モテモテの世紀


また、いつもの自意識過剰かと思った。

視界の隅で女の白い顔がこちらを向いている気がする。

俺の顔を、女が熱心に見つめている、という感覚。だが、たいていはただの自意識過剰で。焦点を女の白い輪郭に合わせてみればだいたい明後日《あさって》の方向を向いている。俺の事など見ちゃいねえのだ。

経験則から自らの自意識過剰っぷりに自覚がある俺は、もはや女の顔に焦点を合わせて確認するという作業すらしなくなっていた。

あの、勘違いに気づいたときの、猛烈に沸騰するような羞恥心《しゅうちしん》に胸を焦がすのには懲《こ》りてるのだ。

だが、今日は見られている感覚がいつまでも続いた。胸の奥で長年こじらせているナルシズムがチリチリとくすぐられるような激しい視線の感覚だった。

もう、これは俺の顔をじっと見ているのは確かな気がする。それでも何か遊び心のような気分で、その事実を確かめないで曖昧な状態を楽しんでいた。

肩をがさつに叩いて、俺の顔を無理に女の方に向けさせたのは幼馴染みのヒロだった。

顔を真っ赤にして、こちらを見つめていたクラスメートのリサと思いっきり目と目が合った。

予想してたよりも遥かにあからさまな表情だったのでこちらが当惑した。

「シンジ、モテモテじゃねえか。どしたの?昨日ヤっちゃった?」

いくらお下品な発言をしても陰湿さがまるで伴わないという不思議な人徳がヒロにはある。主に、青春学園ドラマの準主役にでも起用したくなるようなこの爽やかイケメンフェイスが要因だろうけど。

「リサって暗いけど男子に根強い人気あんだよな。顔立ち綺麗だし、色白で、どことなくエロいっていうか。感想きかせろよ、ヤっちてるときキャラ変わる人?」

「ヤってねえよ」

それどころか、ほとんど口もきいたこともない。1回席が近くなったときがあったけど、アニメの美少年が描かれたファイルケースを使ってるのが見えて話しかける気力が失せてしまった。

「岩瀬さんて、絵が上手いんだなぁ。美術室に飾られてあるの見たよ」

1度だけ、そう話しかけた事もあった。だけどモノの見事に無視《シカト》されて、それ以来まるで近寄った事すら無い。

あんな思いつめた表情で見つめられる覚えがまるで無いのだ。

「まだヤってねえってホントかよ?」

ヒロは見えない何かを抱きしめるようなパントマイムをして「くぅ~」と奇声をあげた。

「これからあんな可愛い娘とヤれんのかよ!クソが!お前はもう親友でも何でもねえ!消えろ!ゴミが!」

「・・・・・・どんだけ絶交の沸点浅いんだよ、お前」

「嘘!リサの周りにいる女の子紹介してくれよな!可愛い娘ってだいたい同じレベルの女子とツルむだろ?」

「・・・・・・沖縄の海よりなお透明にすけて見える魂胆はむしろ清々しいレベルだな」

「おう!俺の心は透明に透き通ってるだろ?」

□□

教室から抜け出して校舎内を歩き校門を出る。いつの間にか身体に染み着いた最短のルート。歴代帰宅部の下校最速レースが開催されたとしたら俺はかなり上位に食い込むんじゃなかろうか。

だが、校門の前に背筋の伸びた凛とした姿勢でたたずむ女子生徒の姿を見つけて、俺の下校最速伝説はあっさりと終止符を打たれた。

てゆーか、授業をサボって待ち構えていたとしか思えない。5、6限目の選択授業で別々の教室に別れてるリサがそこにいた。

何か、覚悟を決めたような凄みのある真顔でたたずむリサは、今まで見た中で一番綺麗に見えた。

予感はもちろんあったけど、実際にこんな風に待ち構えられていると鼻白んでしまう。見えない刃物で俺の胸を切り開いて大事な何かを抜き取ろうとしてるみたいな凄みのある気配。訳の分からない冷や汗が出てくる。

万が一のワンチャンに賭けて、そのまま素通りを試みてみる。もしかしたら女同士の決闘相手と待ち合わせてるだけかも知れないだろう?

「シンジくん」

真夜中の北極から届いたみたいな声だった。逃げも隠れもできない。リサの表情やその声のトーンが物語ってる。

おい、恋愛ってもっとキュンキュンしたり、ホッコリしたりするもんじゃねえのか?なんでこんなに張りつめた緊迫感が流れてんのさ。

振り返って、リサと対面した瞬間、胸を大きな刃物でぐさりと刺されたような心地がした。

リサの大きな瞳が涙をたたえて震えてる。今にも崩れ落ちそうな心細そうな身体。

その時点で俺は敗北を確信している。このレベルの女の子にこんな表情をされて、断れる男がこの世にいますか?

特に好きというわけでも無いのに、胸に飛び込んでくるリサを抱き止めてしまっている自分がいた。身体を震わせて腕の中で泣くリサ。その混じりっ気無しの真剣さに胸が痛んだ。罪悪感ていうやつだ。

かたわらを通りすぎていく生徒たちの視線が痛い。場所を移して話を聞くべきだった。これじゃグループLINEにキス画像のせて交際宣言したのとあまり変わらない。

でも、問題無いはずだよな?俺は誰とも付き合っちゃいないんだし。そこまで好きじゃない相手と付き合ってるヤツなんて腐るほど世の中にいるだろ?

「シンジ・・・・・・何してんの?」

キョトンとした顔でこちらを見ている女生徒。もう一人の幼馴染み、アオイだった。

別に何も後ろめたい事なんて無いのに、思わずリサを引き離した。その瞬間、リサがゾッとするような暗い目つきでアオイを睨んでいる表情が目に入った。

「わたし・・・・・・シンジくんとお付き合いする事になったんです」

リサがにこやかな表情で言った。心霊映画のパッケージに使えそうな暗い表情が一瞬で消えている。

思わず舌打ちしたくなった。学年随一の陽キャであるアオイにこんな報告をしたら明日には学校中に噂が広まってしまう。

「えー!スゴいじゃん!こんな可愛い娘ゲットするなんてさ!あんたもなかなかヤルわね?あたしが授けた恋愛テクニックようやく役にたったのねぇ~。ウシシ、今日は赤飯じゃ、赤飯を炊くぞ」

普段のアオイの、そんなマシンガントークが展開されると思ってた。誰よりも気心が知れた幼馴染みだから、こんなときは真っ先に祝福してくれる・・・・・・はずだった。

だけどアオイは青ざめた表情でたたずんだまま。

「・・・・・・え?」

そう唇の隙間から消え入りそうな声を漏らしただけだった。

確かだった地盤が、急に底無し沼だらけの湿地に変わったみたいな急激な不安を覚えた。心が安定していて、いつも笑顔でまわりを明るくしていた幼馴染みが急に見知らぬ側面を見せている。

なんとも優柔不断だけど、俺はもう激しく後悔し出していた。こんな反応が帰ってくるなら、もっと熟慮してから告白を受けるか決めれば良かった。

「・・・・・・約束したじゃない」

アオイの唇から囁かれた言葉は、誰かの耳に届く前に枯れ葉のように風化していくようだ。

俺は、アオイの唇を見つめて、彼女の言葉を聞き逃すまいとした。

「結婚してくれるって約束したじゃない」

目の前で、自分の身体の一部みたいに親しい人の精神が変容していく。その恐ろしさが想像できるだろうか?

