体育は、目的を「超越」できるか。~体育における「贅沢」~

「体育とスポーツのギャップを埋めることはできないのか」

この漠然とした問いから私の知的探求は始まっている。これまでもマガジンで50本近い記事をまとめてきたが、具体的な実践アイデアは思いついても、それを裏付ける理論や哲学はまだまだ途上にある。そんな中で最近読んだ2冊の本が重要なヒントをくれた。本稿は、それを体育に援用した考察である。初学者の私の理解では論理が飛躍していつになく難解になるかもしれないが、なるべくかみ砕いて記述するようにしたい。

1.目的的なスポーツと手段的な体育

まず、スポーツと体育は明確に区別されていることを述べておきたい。過去の記事でも触れているが、人間はこれまでにさまざまな「文化」を築き上げ、それらを社会の中で機能させてきた。そのさまざまな文化は、大きく2つに分類することができる。1つは「それ自体を享受するための文化(目的的文化)」であり、もう1つは「他の文化の享受を助けるための文化(手段的文化)」である。

スポーツは、その語源からも「目的的文化」に位置付けられている。一方で、体育とは「教育」という機能の一部であり、教育それ自体は、社会の営みに順応する人間を形成する役割をもつ文化である。つまり、社会にあるさまざまな文化を享受できる「器」を個人に中につくる「手段的文化」であり、体育はスポーツや健康的な生活などの文化を”将来的”に享受できるようにするための手段とされている。

2.体育の目的は

体育が「手段」であるならば、体育によって果たされるべき「目的」もまた存在するはずである。体育の目的(「目標」ではない)は、『体育哲学-プロトレプティコスー』にある内容を整理すると、次のようになる。

①身体の教育(身体機能の向上や健康な身体を育むこと)
②身体運動を通した教育(身体運動を通して全人的な発達を目指すこと)
③身体運動(スポーツ)の教育(運動文化への理解や生涯スポーツへの接続を目指すこと)

「①身体の教育」とは、いわゆる健康なからだを手に入れるための手段である。心肺機能の向上や多様な運動感覚の獲得という言葉でよく表現されるが、それらは過去には「国軍の増強」であり、現在は「健康寿命の増長」、さらには「医療費の削減」という大きな政治的なねらいに基づいている。そのため、特定の技やスキルを身につけることではなく、転んだ時にけがをしない受け身がとれることや、多少の病原菌には負けない免疫力をつけることが具体的にはイメージされている。

「②身体運動を通した教育」は、現在の「教育」のイメージに最も親和性の高い目的であろう。一言でいえば、身体運動やスポーツを通して「よい振る舞い」を身につけることであり、他者とのコミュニケーションスキルや課題に向き合う姿勢などの人格的な部分に強くフォーカスした目的である。今の学校教育はこのような人間的成長が根幹的な主題となっており、体育においてもそれは例外ではない。

「③身体運動(スポーツ)の教育」とは、運動という文化価値を理解させ、生涯にわたって運動やスポーツを享受できる「器」をつくることが目指される。つまり、卒業後にも運動やスポーツを継続してもらうために、体育という「場」でもそれを体験させようという趣旨である。しかし、そこには運動文化の理念や歴史といった知的理解(頭)、運動による「楽しさ」という心理状態の経験(心)、スキル獲得などの「スポーツ遂行能力」の向上(体)といった様々な観点が混在し、まだ議論の余地が多く残されている。

また、これらの目的はそれぞれ「体育という手段の行使者」も若干異なる。①のように体育を「健康な国民」の獲得のために利用したいのは「政府」であり「医療」である。②のように「人格の形成」のために利用したいのは「社会」であり「我々大人」である。③のように「スポーツ文化の発展」のために利用したいのは「スポーツそれ自身」であり「経済」である。体育教師はそれらの立場からの要求を「代行」しているにすぎず、結局は「だれのための体育なのか」という問題に直面してくるのである。

3.身体的な生と精神的な生

ここでもう1冊の重要な書籍を取り上げたい。それは、國分功一郎氏の『目的への抵抗』である。この本は『暇と退屈の倫理学』(こちらもまたとんでもない本だが)で扱った概念をさらに深めたものであり、コロナ禍における過去最大規模の「制限」に対する哲学的な考察が記されている。その中で、イタリアの哲学者アガンベンの主張を取り上げて次のことを指摘している。

