規律は必要であるというロジックはよく理解できる。しかし、場合によってはその規律のために「不自由」が生まれてしまうこともある。それを「ルールだから」とそのまま子供に押し付けてはいないだろうか?「自由」をつくり出すための規律が、どうして「不自由」を生み出してしまうのか。本稿はその原因の解明を試み、すべての参加者にとって「自由」と「規律」が両立できる集団づくりのヒントを整理していく。

「ルールをつくる人」と「ルールに縛られる人」

ルールというのは、人がある集団や組織に属して活動するためにはなくてはならないものである。ルールというものによって「やってもよいこと」と「やってはいけないこと」の境界が明確になり、同集団のすべての人にとって一定の権利や自由を保障するためのものである。また同時に、ルールとは人々の行動に制限も加えている。日本で生活する人は「日本国憲法」によって行動を制限され、学校の生徒は「校則」によって制限され、あらゆるスポーツ選手もそれぞれのルールによって行動が制限されている。ルールとは、このような「限定的な自由」をつくり出す機能を有している。

重要なのは、この「限定的な自由」を誰がつくり出し、誰がその恩恵を受けるかという点である。スポーツでは、ほとんどの場合ルールは試合の”外”でつくられ、試合の”中”にいる選手はただそれに従うのみである。つまり、スポーツには「ルールをつくる人」が(現在または過去に)存在し、選手たちは「ルールに縛られる人」としての位置づけになる。言い換えれば、選手たちは他の人がつくった「限定的な自由」の恩恵を受けながらプレーをしているのである。

スポーツ以外にも、私たちを取り巻く様々なルールは、そのほとんどが自分ではない誰かによってつくられている。すなわち、私たちのほとんどは誰かがつくった「限定的な自由」の中で生活している。その意味で、私たちは極めて「受け身」であるということができる。しかし、私たちは決して「生かされている」わけでもないし、「ルールを守らされている」とも感じない。本当に私たちは「受け身」なのだろうか?

ルールを窮屈に感じるときはどんなときか?

私たちが他の誰かが作ったルールの中で生活やプレーをしても、決して受け身であることを感じないのはなぜか。それは、多くの場合で自分がやりたいと思った行動をとれるから、である。つまり、私たちが欲する行動のほとんどが「限定的な自由」の中に収まっている。もっといえば、無意識のうちにその「限定的な自由」の中で済むように行動の選択肢を狭めているのかもしれない。しかし、何らかの場面で取ろうとした行動が「限定的な自由」のエリアから逸脱してしまう瞬間が生じることもある。このとき初めて、私たちは「窮屈さ」を感じる。つまり、自分のとりたい行動がルールによって拒絶されたときに初めて、私たちは自分が「縛られている」と自覚するのである。

ルールの窮屈さを感じる場面は、
①それが「限定的な自由」の外にあると知らずに行動してしまう場合
②それが「限定的な自由」の外にあると知りながらわざと行動に移す場合
の2つに分けられ、主に①の場合の方がより窮屈さを感じる。
窮屈さを感じたときの対処法としては、
A:自ら「限定的な自由」の範囲を広げようとする
B:取ろうとしていた行動を断念する
という2つの選択肢があるが、他の誰かが決めたルールをいきなり自分の手で書き換えることは到底できず、Bに泣き寝入りする場合がほとんどである。

ここで、「与えられた」限定的な自由に窮屈を感じてしまうのは「ルールをつくる作業」を自ら行わないことが原因である可能性が見えてくる。体育授業に窮屈なイメージを持つ人も、教師が”勝手に”やると決めたルールに無理やり従わされてたという記憶が根底にあるのではなかろうか。自分の力が及ばないところで誰かが勝手に決めたルールによって、「やろうとしていたことができなかった(やる自由の制限)」や「やりたくないことをやらされた(やらない自由の制限)」が感じられる場面が多いと、その状況に強い窮屈感を覚えるようになる。

「中動態」という視点

ここまでの話から導かれる結論は、ならば自分自身でルールをつくればよいである。しかし、個人レベルならまだしも、体育という集団での活動においてそんなことが可能なのだろうか?そこでヒントになるのが「中動態」という概念である。

中動態とは、「能動態でも受動態でもない状態」を意味する言葉である。しかし、これを一言で定義できるほど単純な概念ではない(その概念の解説だけで一冊の本になる)。ここでは、中動態本来の意味を崩さない程度に、本稿のテーマに沿う部分だけを抜粋してインスタントに定義する。中動態とは、次のような状態を指す。