目の前で、幼馴染みがみるみるうちに幼児に退行していく。親友の心が目の前で壊れていってるのに、俺にはどうする事もできない。

「結婚してくれるって!約束したじゃない!」

遠い遠い、細部の霞《かす》んだ思い出。

小さな手を繋いで、俺は確かにアオイとそんな約束をした。

でも、それは幼稚園のときに交わした幼い約束だったはずだ。それをつい昨日の事のような思いつめ方で叫ぶアオイの表情に恐怖を感じた。

「ハァ?頭おかしいんじゃねえの、このブス」

いきなり、俺の前に立ちはだかって別人のような金切り声を出すリサ。

「てめえなんかと結婚の約束なんてしてるはずないじゃん、あたしの男なんだからさ」

大人しくてミステリアスな文化系少女の面影はそこにはない。普段の姿とギャップがありすぎて俺は肝っ玉を抜かれてしまってる。目を見開いて叫ぶその顔はサイコそのものだ。うつむいて身体を震わせているアオイにつめよって肩をぶつける。

「やめろよ」

息が身体の中にほんの少ししか無くて、か細い声しか出なかった。

なんでこんな事になった?昨日まで彼女もいなかった俺が、なんで急にこんな修羅場に巻き込まれた?

アオイに掴みかかっているリサの肩をつかんで、引き離した。

その瞬間、ものすごい勢いでほとばしる鮮血が俺の顔を直撃した。血は、リサの喉に開いた裂け目から噴き出していた。

鼻の奥まで血の臭いに染まる。目を見開いたまま、リサが崩れ落ちてアスファルトに膝をつく。

アオイの手に、地理の授業に使う大ぶりのカッターナイフが握られていた。

幼稚園児のような、あどけない表情で微笑んでいるアオイ。

「・・・・・・この女と付き合ってるなんて嘘だもんね~アオイはシンジのお嫁さんになるんだもん」

脳裏が沸騰して、視界が白く染まった。

□□

河川敷沿いの鉄橋下。鉄橋を支える分厚いコンクリートの根元に座り込んでいた。湿った場所で、生温かい息を頬に感じている。アオイはさっきから俺の首筋に舌を這わせたり、唇で触れてきたりしてくる。女の血がついた俺の肌に平気で愛撫を繰り返すアオイが不気味で強く振り払う気力も出なかった。

アオイの手を握って、無我夢中で走った。気がつくとここに座り込んでいた。血溜まりの中で女の子座りして呆然としてるリサをその場に放置して。無意識の行動だったけど、俺は明らかに幼馴染みのアオイの身を優先したのだ。心臓が罪悪感で腫れ上がったみたいだ。

ショックで痺れていた心が少しづつ動揺を取り戻して、俺は発作的に涙を流した。訳の分からない状況に、ストレスで腫れ上がった心が破裂したみたいな涙だった。

アオイは、俺の涙を舐めとってくる。さっき、あんな事をしたばかりなのに。血にまだらに染まった唇を顔に這わせて、口づけしようとしてくる。

『キモチワルイ』

初めて明確な嫌悪感が湧いて、熱を帯びた女の身体を突き放した。

こんな状況で何をおっぱじめようとしてんだ、このバカ。

甘く蕩《とろ》けるような表情だったアオイが急に顔をクシャクシャに歪めた。情動の振れ幅が幼女のそれだった。

「だってぇ、はやく繋がらないとシンジ他の女に盗られちゃうじゃん」

ぼろぼろと涙をこぼしてむせび泣く幼馴染みの姿に胸をつかれる。抱きしめて慰めてやりたい激しい衝動が胸に押し寄せてきた。

「なんでだよ、アオイ、お前ふだんそんなヤツと違うじゃん。どうしちゃったんだよ」

俺の涙を見て、アオイは一瞬小ズルそうな表情を見せた。まるで隙をつくみたいにして再びすり寄ってきてYシャツのボタンをひとつひとつ外そうとしてくる。

──完全に狂ってる。

もうそこにいるのは俺の知ってるアオイじゃない。精神の破綻した、別の女だった。

□□

闇の中に、細い光が差し込まれる。

暗がりをさ迷った光の柱は、俺の目の中に真っ直ぐ伸びて止まった。

ヒロは懐中電灯の光を自分の顔に当てて手を上げる。私服姿のヒロだ。もう一人の幼馴染みの顔。精神の安定している親友の笑顔を見て、どれだけ安堵した事か。

陽が完全に落ちるまで、俺たちは河川敷沿いの鉄橋下から動けずにいた。

人目につく場所に出れば血まみれの制服を着た俺はすぐ通報されるだろうし、アオイはもう指名手配されてる可能性が高い。校門前で人の頸動脈《けいどうみゃく》を切ったのだ。目撃者がいない方がおかしい。

「飯と着替え持ってきたぞー」

血の繋がった兄弟以上に信用の出来るヒロにしかこんな事は頼めなかった。自首させた方が良いのかも知れない。アオイの呆けた横顔を見て何度もそう考えた。

でも、その考えを伝えるとヒロは激怒した。

「バカ野郎。身内を警察に突き出す気かよ!」

法律や世間一般の倫理観なんかより自分の身内の方が遥かに大事、ヒロらしいシンプルな発想だった。血にまみれた制服は、河川敷で燃やした。捜査が手がアオイの手に及んできたとき、これが決定的な証拠になってしまうかも知れない。

着替えた服にはよく知ってるヒロの家の匂いが染み付いてる。

「とりあえず、ウチ来いよ」

ヒロの背中を見つめながら、夜の街に這い出した。心なしかすれ違う人の大部分が俺たちに視線を貼り付けていく気がする。吐き捨てられたガムが身体中に貼り付いて、街中に糸を引いているような違和感。

気のせいだ、誰も俺たちの事など見ていない。そう自分に言い聞かせてちらっと視線を落とすと、ぎらぎらと脂ぎって光る誰かの白目とぶつかり、心臓がずんっと小さく跳ねた。

凝視されている。いくつもの見知らぬ眼球に。闇夜にぎらつく白目、白目、白目。

いつの間にか足はどんどん速まり、俺はヒロの背中を追い抜いている。

ヒロに腕を掴まれて、ようやく我に帰る。

「そんな競歩選手みたいにせかせかしてたら逆に目立つって」

周囲を見回すヒロの横顔。

「大丈夫。いうてもまだ俺たち未成年なんだからさ。手配写真なんてそうそう出回らないっしょ」

あたりをもう一度見回す。

誰も俺の事なんて注目してはいなかった。

□□

腕にすがりついて離れようとしないアオイにシャワーを浴びせるのは難行苦行だった。

ヒロの両親が海外旅行とかで家が無人でなかったら、とても大人に見せられないような醜態だ。結局、いっしょくたになって湯に打たれた。どちらの身体から流れ出したか分からない血の色がバスルームの床に広がる。

1枚1枚濡れてへばりついた衣服を脱がし合った。ほとんど素っ裸で抱き合ってるような状態になって、ようやく今のシチュエーションの危なさに気づく。

上から、俺たち二人にシャワーをかけているヒロは去年までアオイと付き合っていたのだ。

自分の元カノと裸で抱き合ってる親友をヒロはどんな気持ちで見てるんだ。

恐る恐る水滴のベール越しにヒロの表情をうかがう。ニコニコと朗らかに笑っている。一見すると、だけど付き合いの長い俺には分かる。目が怒気を孕んでいる。心はまるきり笑ってない。

まだ、アオイの事を忘れられてないのだ。ぜんぜん。未練がごっそり心の内側にへばりついてるのだ。

俺はしがみ付いてくるアオイを全力で引き剥がしにかかった。だが、血のぬめりなのかアオイの肌はやけにぬるぬると滑る。ヒロはつくり笑いのままいつまでもシャワーを浴びせてくる。