人間が人間として生きているとは、ただ単に生存していることとは違う。ただ生存しているからといって、その人間が人間として生きているのだということはできない。これは言い換えれば、人間が人間として生きていることから、生存だけを取り出すことなどできないということです。ところが、現代社会では、生存だけを取り出して、「精神的な生の経験」無しの「身体的な生の経験」を考えることが当たり前のようになってきている。

『目的への抵抗』より

アガンベンは、「コロナにかかりさえしなければ、味気ない生活になっても仕方ない」と放棄してしまう市民に大きな警鐘を鳴らしていた。つまり、「精神的な生の経験(=心の充足)」を諦めてまで「身体的な生の経験(=生存)」のみを追求するその一人一人の「態度」が危険だと訴えたのである。先ほどの体育の目的を思い出してほしい。まさにこれは「長生きできる身体」だけを切り取って追求する①の目的と重なる。「身体機能の発達」や「病気をしない身体」だけが達成される体育は、果たしてそれで十分なのだろうか。

4.贅沢とは、目的をはみ出すこと

そうなると、では体育における「精神的な生の経験」とは何かということになる。ここで、同書に登場する別の概念を取り上げたい。それは、フランスの哲学者ボードリヤールによる「消費論」における「贅沢」の概念である。

贅沢の本質には、目的なるものからの逸脱があるのではないでしょうか。(中略)我々が豊かさや充実感を感じるのは、目的をはみ出た部分によってです。確かに食に目的を設定するならばその目的は栄養摂取である。けれども、食がその目的しか追求しないようになったら、食における人間らしさは失われてしまうというべきではないでしょうか。その意味で、食が持つ栄養摂取という目的を超え出る経験、すなわち贅沢の経験が人間の食には欠かせないということができるでしょう。

『目的への抵抗』より

ここでいう「贅沢」は、先ほどの「精神的な生の経験」に直結するものとして挙げられており、食事においても「栄養摂取以上のもの」が必要であると述べられている。しかし、ここでボードリヤールはもう1つの重要な区別を論じている。ボードリヤールは、贅沢(必要以上の余剰)を享受することを「浪費」とよび、その対立項として「消費」を据え置いた。

ボードリヤールにとって「消費」とは、「観念や記号など、物ではない対象を求めること」と定義している。

あるお店が流行しているからという理由で人はそこに赴く。そして一定の時間が経つと、今度は別のお店が流行しているからという理由で別の店に赴く。どうして人がこのような行動をくり返しているのかと言えば、それは
「その店に行ったことがあるよ」と人に言うためです。

『目的への抵抗』より

例えばあるレストランが流行すると、このような現象が多くみられるだろう。この場合、人がそのレストランに行くのは「行った事実をつくるため」や「料理の写真をSNSに上げるため」にすり替えられてしまっているという。つまり、本来の食事の目的である「栄養摂取」という物の受け取りではなく、「人気店に行ってきた」という観念の受け取りが目的として置き換えられ、それは望ましくない「消費」であるとボードリヤールは指摘した。

すなわち、贅沢とは「目的を果たしながら、目的”以上”の何かを得ること」であり、友人との会話や流行へのキャッチアップなどが目的の来店のような「目的”以外”の何かを得ること」ではないということになる。「はみ出る」とは、矢印を逸れるのではなく、目的地の先まで突き抜けるという意味なのだ。

5.体育における「贅沢」とは

体育において「精神的な生の経験」を味わうことは、言い換えれば体育において「贅沢」を味わうことである。では、体育における「贅沢」とは何か。ボードリヤールは浪費と消費の区別について、物理的な受け取りをする浪費には限界があるが、観念や情報を受け取る消費には限界がないという指摘もしている。

限界があるということは、「もうこれ以上いらない」という状況が訪れるということだ。体育においてこれ以上いらない状況とは、ただ1つ「疲労」しかない。つまり、体育における贅沢とは「くたくたに疲れるまで運動できること」だと考えられる。

ここで重要なのは、食べ物や衣服などの贅沢は、すべて自らの意志で得るものということだ。決して誰かから「与えられる」ものではない。したがって、体育においても教師の言いなりに運動「させられ」た結果の疲労では、まったく贅沢ではない。ではどのような「疲労」が望ましいのか。そこにヒントをくれる一節を引用する。

目的によって開始されつつも目的を超え出る行為、手段と目的の連関を逃れる活動、それは一言でいうと「遊び」ではないでしょうか。たとえば、子どもは砂場へ行くと砂で山を作って、そこにトンネルを通そうとする。ある意味では、砂場を見た瞬間に山を作ろうという目的に導かれているのだともいえるのかもしれませんが、もちろん、その目的は目的としてはどうでもいいものです。なぜならば、山を作り、トンネルを通すことそれ自体が楽しみの対象であるからです。遊びには、明らかに手段と目的の連関を逃れる側面があります。