・自分がした行為から始まる事象の中に自らもある状態
・完全な自由でもなく、完全な強制でもない状態

『中動態の世界』國分功一郎を参考

中動態は、現在の日本語や英語には文法上の特別な表記は存在しない。しかし、具体的な場面としては現実に存在する。例えば、

・レストランで客が料理を注文する。(客の「注文」から始まる調理などの事象の恩恵を客自身が受けるため、客は「中動態」となる)
・私はテスト勉強をする。(私による「テスト勉強」という事象には当然「私自身」が存在するため、私は「中動態」となる)
・教師が児童に教える。(教師の「教える」という事象は教師と児童の両者による営みのため、教師は「中動態」となる)

などの状態を指すことができる。また、上記に示した例のいずれにおいても「客」「私」「教師」は完全な自由ではなく、完全な強制でもない。「客」は、好きなメニューを自由に選んでいるが、店に用意してあるメニューという制約がある。「私」は自分の判断でテスト勉強を始めたが、そもそも「テストが控えている」という状況がそうさせたという意味では強制ともいえる。「教師」が”どのように教えるか”は本人の裁量が大きいが、”何を教えるか””いつ教えるか”はカリキュラムや児童の姿によって方向づけられている。

子供が「中動態」なのか、「受動態」なのか

少しは「中動態」という状態のイメージが持てただろうか?このような例をもとに考えると、中動態にある状況はあらゆるところに見ることができるはずである。では、本稿で検証したい「体育授業のルールづくり」においてはどうだろうか?

「子供が中動態か、それとも受動態か」が重要になるのだが、もう少しやわらかい表現に言い換えよう。すなわち、子供に適用されるルールを(部分的でも)子供自身が作っているか、完全に教師だけで作っているかということである。「集合のときは4列縦隊」「体育時の服装」など、細かなルールを教師が一方的につくり、それを子供に押し付けている状態は、子供は「受動態」である。むしろ、自らルールを設定し、自分自身がその中で授業を展開するという点では、教師こそが「中動態」にあるといえる。しかし、子供が「受動態」では、先述のような窮屈さを感じてしまい、のびのびとした体育ができなくなってしまう恐れがあるだろう。

第三者からみえる「規律」は必要か

授業のルールづくりを子供にも一緒に参加させることで、子供にとっては自らに適用される「限定的な自由」を自ら設計することになり、まさに「中動態」になる。前述のとおり中動態とは完全な自由でもなければ、完全な強制でもない、つまりなんでもかんでも思い通りにはならないということである。集団授業のルールを自分たちで考えることで、集団の意識した中での自分の行動選択ができるようになる。受動態の子供は、「自分がやりたい行動は”先生”に認められるか」を考えるが、中動態の子供は、「自分がやりたい行動は”この集団”に認められるか」を考えるようになるのだ。

私は校内で体育授業の公開をよくするが、毎回のように驚かれることがある。それは「どうしてこんなに子供たちが自由なのに、少ない指示で活動が流れるんですか?」というものだ。ここで質問者がいう「自由」の意味を用いれば、私の授業は傍から見れば「整っていない」ように見えるそうだ。たしかに「前ならえ」や「体育座り」のような姿勢や「笛が2回で集合」のような整然とした集団行動はほとんど指導していないし、体育館では見学者が2階のギャラリーから見学していることもある。そういう意味では授業の「規律」というのはないように見えるが、決して「崩壊している」とは思わない。なぜなら、子供自身が越えてはいけない一線を理解しているからである。

その一線とは、次のようなものである。

・自分自身が授業の活動に参加する
・他の人の参加を妨害しない
・授業全体の流れを妨害しない

私の授業では、この3つを守れてさえいれば、どんなタイミングでどこで何をしようが「自由」であることを子供と共有している。だから子供たちは、授業が向かう流れを感じながら、常に「やりたいことをやっている」感覚が強いのだろう。中動態とは、完全な自由と完全な強制の間にあるグラデーションだが、私の体育授業では「かなり自由に近い中動態」なのである。

日本の学校教育が作ろうとする集団はとかく「同質性」が強い集団である。そのために担っている役割の大きさからも、特に体育ではその傾向が強く表れている。しかし、それが強くなるほど教師がルールで雁字搦めに縛り、「受け身」となった子供が窮屈感を感じてしまう。しかし、私が目指しているのは「可変性」が高いフレキシブルな集団である。常に互いが影響し合いながら、そこに”漂っている”かのような自然体で、しかし集団の方向性や枠組みは崩さない。そういう集団は流動性も高く、外から見れば決して「整って」はいないだろう。だが構成メンバーである子供たちがみな「中動態」であり、主観的な自由度が高くあれば、エネルギーも発揮しやすく、集団としてのパフォーマンスも上がってくると確信している。

本稿が今後の集団作りに何かしらのヒントを与えられれば幸いである。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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