地獄みたいな時間が、いつまでも流れずに空間に停滞してた。

助けてください!心の中で叫びたくなるような時間だった。

□□

諸々の雑事を終えて、ようやくうたた寝をしたのは深夜。自分の家と変わらないくらい勝手知ったるヒロの家だから、ほんのわずかでも寝れたのだろう。

心が、コンクリートを流し込まれた小川みたいにかちかちに凝り固まっていて、一瞬も気が休まる瞬間が無かった。

夢の中では、リサが白濁した目で何かを叫んでいた。俺は物陰に身を潜め、リサから必死に身を隠しているが、リサの鮮血を浴びた身体が暗がりの中、蛍光塗料みたいに青白く光ってる。蛍光塗料のようなリサの血は、俺の身体から転々と道に跡を作り、リサの首筋にぱっくり開いた傷口までつながっているのだ。

悪夢は、不意に途切れた。息苦しさと共に目覚め、荒い息をはく。心臓が痛い。こんな苦しい寝起きは初めてだった。

寝がえりをうちたかった。が、身体に何かがのし掛かっていて身動きがとれない。

下半身に違和感があった。思わず身をよじると、俺を押さえつける力はさらに強くなった。悪夢が、現実に浸食してきた。その観念にとり憑かれて俺は恐慌状態に陥った。

リサが、俺を殺しに悪夢の中から出てきたのだ。

だが、幻想の膜の中から現れたのはヒロの顔だった。せっぱ詰まったような真剣な表情で俺にのし掛かっているヒロ。胃がぎゅっと引き絞られる感覚を覚えた。親友の元カノであるアオイを寝取った俺を、やっぱり腹に据えかねていたのだ。

真剣な表情をしているヒロは、間近で見るとゾクゾクしてくるくらい顔立ちが整っていた。

また、下半身に違和感を感じる。無意識に身をよじりながら俺は必死で弁解を始めた。

「ヒロ、俺な・・・・・・」

「俺の気持ち知ってて、あんな挑発したのかよ」

俺を押さえつけるヒロの力がさらに強くなって身じろぎするのも難しくなった。

「違うって!アオイがどうかしてるだけなんだって」

下半身の違和感が明確な痛みに変わって、思わず悲鳴をあげそうになった。

「お前の事忘れようとして、必死でくだらない女と遊んできたのにさ・・・・・・俺の気持ち逆撫でして、弄《もてあそ》んで、楽しいか?なぁ?」

見たこともない形に張りつめたヒロの一部が俺の中に押し入ろうとしている。まざまざとその現実を認識した。吐き気がして、現実から目を背けたい。怒りよりも激しい恐怖に駆られて俺は暴れた。

親友まで、親友までおかしくなってしまった。

「なんで、なんでこんな事してんだろ、俺。こんな事したらお前との関係、めちゃめちゃになっちゃうって分かってたのにさ」

泣き顔で、困ったような泣き顔で、ヒロは俺の中に入ろうとしてくる。

「今日のお前見てたら、なんだかたまらなくなってきちまったんだよーーーーーー!」

がむしゃらに探っていた手が、ようやくしっかりとした固いものを掴んだ。俺は無我夢中で、狂った親友の顔に固いものを叩きつけた。

立ち上がるとき、俺の下半身とヒロの股間との間で何かが糸を引く。全身に虫酸が走って輪郭のすべてが鳥肌に縁取られる。

今まで自分の一部みたいに感じていた親友が、別の生き物に変質して床に転がっているように見えた。吐き気がこみ上げてきて、その場で膝を落としそうになる。

ここにいたら、いけない。破裂しそうに膨らんだ危機感にせき立てられて、肩や腰を壁にぶつけながら部屋から転げ出た。

廊下に、アオイが横たわっていた。

Yシャツ1枚だけ、はだけて着た姿で、下半身は剥き出しだった。首を横にねじ曲げた不自然な姿勢で、ぐったりと脱力してる。

息、していなかった。横たわるアオイを抱き上げて胸に耳を当ててみても、そこには何の脈動も存在しなかった。

死んでる・・・・・・。

自分を柔らかく包んでいた温かな世界が、音も無く崩れ去った。殻が崩れ落ちた外側にあったのは、何のよりどころも存在しない孤独な世界。

アオイの屍を跨ぎ越して、変質した別世界にさ迷い出た。玄関から表の通りによろめき出たとき、家の中から獣の咆哮みたいな怒声が聴こえてきた。

白っぽく煙るような深夜は、慣れ親しんだ故郷の風景を異世界に似た見知らぬもの見せる。ヒロが駆け出してきて、俺に追いつく。生々しいリアリティーをもってその場面が頭の中に繰り返し再生される。

手足がもぎ取れて、暗闇の中に五体がちぎれ飛ぶような勢いで走った。それだけ死に物狂いで腕を振ってるのに、身体はいっこうに前進してる感覚が無い。

時間速が異様にゆっくりと流れて、俺をいつまでもこの場に押し留めようとしている感覚だった。

□□

夜の底で、汗を流してる。

地元の街から、電車で何駅か先の馴染みの無い街。真夜中の駅前ロータリーには人気が無い。

この頬を伝う汗が、あの悪夢の時間から続くものだとは信じられない。時間がどこかで断絶してるような気がする。自分の着ている服からは、親友の匂いがする。シンナーが揮発してくみたいに目の裏に涙がこみ上げる。親友を二人亡くした。その事実に心が破裂しそうになってて、涙が勝手に流れてくる。ドラマみたいに麻痺なんてしてくれない心。ただただ現実の痛みをそのまま胸が受けている。

身を置いているのもツラい。自分という形がここにある事すら苦しくて耐えがたい。自分の形をした苦痛が世界に生傷みたいに出現したみたいだ。

どこか身を隠したい。球体みたいに身体を折り曲げて、ただただこの痛みをやり過ごしたい。でも、どこにも行き場所なんて無い。家に戻れば警察が待ち構えてる。そんな確信がある。事態はどんどん自分の悪い方向に進んでて、もう後戻りする事は無い。そんな確信が胸底に居座ってる。

「・・・・・・ぼく、どうした?」

内臓がびっくりしてる。恐る恐る振り返るとき、筋肉が硬直してるのが分かった。

ラフな服装をした清潔感のある女の人が、少し離れたとこからこちらを見ていた。近所にちょっと買い物に出てきただけ、という雰囲気だけど普段から気を張って身綺麗にしてる女性だというのが伝わってくる。薄化粧だけど美人なのが一目で分かった。

雰囲気の良い女の人だった。肌色やすらっと長い脚が健康的で、まっとうな世界に生きる人ってのがにじみ出てる。

普段なら、なんの警戒感も抱かせないような女性。でも、今の俺にはいくつもの後ろぐらい点があった。

自分が真っ暗闇にいるときには、どんなものでも陰を帯びて見える。

「だいじょうぶかい?」

なんの違和感も無く、彼女は俺のそばに来て頬に触れた。

「・・・・・・泣いてるの?」

微笑を浮かべて、髪を優しくすいてくる女性。俺は心を石のように固くしている。

「ちょっと待ってて」

女性はそう言い残して、すっとどこかに消えた。このまま、この場所にいるべきじゃない。家出として、警察に連絡されたかも知れない。

座り込んだ場所から腰を上げようとしかけたとき。

「キミ、ちょっと待ちなさい」

心臓が止まりかけた。今度こそ終わった。警察に連れていかれる。もしかしたら、俺が殺人の罪に問われるかも知れない。今、始めてその可能性が脳裏にひらめいた。

「子供がひとりでこんな時間に何してる」

だけど、視界に入ってきたのはスーツ姿でメガネをかけた中年男。

「まだ、学生だな?来なさい。親御さんに連絡してやるから」

一見、サラリーマン風の中年男。だが、こんな真夜中に歩いているには少し不自然に思えた。もう、終電はとっくに終わったはずなのに。

腕を強引に捕まれる。そのまま、力づくでどこかに連れて行こうとする。

「さぁ、お仕置きが必要だ。親御さんに連絡する前にお仕置きをしてやらなきゃなぁ」

男が、真夜中でも煌々と明かりを漏らす駅前の公衆トイレに向かっている事に気づいて皮膚が粟立った。

なんだ?これ?

