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恋愛世襲制


十五代目の笑窪は十四代目のそれより深かった。

ミルク色の幼い地平にうがたれた渓谷。小指がすっぽり埋まりそうなスケール。

中年の気配が、冬がはじまる紅葉の切れ目みたいに見え隠れしていた先代の面影を思い出す。

先代は、嫁を娶《めと》るほんの数日前まで私のもとに通い続け、恋の詩を綴り続けた。

足の指先まで若さが溢れて、溌剌としている十五代目は、先代とは比べようもないくらい青臭く未熟な恋の詩を読み上げる。

若さと引き換えのような熟練。肌が滑らかで、血管の中に灯籠を入れているみたいに内側から輝いている代わりに、そのオツムの中には何も無い。

ままならぬ人間の運命が憐れで、一生懸命に未熟な恋文を朗読する幼き十五代目が健気で、私は思わず涙をこぼす。

この子も、私がひとつ爪を切り、髪がほんの少し季節の匂いをくぐる間に老いていき、私のもとを去っていくのだ。

彼らの儚い命から見れば、私は永遠に生きる不老の存在に見えるかも知れない。

彼らは、生涯で一番美しい華の時期を捧げて、私を誘惑する事を使命づけられた一族。

何代でも世襲して、私を恋に落とすために生きる一族だった。

天帝からその使命を与えられた初代は絶世の美男子だった。

そこから、何代もの彼の子孫が私のもとに通っては引退していった。

少しでも私を落とす確率を上げるために、都中から美貌の血筋を選んでは掛け合わせているのか、代を重ねるたびに彼らの美貌は際立っていく。

私は、いくつもの美しい華が目の前で枯れていくのを見てきた。

容色が衰えると、彼らは私の花婿志願を引退し、血を絶やさぬために下山して人間の女を娶《めと》る事になる。

いつだって、それは最も親しい友人との別れだった。

30年、私にとってはささやかな時間だが、それでも情が移るには十分すぎる時間だ。

ようやく、心が通じ合えた。そんな風に感じられる頃には彼らは髪に白いものが混じる歳になっている。

彼らは枯れて、疲れはてて、穏やかな微笑みを浮かべながら下界に帰っていく。

そのとき、私の胸の中には、愛に変化する途上のような、胎児に変化する手前の赤い肉片のような、ぐじゅぐじゅしたものがいつもある。

だから、私は失恋したような心地。彼らが下山していくとき、いつも。

そこから始める一人ぼっちで、山の上の寺院で暮らす十数年。

あるのはたまの参拝者だけ。

彼の後継者が来るのを待つ日々。

何度も何度も彼との思い出を追憶しているうちに、空間が思い出を孕んで、風景の中から新しい彼を産み落としたみたいに、面影を宿した小さな男の子が現れる。

そんな日を待ち続ける日々。

いつだって私は、新しい彼が実際に現れると少しいじけた態度をとってしまう。

待たされた事に対する不貞《ふて》腐れと、私の彼を寝取った女が産んだ子が現れた、という意地の悪い意識。それがない交ぜになって心の海は荒れに荒れてしまう。

だけど、幼い男の子が一生懸命になって正式の口上をのべる姿を見ると少しづつ胸をほだされてしまう。

彼の面影を色濃く残す小さな男の子が、愛らしい声で、必死で覚えたであろう口上をたどたどしくのべる。

気付けば私の頬は雪融けて頬笑んでいる。

孤独で凍てついた胸が暖かくなって、あの頃の鼓動を取り戻している。

□□

足の親指から小指まで、彼の爪の形を指でなぞっていた。

膝を抱えたまま顔を赤らめて、私のされるがままになっている十五代目の彼。

身体のパーツひとつひとつが端正に整っていて、単純に顔や身体の美しさだけならこの子が歴代で一番かも知れない。

処女作っていうより童貞作って言いたくなるようなみっともない恋文は上の空で聞き流してしまったけれど。

永遠に固着しているように見える彼の幼さと、滑らかな頬。

ほんの微かづつ、ほんの微かづつ、砂時計みたいに彼の中から生命の砂がこぼれ去っていってる。ピラミッドみたいに巨人な砂時計だから、瞬間では変化が見えないだけなのだ。

上都から取り寄せた氷菓を出すと、雲がとれたみたいに彼の表情は輝いた。

大人たちに言わされてるだけで、女なんかより菓子の方にずっと愛着がある年齢なのだ。

氷菓を頬張る彼の顔を眺めているとき、私の胸を満たしていたのは息子に対するような慈しみの情念。

私は、あれだけ親しく付き合ってきた歴代の彼らの、誰の死に目にも会えていないのだという事を思い出していた。

美しさが死に絶えるずっと手前に、彼らは私のもとを去ってしまう。

歴代の彼らの誰もが、私に弱味を見せようとはしてくれなかったのだ。

それは、なんて寂しく哀しい事だろう。

廊下の床を踏みしめていた成熟した大人の男の足。それがぱたぱたと軽い子猫のような足に変わっている。

その子が前の男の面影を色濃く残す顔立ちだけに、めまいに似た感覚に襲われる。

情熱に燃え上がる腕で私を抱擁していた大人の身体は、意味も分からず動作を模写しているだけの無垢な男の子の身体に変わっている。

何もかもリセットされてしまう切なさ。

彼と、彼の周囲を包む色鮮やかな四季。

四季と共に流転し、季節の中で老いていく彼らの中で、私だけが命のリズムから取り残されている。

天帝はなぜ、このような私の運命に憧れなさるのか。

愛するものや愛する世界から切り離され、一人残される孤独を、なぜお望みになるのか。

天帝は、私の赤子を食せば、この体質を受け継ぐ事が出来ると堅く信じているようだ。

それも、愛し合って生まれた赤子でなければ、不老の体質を受け継げない。そう、呪術士にそそのかされた。

全くの出鱈目。

それでも、天帝は永遠に生きるという夢を諦めきれない。

私を山奥の巨大寺院に閉じ込め、国中から若く綺麗な男を集めて私のもとに送り込んだ。

私は、どんなに美しい男が現れても心を凍てつかせたまま微動もしなかった。

美貌で有名な劇役者や国中で名前の売れた女たらしなど、様々な男が現れては誘惑を繰り返したけど、どれも無駄だった。

今にして思えば、愛し合って生まれた赤子でしか不老の力は受け継がれないと宣託してくれた呪術士には感謝しなくてはならない。それが無ければ、私は無理矢理犯され孕まされ腹を引き裂かれて赤子を奪われていたかも知れないのだから。