『目的への抵抗』より

そして、「遊び」という日本語が持つ「ゆとり」という意味にも注意を促しておきたいと思います。「ハンドルの遊び」のような言い回しで、この語は、機械の連結部分がぴったりと付いていないでゆとりを持っていることを意味します。これは必要を超え出て、目的をはみ出る贅沢の経験を思い起こさせます。

『目的への抵抗』より

子どもの「遊び」は、何かがきっかけで導かれるように始まるが、気が付けばそれ自体が自己目的化するものである。そして、あえて「余剰」や「ゆとり」を持たせることに対しても同じ「遊び」の語がつかわれていることは非常に興味深い。最後に、この「遊び」を体育でどう扱うべきかをまとめ、本稿を締めくくる。

6.「遊び」によって目的を超越する

ここまでの内容を整理すると、現代社会は「精神的な生の経験」と「身体的な生の経験」を分離させ、単なる生存に強く執着するようになったという指摘から始まり、それが「健康な身体をつくるための体育」という政治的なメッセージに象徴されていることをみた。そして、体育にも「精神的な生の経験」が必要であり、それを実現するために重要な概念が「贅沢=目的以上にはみ出すこと」であった。そして、その贅沢と親近性の高いものが「遊び」であった。

ここまでのロジックから「体育では遊びをすればよい」という短絡的な結論に帰結させるのは非常に危険である。そのため、体育の目的から改めて丁寧に積み直したい。

まず、アガンベンが指摘したのは「生存を追求したこと」ではなく、「身体的・精神的が織り交ざった生の経験から、身体的な生存だけを独立させたこと」であった。特に生存の重要性自体は否定していない。これを体育に換言すれば、体育は健康的な身体の獲得「だけ」を目的としてはいけないということがいえる。また、贅沢が必要なのであれば、そもそも物の受け取りをする「浪費」が必要であり、その視点からも「健康な身体」という物理的な目的は筋が通っている。要は、健康な身体を追求しながら、そこを「はみ出し」て「精神的な生の経験(=心の充足)」まで届かないといけないのである。

その「はみ出し」こそが「遊び」なのだ。はじめは何らかの目的のための手段として始まったものが、気づいたら自己目的化していたものが遊びである。子どもが遊ぶのは、仲良くなるためでも、時間をつぶすためでもない、ただ「それ自体が楽しいから」である。でもそれは「遊ぶ主体が感じる主観的な経験」であり、傍から見れば、友達との交流や暇つぶしといった手段的な側面が映る。

つまり、体育は教師自身は何らかの手段として用いながらも、そこに参加する子どもにとっては自己目的化しなくてはならないのだ。教師側の視点では「健康な身体の獲得」や「人間的な成長」のため手段であっても、主体である子どもは「遊びのような楽しい経験」を感じられなければならない。これが主体にとって目的を「はみ出す」という贅沢なのだ。

教師側の持つ「〇〇という動作を身につけさせる」という目的をそのまま子どもと共有してしまうと、子どもにとっても体育は練習という手段と化してしまい、「目的以上」の経験はできなくなる。これはアガンベンが指摘した「身体的生と精神的生の分離」とまったく同じ構造である。

歴史や文化的な背景はまだリンクできていないが、結果だけをみれば、
【日本の体育】:身体的な生の経験だけが「独立」した手段的な体育
【欧米の体育】:教師にとっては意図がある手段でも子どもにとっては「遊び」をしている目的的な体育
という対照的な図式の説明が可能になる。先日欧米式のPEプログラムを展開している指導員の方々と対談する機会があったが、日本の体育では「遊んでいたら目的に届かない」と考えるのに対して、彼らは「目的に到達させたいからこそ遊ばせて夢中にさせる」と考えると聞いて深く頷いた。

『暇と退屈の倫理学』の中でも、この「遊んでいる」感覚を「その状況を楽しんでいること」と表現していた。遊びとは、「やりたいことをやる」という内発的なものではなく、「目の前の環境に自らを順応させて没入する」という中動態としての概念なのである。多くの教師は遊びを前者のように捉えており、「目的から逸れるもの」と考えがちだろう。しかし、本来は「目的の向こう側にあるもの」であり、そこに没入させれば自然と目的にもアプローチできているという発想がもっと必要なのだろう。

体育は、目的を「超越」できるか。そのカギは遊びにある。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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