さっき、自分の中に押し入ろうとしてきたヒロの感触がフラッシュバックしてくる。おぞましさのあまりに内臓が凍るような心地。

男の力は異様に強かった。足を踏ん張ってみても、ずるずるとそのまま引きずられる。

「さぁ、お仕置きタイムだぞぉ。朝までずっとお仕置きしちゃうぞぉ。ぐふっ」

血が、もしかしたらもっと濃い別の何かがぱっと霧雨状に顔にかかる。

見上げると、男の顔が3分の1くらい内側に埋没していた。

ゆっくりと倒れていく男の後ろに、さっきの女の人が立っていた。

穏やかな微笑を浮かべた化粧っけの無い美しい女性は、倒れた男の顔をサンダル履きの足で踏みつけた。

「あたしの男に手を出そうとしてんじゃねえよ。このウジ虫ホモ野郎。睾丸切り取ってア○ルにぶちこんでやろうか?クソが」

その言葉を言ってる間中、女性は上品な微笑を浮かべ続けていた。

ごとっ。女性が手に持っていたブロック煉瓦には、テレビでは放映できない何かが付着してた。

□□

あらゆる暴力的な世界と永遠に縁を切ってます、そんな柔らかい色あいをしたコンビニの飲料水がテーブルに乗っている。男を煉瓦ブロックで撲殺した女の人が買ってきたものだ。

ペットボトルの表面に浮いた水滴を、ただじっと眺めている。手を引かれ、何の抵抗もできずにマンションの一室に連れ込まれた。

一汗かいたから、と女の人はバスルームに消えた。着替えの服とバスタオルをとったタンスの上には、彼女が同年代くらいの男と笑顔で映ってる写真が乗っていた。

様々な色の血を見た。色んな人の身体から流れ出した。反抗的な気分がどこからも湧き上がってこない。心から活力が干上がってる。

シャワーの音がリビングまで聴こえてくる。彼女は、俺が逃げ出すとは露とも思っていないようだ。彼女から感じるのは、自分に対して深く好意を抱いてくれている人の波動だ。俺を敵視したり警戒したりする事などまるで無い。恋人同士のような。

スマホが無い。

こちらが求めてもない情報を絶えず送りつけてくるネットニュースの通知も無い。

送りつけられる情報の足りなさに心細くなって、思わずテレビの電源をいれた。早朝時間のニュース番組のロゴ。入社したてのような顔馴染みの無い女性アナウンサーが映る。眠気を化粧の奥に圧し殺した公的な顔。

「三崎真司容疑者の新情報です」

口があいた。

俺の顔がテレビに大写しになっている。

「幼馴染みで親友の吉田浩司氏の自宅で午前2時頃まで過ごした三崎真司容疑者は現在、その場から移動。3駅離れたK市に住むOL、八神 菜々枝氏の自宅にかくまわれている模様です。三崎真司容疑者と吉田浩司氏の間に性交渉があったかどうかは現在、現場に残された痕跡などから調査中という事です」

身体中を流れる血や、内臓のぜんぶが、瞬間的に漂白されたような気がした。

テレビの中にいるこいつは、一体なにを言っている。

気配がして振り返ると、テレビのなかのワイプで顔写真を出されていた八神菜々枝その人が全裸で立っていた。

「男に・・・・・・ヤられたりしてないよね?」

例の穏やかな微笑を浮かべた全裸の八神菜々枝がささやくような声で言う。

心臓に切れ目を入れられるような絶叫がテレビ画面の中から響いた。

公的な顔がぐしゃぐしゃに破砕してテレビ画面のなかで揺れていた。

表情が崩壊した女性アナウンサーが絶叫がしながら原稿を引き裂き暴れている。

「あたしの男が寝取られそうになってるのに!なんでこんなクソ原稿読んでなきゃいけないのよ!なんであたしが!」

背後から、全裸の女に抱きすくめられる。

「男に、ヤられたりしてないよね?まだ、純潔だよね?」

テレビ画面のなかで荒れ狂ってる女性アナウンサーが、男性スタッフに取り押さえられながら画面に向かって叫んでいる。

「シンジ!ダメよ!そんな女から離れて!今すぐ家から出るのよ!」

これは・・・・・・夢?

女性アナウンサーは俺の名前を叫びながら画面の外に引きずり出されて行く。

オカンにもあんなに名前を連呼された事、無いのに。

テレビ画面が一瞬、無機質な単色で、左下に記号と数字が羅列されただけの無造作な画面に切り替わる。

────しばらくお待ちください


また一瞬で切り替わった画面。

お花畑の背景にそんな文字が浮かび上がった。口を開けてぽかんとしていた。

Tシャツの薄い布越しに、劇薬を染み込ませたすべすべのサテンシルクみたいな女の肌を感じた。背中全体が赤剥けになったように神経が鋭敏になる。世界が女の肌の感触だけに塗り替えられた。