だが、そのとき私の前に彼が現れた。

彼は、私の腕の中で老衰して死んだ幼馴染みの初恋の人と瓜二つだった。

天帝は、私が彼だけは遠ざけず受け入れた事を見てとった。

だが、彼は老いていく。やがて死んでしまう。世界中から取り寄せた秘薬で常人の数倍も長生きする天帝とは違う。

そこで、天帝は、その男に美しい妻を娶《めと》らせて後継者を作る事に決めた。

恋人役を、世襲制にしたのだ。

だけど私は、いつまで経っても子供を身ごもる事はなかった。

天帝は、決して諦めなかった。

その執念は、この山奥の寺院と恋人役の世襲制を作り上げた最初の天帝が崩御しても、次の天帝に受け継がれていった。


□□

雷帝蝉の脱け殻を胸に抱えて頬を紅潮させている彼。褒めて欲しそうに上目遣いをしながらもじもじしている。

大人に言われたわけでもないのにくれた初めての贈り物に胸が温かくなる。

半透明の殻の中で、たんぽぽの綿毛が震えていた。

蝉の脱け殻の中で、春を飼っているみたい。

幼稚舎の子供と保母くらい肉体年齢に差があるのに、この子が私を口説きにここへ来ているのだと思い出すと笑いがこみ上げてくる。

最近はずいぶんなついているけど、それは必ず出すお菓子になついているのだ。

はたから見ると、どれだけ滑稽だろう。

身体の中に、秋がおりているようだった先代の撫で肩を思い出す。

身体の中に、四季をもつ人生の美しさから疎外された私は、この雷帝蝉の脱け殻のようなものかも知れない。

脱け殻の私のなかで、内に春を住まわせる少年が吹き抜けて、たんぽぽの綿毛が震えているだけ。

彼に講談の写本を読み聴かせているとき、麓の踏み越し村が、全壊したという一報が届いた。

千年も歩幅をずらした事の無いでいだらぼっちが踏み越し村をぺしゃんこにしていったらしい。

滅多におこる事の無い異変に、胸の内側をざらついた感覚がよぎる。

山の白面が実を砕く、ぷおこーぷおこーという楽器のような音をここ数日聴いていない事に気づいた。

□□

神様が描いた、世界の景色という絵画の額縁が、奈落の底に転げ落ちた。そんな純白が目の前に広がっていた。

純白の壁面に四方を埋め立てられている、そんな窒息感すら覚える濃霧。

陰も輪郭も何もかも白く塗り潰されて、寺院の周囲には葉の震えすら見えない。

突然の濃霧で、彼は山を降りる事が出来なくなった。

今日は止まっていこっか?そう彼の湖面みたいな瞳に声をかけると、寺院に戻ろうときびすを返した。

背後の寺院が消えていた。

濃霧が、すべてを無地のキャンパスに変えた。

後ろに向かって手探りで歩いてみるが、ただ視界が悪いという事では説明がつかなかった。

あるべき場所に何も無い。

自分の呼吸が、勝手に荒くなるのを感じる。

すがるように伸ばした手。白い闇を必死で探った。

何も無い空間に放り出された。そんな不安感で、胸が破裂しそうになった瞬間だった。

手を握られた。子供の手じゃない。大きな男らしい手。

手は、私を引っ張った。慌てて、小さい彼の手を引く。はぐれないように。

なぜだろう、とても懐かしい感じのする手だった。

懐かしい人の体温をすぐそばに感じた。

血が混じるほど長くそばにいた相手にだけ感じる親しさ。

しばらく霧の中を歩いたとき、不意に手が離れた。

船底に大穴があいたような心細さに襲われる。小さな彼の可憐な手だけが世界と自分を繋ぐ命綱だった。

また、濃霧の先で手を握られる。

心臓も一緒に握られた心地がした。

ひんやりとした手の感触。さっきの手とは明らかに違う。もっと華奢な印象の手だった。楽器でも嗜んでいそうな繊細な感覚がする。

その手も、どこか懐かしい。

しばらく歩くと、手は離れていった。

そして、別の手が私の手を握る。霧の中。手の感触だけが世界の全てだった。

それぞれの手が懐かしい。それぞれ、知っている手だった。

計14回。手を引く男たちは入れ代わった。

どれもが、生涯をかけて私を愛してくれた男たちの手だった。

最後の手が離れていくと、目の前の霧が急速に薄れていった。