女の唇が耳に触れる。甘く噛む。耳の中に冷たく湿った舌が入ってきた。脊椎が火の柱になったみたいに下腹部が熱く燃えた。

支配されてる。女の性の力にからめとられて、身動きもとれない。大人の女の夜の経験にただただ圧倒されて。

女の人が耳もとでくすくす笑ってささやいた。

「どう考えても童貞じゃん、よっしゃ」

若い女の生活音だけを静かに堆積させていたマンションの一室に、突然、場違いなサイズの轟音が響き渡った。工事現場とか解体作業の現場にしか落ちてないサイズの音だった。

ガラスが破砕される音。壁が崩落するような音。不意に生で聴くそれらの音は、こっちの神経を瞬時に引き裂くような破壊力を秘めてる。

戦場の行軍みたいに荒々しい足音が部屋を揺らす。女の人は猫みたいにすばしっこく動いて凶器を手にしようとしたが遅かった。

道化のマスクをした様々な体格の人間たちがあっという間に女性を取り押さえる。

俺も、結束バンドで後ろ手に両手の親指を繋がれる。そこからは、カリスマロックバンドのヴォーカルみたいに抱えあげられ、上に伸ばした手に手にリレーされて行った。

八神菜々枝の絶叫が聴こえる。ヒステリックな罵詈雑言。

外の風景が一変していた。

今まで、固唾を飲んで見守っていたのか。ものすごい数の群衆が道路を埋め尽くしていて、今はなんの遠慮も無く歓声と雄叫びをあげている。

大きな祭りを連想させる狂騒。熱狂。

俺は神輿だった。狂った群衆の坩堝《るつぼ》のなかで抱えあげられ、捧げ持たれて運ばれていく。

自分の背中を支える人々の熱い掌《てのひら》。欲情してる人間の熱さだった。

俺は、広場のような開けた場所に運ばれている。そこで、この群衆たちの欲望のままに好き勝手され、ボロきれのようになるまでここにいる全員の相手をさせられるのか。

下を見ると、ぎらぎらと輝く無数の白目が俺を見つめていた。俺だけを凝視していた。性欲に狂った色情狂の目の色だった。

どこかから血の臭いが漂ってきたと思ったら、死闘が始まった。

一人の身体を全員でシェアするという意識は群衆のどの頭からも消え失せているらしい。異様な独占欲と攻撃性で、群衆は俺に触れようとする他者を容赦なく攻撃し始める。

街角が、血で染まる。性愛をめぐる殺し合いの血で。男も女も関係無く俺をめぐって殺し合った。

□□

血の沼の底から、最後に立ち上がってきたのは華奢な体つきをした人間だった。

男とも女ともとれる中性的な人物。全身が返り血に染まって前衛芸術家の仕事終わりみたいになっていても、顔立ちの美しさだけは水際だってた。

路上に無数の人体が転がる駅前広場を、ゆっくりと跨ぎ越しながら歩いてくる。

俺は広場の中心にあるモニュメントに両腕を上げるような格好で縛り付けられていて、逃げる事はできない。

男とも女ともとれる美しい人物は俺のもとまで来ると、足の甲に口づけをしてきた。そのまま足の親指のところまで舌を這わせる。

ぱんぱんに腫れ上がるまで吸血した数メートル大の蛭《ヒル》に吸い付かれたような心地がした。

「やっと、二人きりになれたね」

声まで、中性的だった。どことなくハスキーで震えを帯びた声質。

俺は、その宝塚の男役みたいな人物に、底知れない嫌悪感を覚えた。生理的に、虫酸が走る。

「あそこが擦りきれて涅槃《ねはん》のむこう側に消えちゃうくらいエッチしようね」

遠く微かだった空のむこう側の音がしだいに高まっていく。不穏な爆音に一縷の希望を抱いたのはそのときが初めてだったかも知れない。

皮膚の内側に無数の生きた蝉をいれた巨人のように、空が鳴っていた。

空を見上げる男女の顔は、奇妙な皺を刻んで歪んでいる。死体の皮膚を張り合わせて作った人皮のお面みたいに変な皺が出る顔だった。

血の沼に光があたる。凄惨な光景が浮かび上がる。地上に強風が吹き乱れ、空気が激しく流れはじめる。サーチライトが幾重にも重なって俺がいるモニュメントのあたりを照らす。網膜がじゅーじゅー焼け焦げそうな光量だった。

「ぼくと一緒にここで死のうか」

奇妙に潤んだ瞳で、宝塚の男役みたいな人物が言った。

劇の一幕みたいに大袈裟な動作でそいつは何かを腰の後ろから抜き出す。園芸に使うような大型の鋏だった。こんなもので刺されたら、死ぬに死ねなくて何十時間も苦しみそうだ。

後ろ足に体重を乗せて、思いっきり反動をつける男女。心臓のあたりに狙いをつけて、その巨大ハサミを突き立てる気だと分かると、全身から脂汗がわき出てきた。

「ごめんね、きみがほかの人間に抱かれるところを見るくらいなら、こうするしかないんだ」

ふざけるな。そんなくだらない理由で殺されてたまるか。

プロレスというより総合格闘技に近い容赦の無さで、間髪入れずに一突きが来た。俺も死に物狂いだった。下半身で反動をつけて、なんとか胴体をよじらせる。手首の皮が切れて激痛が走ったが、そんな痛み頭の片隅に消し飛ぶような衝撃がわき腹に走った。

一瞬、ろっ骨に引っかかった切っ先が、俺が激しく身をよじった事でギリギリいなされて逸《そ》れていった。精肉工場で牛の身体が解体されるときのような、洒落にならない深さのキズが胴に刻まれてる。こちらの肉体を温存しようとか、生命を先伸ばしにしようだとかまるで発想してない相手がつけたキズだ。

超満員のサッカー場のど真ん中からでも響き渡りそうな絶叫をあげたが、こんな表情をするヤツは見たことがなかった。

笑うでも怒るでも悲しむでもなく、素の顔をしている。目の前で激痛に絶叫をあげてる人間がいるのに。

決定的に、何かがズレている人間。一見普通に見えても、泥をこねて作ったゴーレムみたいな心を中にいれてる人間。

そいつは大ぶりの一撃をかわされると、素の表情のまま、今度は氷をアイスピックでけずるみたいな動作で何度も小刻みに鋏を突き出してきた。

まずは弱らせる。

子供が昆虫をなぶり殺すときのアイデアを躊躇無く人間に実行してるのだ。

天井から吊り下げられた魚の状態で、俺は激痛に身悶え身をよじり続ける事しか出来ない。

頭のなかで何度もがっがっがっと骨と鉄がぶつかる音が響き渡った。

助けは来ない。間に合わない。

アニメやマンガみたいに上手い事にはならない。

現実には、人殺しは官憲なんかよりはるかに手早く目的を果たす。

俺は死ぬ。助けを目の前にして殺される。

そのとき、低空飛行している軍用ヘリコプターがいくつかの金属缶のようなものを投下した。

目の前が白く薄れた視界のなか、ぼんやりと連想した。

・・・・・・E缶?

ぼっ!

地上で派手な音をたてて転がった四角い金属の固まりが、そんな音をたてて白い霧を噴出させた。

目の前で俺の身体を削っていた男女が、突然、地面にぶっ倒れて海老反りになる。

後頭部を永久脱毛するような勢いで、ブリッチしたまま激しく頭を地面に擦り付けた。

なんだ、これ。

次の瞬間、俺の脳裏も真っ黒く染まって身体のコントロールをすべて失った。

□□

明け方の薄明かりの下で見る白骨死体のように、意識に浮かび上がってきたのは宇宙服のような荘厳なマスクをつけた男の顔。

視界に稲光りのような閃輝がいくつも走って、意識が黒く遠のいては薄明かりの視界に戻る、を何度か繰り返した。

自分の身体の中の暗渠《あんきょ》に甘い酸素が流れ込んできている。顔の前に湖面のような神秘的なフェイスガードをつけた男が、俺の口に酸素マスクを当てているのだ。

眼球の飛び出した死体が下に転がっていた。首のあたりを爪でかきむしる姿勢のまま絶命している。俺を殺そうとしていた男女の死体なのだとしばらく分からなかった。性別は最後まで判別できなかった。

「なにしている、安藤!おい!安藤!」

男の怒鳴り声が錯綜し、何かが壊れる音がする。

何人かの宇宙服のような姿の男たちのうち、一人が急に暴れだしてまわりに取り押さえられたのだ。

「マスクに微かだが隙間が空いてたんだ」

「くそ!不良品か」

シンジー、シンジー、と取り押さえられた男が俺の名前を連呼している。

意識がまとまりを失ったと思った瞬間、ひとかたまりの時間が消えた。

俺はもう違う場所、違う時にいる。

ベッドに横たわっている。

隔離病棟と牢獄をかねたような純白の部屋だった。壁の1面がガラス張りになっていて、例の宇宙じみた服を着た人々が研究施設のような部屋で忙しくたち働いていた。バイオハザードを連想させるような光景。

なにかの疫病が流行した、その結果があの惨事だったのか?身の置き所も無いような激痛を身体が思い出したのは直後だった。

身体の皮膚があちこちで断裂してる。中身がそこかしこから覗いている。

傷口が潤いを失ってばりばりに固まってた。少し身をよじると薄く固まった表面が割れて傷口が開く。泣くほど痛いのに身をよじる事すら出来ない。

つらすぎるので何十分も薄くうめき声をあげ続けていた。治療されるわけでも、さらに危害を加えられるわけでもない。今、俺はどういう状態なのだろう。

目を閉じれば、脳みそにきざまれたタトゥーみたいに衝撃的な光景が何度でもフラッシュバックしてくる。もう、俺は数日前の俺とは別の人間なのだ。脳のかたちすら歪んで違ってしまっているに違いない。俺の心と身体には一生消えないキズがいくつも付けられた。もう、退屈だけど温かな日常には戻れない。家族同然だった幼馴染みふたりを同時に失ってしまった。

こみ上げてくる涙も、血の色に染まってる気がした。涙の跡がちくりちくりと傷む。

この部屋の隣には、厳重な殺菌室があるみたいだった。今、その部屋を通り抜けて誰かが俺のいる隔離室に入ってくる。

宇宙服のような分厚い防護服を着たその人は、医療器具らしいものを乗せたキャスターつきのワゴンカートを押している。

全員を弱い相撲とりみたいなシルエットに変えてしまう防護服だけど、かたわらまでその人が来て、ようやく顔が見えた。

怖いぐらい整った顔立ちをした黒髪の女性だった。

彼女は、無表情のまま淡々と俺の傷口を手当てしはじめた。

彼女は、俺に対する感情が何もこめられていない無温の目をしていた。俺は、彼女のその温度の無い瞳にひどく安堵した。

自分の身体を、防護服を着た女性がいじっている。しかも端整な顔立ちをした若い女性が。シュールな瞬間だった。

彼女の手が、俺の身体に直接触れていない事が少し残念に思える。固くよそよそしいゴムが彼女とのナマの接触を阻害する。やっぱり、俺はなにかの病原菌に感染してるのか?

「日本では今、なにかの疫病《えきびょう》が発生してるんですか?」

はっとした表情で彼女は俺を見た。俺が言葉をしゃべれると初めて認識したみたいな顔だった。

「・・・・・・疫病《えきびょう》?」

無表情な彼女から、好意とは言わないまでも親しみのある空気でも引き出せたらと思って絞り出した質問だったけど、まったく逆の効果を生み出した。

彼女はニュートラルな表情から、はっきりとどす黒い憎悪を宿した表情に変わった。

「・・・・・・自分の立場、理解してないわけ?」

食べかけのかき氷みたいにザクザクに傷つけられた心に、彼女の黒い感情は痛く染みすぎた。

「・・・・・・はい」

性的不能者を嘲笑う娼婦みたいな黒い微笑。

明らかに彼女は治療を途中で放棄して俺に背を向けた。ワゴンカートを押しての帰り際、彼女は立ち止まって振り返った。

「・・・・・・お願いだから」

「・・・・・・」

「もう2度とここから出ないでね」

彼女の瞳はふたたび無温になっている。

その表情が彼女なりの、憎悪の最大表現なのだとそのときようやく気づいた。

□□

傷が癒えるにつれて、心は硬くこわばっていく。

ここでの俺の扱いは、良く言えば実験動物。悪く言えば放射性物質みたいな感じだった。

ある意味、こんなに自分自身の影響力を意識した事はなかった。

ある女性スタッフが俺の目を見つめているうちに自ら防毒マスクのフェイスシールドを叩き割り、俺の上にまたがった日から誰も目を合わせてくれなくなった。

良い中年のオッサンが、俺と目を合わせないように必死で顔をそむけながらそそくさと部屋を去っていく。

小学校時代にあるようなイジメを、大人全員が大々的に行ってるみたいなのだ。

最初は、その滑稽さを笑いに転化できていたけど、だんだんボディーブローみたいに心にダメージが蓄積してくる。

単純でバカげたイジメでも繰り返されれば人は参ってしまう。理由も何も知らせてもらえないのが心にこたえた。

たまに、彼女が身の回りの世話に来る。顔立ちが異様に端整な異性に毛嫌いされる事ほどツラい事は無いんじゃないかとさえ思えた。

彼女がどれだけこちらを憎んでいたって飛び抜けて綺麗な女を嫌いになるなんてなかなか出来るもんじゃなかった。彼女がほんの気まぐれで意地悪な言動をとるたびに、俺はちゃんと傷ついていく。

大地に落ちた種みたいに、腐りながらこの場所に根づいていくしかない。そう観念しかかっていた。

心が色を失いかけたその日に、事は起こった。

遠いけど、腹の底にまでしっかり響いてくる爆発音。建物のどこかからその音は聴こえてきた。跳ね上がった鼓動と寄り添うような数分のあと、隔離室の外でけたたましい警報が鳴り始めた。

もう一度、爆発音。今後は腹のなかでドラムを叩かれたみたいに身体の芯で衝撃を感じた。怒号、悲鳴。そして銃声のような音。ぱららららら、と軽く連続した音だ。

隣の滅菌室に誰かが入ってくる。殺菌処理の行程を完全に省いて、彼女はこの部屋に入ってきた。

防護服のフェイスシールド越しに見える黒髪の美貌。フェイスシールドには大きなヒビが入り、なかの彼女の頬のあたりには血が付着していた。

普段の、業務上の動きを機械的にこなす彼女の動作じゃなかった。自分の意思で能動的に動いて、彼女は俺の上にのしかかった。

恋人とのじゃれあいにも似たしぐさ。俺の腹にまたがった彼女は、まごころをこめて俺の首に両手をかけた。

腕の筋肉が長い拘禁生活で萎《な》えてる。細身の女でさえ振りほどく力が無い。あるいは、抵抗する筋力を奪うような薬を盛られ続けていたのかも知れない。

目の前にフェイスシールド越しの女の顔がある。憎悪1色に塗り固められた顔。それでもなお彼女の顔は鮮烈に美しかった。

彼女の指が首筋に食い込んで意識が遠のきかけたとき、奇跡のような変化が起こった。

フェイスシールド越しに見える彼女の表情が、みるみるうちに変化していく。

極限の憎悪が、ちょっとした嫌悪へ。

嫌悪が、道端ですれ違う人のような無色の表情へ。

無色の表情が、ほんのりとした好意の表情へ。

彼女は、自分でも戸惑っていた。はっと身を起こすと、フェイスシールドをついた大きなヒビ割れに手を当てる。

ほんの一瞬だけ悔しそうな表情が浮かんだけどそれもすぐに消えた。

彼女は最愛の人と再会した純真な少女の顔で俺を見た。

それは、喜びよりも恐怖を呼び起こす不気味な変化だった。さっきまで、自分に憎悪をぶつけ殺そうとしていた女が突然、運命の恋人のような態度に変化する。

彼女は防護服の頭部の部分を脱ぎ捨てた。黒髪がほどけ彼女の匂いがひろがった。

女の甘い粘膜が脳にちょくせつ触れたような感覚だった。憧れをつのらせていた美しい女の舌が今、俺の中にある。味覚で彼女の唾液を味わっている。尾てい骨から背骨のあたりまで火がついたようだった。

頭がおかしくなる。さっきまで本気で殺そうとしていた女にいま本気で愛されている。気が狂ってもいい。本気でそう思えるぐらい彼女の唾液も舌も甘かった。

もどかしげに防護服から抜け出ようとする彼女は端整な顔立ちをした脱皮中の蛇みたいだ。身体にまとわりつく皮膜にヒステリーを起こしながら悲しげにあえぐ彼女をぼんやり見ている。音高く響き渡る警報《サイレン》。