遥か地平線の彼方まで見渡せる丘の上に私と小さな彼はいた。

遠く微かに見える天帝の都が燃えている。

幾条もの煙が、都の各地から天に向かって伸びていた。

天帝の都が、侵略を受けている。

私たちのいた山の上の寺院も無事では済んでいないだろう。

それは、幾重もの意味であり得なくて、非現実的な光景。

誰が、絶対権力者であり天下無双の軍勢を誇る天帝の都を侵略できよう。

このちっぽけな世界に、天帝に逆らえる存在など残っていないはずなのだ。

突然、太陽の優しげな手触りから切り離され、冷たい影に全身を抱擁された。

向日葵《ひまわり》みたいに太陽を慕い仰ぐ。

太陽と私の間に、いやらしく肥満しきった人工物が横たわっていた。

数千メートルもあろうかという金色の仏像が、地表をうつ伏せに睨みながら宙に浮かんでいる。

金色の仏像の体表からは、絶えず蚤《ノミ》のような黒い粒が飛び出しては大地に向かって落下していく。

蛹《サナギ》によく似た茶色い人型の物体は、地面に激突するまでの間に孵化して人肌の色に変化すると自ら飛翔を始める。

それは、白い翼の生えた人だった。

天帝の都は、白い翼をもった異形の軍勢に襲われていた。

空の、東西南北から、同じような数千メートルもある神仏像が天帝の都に向かって来ている。

見たこともない造形の神仏像もあった。

私の太ももに必死にしがみついている小さな彼。

燃え上がり、大地から処女の衣裳みたいに儚く、むしりとられていく都。

月と、太陽と、同じだけの威厳をもって空に現れたそれは、巨大な船に見えた。

かたわらに舞い降りた一人の有翼人。

翼をもった男は、私の前で急に膝まずいた。

蝗《いなご》の大群のように空を黒い輪郭で削っていた有翼人がみるみるうちに私のいる高台に集結してきて、皆が一様に膝まずいていく。

小さな彼の湖の瞳が、不安で波打っていた。

数千メートル級の仏像たちが、空で雄大に回転し直立していく。

全ての神仏像が、大地に膝をつき、こちらに向かってゆっくりと頭を垂れていく。柔らかな山脈が身を横たえていくような光景。

月や太陽を足にかけるような超越的な威厳の巨大船舶が、降りてこようとしていた。

地獄も、天国も、その船の中にある。

なぜか私は、その事を知っていた。


山火事を背中にいくつも背負ったでいだらぼっちが燃え盛りながら躍り狂っていた。

火のついた肉片が地に降りかかる。

終末の風景の中で、海が開くようなスケールで船舶の裏側がひらいていく。

私にとって胸が苦しくなるほど懐かしい原風景が、船舶の内部には広がっていた。

涙で決壊した、澄みきった湖が私の下にある。細い腕が、精一杯太ももを抱く。

宇宙を土壌に咲く花のように、船舶がひらいていく。懐かしい。子供時代の思い出を照らす光のような懐かしい輝き。

「ゆかさぬぞ、神界の女」

不意に澄みきった湖の瞳が黒く濁ったかと思うと、大人の男の声が少年の声帯を通して言った。

見覚えのある、暗い眼差しだった。

天帝。

子供の身体の中に寄生虫のように潜んでいた、腐れ切った魂。

だが、次の瞬間、純白の炎が小さな身体を貫いた。

その炎は、私の皮膚には一切の熱も感じさせなかった。絵画の中の炎のように無音で揺らめいている。私以外の全てを燃やし尽くしながら。

上空に広がる、原風景の光の中に懐かしい人たちの気配を感じた。

天国も地獄もその内側にある。移動し続けている。

懐かしい人たちとは、みんなあの中で会える。

空間に、光の足跡が現れた。

足跡たちは、地上の至るところから現れて、空の光に向かって歩いていった。

地上の魂たちも故郷に還っていく。

大切な人たちにことごとく先立たれて、この世のあらゆる繋がりから切り離された私。

この世から旅立った大切な人たちの手がさしのべられるのを感じる。

永遠の暗闇の海で、自分の心臓だけが漂っているような孤独感がゆっくり薄れていく。

光の中に溶けていくとき、私が見たのは、大好きな人たちの笑顔だった。


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