俺と彼女がこれから本格的に交わろうとするのを警告してるみたいに聴こえてきた。

景色についたシミのように彼女の背後に黒いものが浮かび上がっていた。汗ばんだ彼女の肌を感じながら、呆然とその黒いシミを見てる。快感に向き合うのに必死な彼女はまるで異変に気づいてない。

刃がバターを貫くみたいに音も無く彼女の白い腹から突き出ててきた。彼女は白いのどを見せて身を震わせた。新しい快楽に身を震わせているようにも見えた。

刃を引き抜き、土嚢《どのう》みたいに彼女を投げ捨てたのは痛々しいぐらい幼い顔をした少女だった。

女が女に向ける独特の冷たい目で死の痙攣に襲われる彼女を一瞥《いちべつ》し、中学生くらいにしか見えない少女は言った。

「きたない精液ふいて。すぐ行きましょう。ここはもう危ないの」

ぼんやりしたまま、うまく反応できない俺の頬を、少女は間髪いれずひっぱたいた。

「3日後には、この研究所の連中は開頭手術を決行してあなたの脳味噌を取り出す予定だったんですよ。米国に、安全な状態で引き渡すためにね」

少女は、なぜか防護服はおろか防毒マスクすらつけずに剥き出しの顔のまましゃべっていた。それでも、少女が正気を失う様子は無かった。

「ぐずぐずしない。あんたばらばらに解体されちゃうよ。研究所の外には群衆が押し寄せてるんだ。あんたの身体を求めた大群がね」

拘束ベットから足をおろし、一歩二歩踏み出しただけで太ももの筋肉がつりそうになった。少女のきゅっと締まった尻に顔から倒れ込みそうになる。

「女に襲われたぐらいでもうヘロヘロなの?自分で脱出する準備まるでしてなかったわけ?」

真っ黒でも真っ白でもない、少女のほどよい悪感情が心地よかった。ベットの横に倒れている女に後ろ髪を引かれる。

「世界中の女があんた一人を求めて気が狂ってるのに、そんな女一人にこだわってんじゃないよ。行くよ」

肺いっぱいに吸い込めば寿命が数年単位で吹っ飛びそうなニガい空気が通路に充満してる。同じ血を共有して生きてたみたいにひとつの血だまりのなかに3人固まって倒れていた。研究員の服装だ。

防護服のフェイスシールドが真ん中で大きく割れた男が、好きだー!と叫びながら物陰から飛び出してきた。

異常に手慣れたコンビニのレジ打ちみたいに無感動な素早さで少女は男の急所を3回刺した。明らかに尋常な生まれ育ちをした少女じゃない。中国の体操少女とかロシアのフィギュアスケーターとか、ああいう特殊な環境で育った人間にだけ見られる気持ち悪いぐらい洗練された動き。

完全に脱出経路が頭に入っているのか、長年この建物に住み着いてたネズミみたいに少女はよどみなく走った。

屋上に飛び出すと、外界が360度にぱあっと開けた。心臓が空にとけていきそうなくらい身体中が感動した。数か月ぶりに大空と顔をぶつけた。

研究所の外には、別世界が広がっている。

それが日本の風景とはもはや思えなかった。

地平線までの課程にいくつもの煙があがってる。熱病に犯された燃える東京。誰も火の手を止める人間はいないのだろうか。火事が野放しにされている。

火事だけじゃない。ありとあらゆるもの放置されて野放しになった結果の光景がそこにある。

破壊されて道の真ん中にひっくり返っている乗用車。道の端に堆積して得体の知れない色合いに変色した各種のゴミ。医療用の廃棄物もそのまま捨ててあって防護服や防毒マスクの残骸がいくつもゴミのなかに混じってる。

東京郊外の街並みそのものをまるごと廃墟にしているような光景のなか、信じられない数の群衆がこの研究所を取り囲んでいた。

最初、敷地を囲んでいたであろう高い金網フェンスが一部だけ残して軒並み押し倒されている。もう群衆がこの建物内に殺到してくるのは時間の問題だった。

屋上から、それらの景色を見下ろしてる俺に群衆が気づいた。

ぎらぎらと脂ぎって輝く白目、白目、白目。

熱狂して、残らず全員が怒号をあげている。

ヨーロッパの超満員のサッカー場で優勝を決めるゴールが決まったとき。こんな爆発的な歓声が存在するのはそこだけかも知れない。

内臓も股間も縮み上がってる。生き残れる気がまるでしない。大群衆に狙われてる。こんな状況で平然としてられるのは織田信長とかチンギスハーンくらいじゃねえのか。

その場に座りこんで1歩も動きたくなかった。

「ほらー、諦めたらそこで試合終了だゾッ」

腰に手を当て、しれっと安西先生のセリフをパクった少女は屋上の一角に向かった。

そこには黒いフレームを組み立てたような、公園のベンチくらいのサイズの奇妙なオブジェがあった。オブジェ、それ以外の用途があるとは思えないくらいそれは簡素な構造をした物体で。本当に数本のフレームが組み合わさってるだけなのだった。

「ほら、来て!それとも本当にあいつらと乱交パーティーする?」

どことなく忍者じみた黒装束の背中から、少女はブレードを剥き出した。漆黒の刀剣に見えたそれは黒いフレームのなかに組み入れ、しっかり装着された。

そこに出来上がったのは、タケコプターの先祖のような不格好な物体。ドローンを4回りくらい大きくしたような、ラジコンヘリコプター様の機械だった。

悪い予感がする。

「なにしてんの!私の腰に手を回して。思いっきりしがみつきなって」

タケコプターの先祖みたいなフレームを持ち上げて、少女は言う。

群衆の歓声が、階段の下から盛り上がってくる。もう建物内に群衆が殺到したのか。逃げ場はどこにもない。

半ばヤケクソで少女の腰に抱きついた。上で、ブレードが高速回転を始めている。一体、この細いフレームのどこにエネルギー源があるのか。ふと気になってブレードを見上げる。高速回転しているブレードの内側が光り輝いているのが見えた。

ブレードそのものがエネルギー源だという事なのか。回転はさらに勢いを増して、あたりに突風が巻き起こる。

人を何人も殺してる危ない少女の腰に密着している事とか、得体の知れない物体に命を預けて飛び上がろうとしている事とか、諸々ふくめて気が遠くなった。

鉄製のドアに体当たりするようにして、群衆の最初の数人が屋上に飛び出してきた。

まだ足は一ミリも浮いてない。このタケコプターの先祖は本当に飛べる装置なのか。

「あっ」

不意に少女が真上で声をあげた。

「二人ぶんの体重、計算に入れるの忘れてた」

思わず、腰に押しつけていた顔を離して少女を見上げる。

少女は舌を出して悪戯っこの表情をしていた。オールブラックスの前でラグビーボールを片手にさんざん挑発したみたいに、俺たちに向かって数十人が全力疾走してくる。

「うっそーん」

その瞬間、一気に身体が浮上した。

最初の一人が同時に俺の足をつかむ。浮力が負けて、一瞬地面に引きずり下ろされそうになる。俺は少女にしがみついたまま必死で脚を振り回す。

耳元で銃声がした。脚が不意に軽くなり、ものすごい勢いで身体が浮上した。

拳銃が地上に落ちていく。片手に持った拳銃を投げ捨てた少女はふたたびフレームに両手をかける。

熱狂的な歓声が背後から聴こえる。俺の名前を、全員が唱和していた。

恐る恐る背後を見ると、屋上を埋め尽くした群衆が、ぼろぼろと墜落していくのが見えた。

あいつらは空に消えていく俺を追いかけようとして空中に次々と身を踊らせているのだ。

□□

上空から世界の惨状を眺めた。

果てしなく広がる荒廃の風景。人類が社会生活を一斉に放棄したあとに出現する景色。

これが、俺のせい?

見えてる世界ぜんぶに鳥肌が広がってくみたいな感覚だった。腹の底が抜けたみたいに、どこまでも不安感が深まってゆく。

「きみのせいじゃないよ」

耳元でそう優しくささやきかけられた。

「きみはたまたま6兆分の1の特異遺伝子を持っていただけ」

平気で人を殺すサイコパスのくせに、その声音は優しくて深い情がこもっていた。不覚にも胸に刺さって涙がこみ上げてくる。

「クレオパトラや楊貴妃、国を傾けるほどの性的魅力に溢れた歴史上の人物。みんな君と同じ特異遺伝子を発現させてた」

壮大すぎて、わけの分からない話。クレオパトラや楊貴妃?

「歴史上の誰も、君ほどの影響力を発揮した人物はいなかったけど」

平然と人を殺し、それでいて情の深いところを見せ、防毒マスクもつけずに俺と話すこの少女は一体、何者なんだろう?

□□

人気の無い自然公園の一角に着陸した後、フレームを組み立てただけのドローンを分解し、人目を避けながら移動した。駅に近づくにつれて発展していく街並み。普段なら交通量が多そうな駅前に伸びる街の動脈的な道路。今はどこにも人の姿が無い。道路上に散乱したゴミや横向きに道路をふさいで放置された自動車。誰も片付ける者はない。

JRのどこかの駅前。寂れた商店街の栄養分をぜんぶ吸い上げた大樹みたいにそびえる巨大デパート群。入り口が厳重に封鎖されてる。けど、外側に面する店舗のガラスを叩き割って少女は侵入した。

奇妙なところで日本の治安の良さが残ってるのか、デパート内の店舗はほとんど荒らされた形跡が無い。

靴と、着替えと水、食料。少女は手際よく必需品を集める。

寝具店のベッドに俺を押し倒すと、彼女は一方的に宣言した。

「食事して二時間休憩」

食事や、休憩、そんな事よりまず事情を説明してくれ。そんな俺の本心はお見通しなのか彼女はすぐに口を開いた。

「海の向こうで、戦争が始まっています」

思わず身体を起こそうとする俺を少女は小さな手でベッドに押しつける。

「休息と同時進行で聴いて」

「・・・・・・」

「世界大戦《ワールド・ウォー》。第二次世界大戦以来の大規模な戦争。今回の戦争は領土や石油資源をめぐる戦争などではありません」

世界大戦。なんて不吉な響き。

「世界は、あなた一人をめぐって戦争を始めたのです」

笑うところなのか、ここは。

「最初は、あなたの影響力を軍事利用しようと考えた大国間のちょっとした小競り合いでした。どの国があなたを保有しその影響力を管理するのか。また研究対象として利用するのか。米中を中心に最初はいたって現実的な駆け引きでした。アメリカによる中国への経済制裁。あなたの奪還を企てる諜報活動に関与した人物の資産凍結。中国側は駐米大使の引き上げなどで対抗してました」

よくヤフーニュースなんかで目にする昔ながらの小競り合い。冷たい戦争。

「ですが前線の突発的な暴走が頻発するようになり、両国内で大規模な暴動が起こり初めて事態が一変しました」

前線の突発的な暴走?

尖閣諸島に近づいてきた中国の船を、自衛隊が撃沈させる、みたいな出来事?

暴動。今、日本で起こっているような現象が外国でも始まったのか。

「世論が、戦争によるあなたの奪還を要求している。その要求に従わないなら社会そのものを崩壊させると脅してきている。特に共産党体制崩壊の危機に直面した中国は、人民の要求に逆らうことなど出来ませんでした」

14億人の暴動。日本の惨状を見た今、その凄まじさはかんたんに想像できた。

「いつの間にか世界は、マジで喧嘩を始めていたのです」

戦争が起こるときは、いつだって一般庶民が潜在的にそれを望んだときだって歴史の先生が言ってた。独裁者が煽動して侵略戦争を始めるってあれは嘘だって。どんな凄い独裁者だって自分のひとりの意志で戦争を起こすことなんてできないって。

「連合国側は、あなたを殺害することによる事態の終息を望みました。私の属する部族は、あなたの処刑に関して早計である、と反対する立場でした」

ぞわぞわと鳥肌が広がる。俺はあとほんの少しで殺される運命だったのか。脳みそだけ頭蓋骨から取り出されて米国に引き渡される。彼女がさっき言ってた言葉がよみがえった。脅しでもなんでも無かったのかよ。

「私はあなたの味方。安心して」

「・・・・・・俺の事、処刑しない理由は?殺したほうが手っ取り早いんだろ?」

「・・・・・・そうね。癌ができたら健康な細胞ごと根こそぎ切り取ろうって発想する薄っぺらな西欧流の合理主義者ならそう結論するかもね」

「・・・・・・」

「でも私の属する部族は、あなたの存在を地球そのものの意志とみなしています。地球を汚し壊す増えすぎた人類を減らそうとする地球生命の自浄作用だと。自然の意志として存在するあなたのような特異体を扱うには慎重を期すべきだと」

特異体・・・・・・。まるでお前はエイリアンだって言われてるみたいだ。

「あなたを処刑したりすれば最悪の場合、地球生命はあなたの数十倍も悪質な抗体を作り出し、人類を駆逐しにかかるかも知れない。私たちはあなたの性質を丁寧に研究して、いずれは共存する事を望みます。残念ながら、世界の半分はそう考えてはいないようですが」

俺が、本当に奇妙な疫病の発生源になってるなら、この少女はなんで・・・・・・。

「なんできみはマスクもつけずに俺と話してられるの?」

少女はふっと憐れむような微笑を浮かべた。

「私は、真性のアセクシャル。生まれながらに恋愛感情が存在しない特殊体質です。男にも女にも、私が性的魅力を感じる事は無い・・・・・・」

少女のこだわりの無い態度。色のついてない自然体の理由が分かった。

俺の事を人間の男というより石ころか何かのように感じているから、彼女は俺を分け隔てなく憐れむ事ができるのだ。

□□

あれだけ人間の情欲を浴びせられて、心底うんざりしてたはずなのに、身近にいる女の子が自分のことをまるっきり異性として見ていないというのはどこか味気なかった。

自分をただの人間として扱ってくれる相手がどれだけ貴重か分からないのに。まだどこか心のなかに物足りなさを感じる余地がある。

前を歩く少女のしなやかな脚。野生のシカみたいに張りのあるヒップのライン。自分より何学年も下の少女が、唯一の頼みの綱なんて、情けなくなる。

彼女は、駅構内を伝って地下鉄に降りていく。疾走するものが途絶えた地下鉄路線、そこを利用して移動するつもりなのだ。

今、街には人影が途絶えているが、これは近辺の住民が研究所周辺に集結していただけみたいだ。もうすでにちらちらと人の姿が街のなかに戻り始めている。

薄暗いホームから線路に降りて、アウトドア用品店で見つけた強力な懐中電灯で人工の洞窟内を照らした。東京の地下を繋いでいる長大な地下洞窟。行き先はちゃんと書かれてあるし、途中で枝分かれする事も無い。まっすぐに歩けばちゃんと着くはずなのだ。でも、なかなかトンネル内に進んで行くのは気が進まなかった。

人工物だって分かってても何キロにもわたって続く真っ暗なトンネルなんて不気味で仕方ない。

顎のしたから懐中電灯で自分の顔を照らして少女は言った。

「地下鉄のトンネルは、煉獄《れんごく》へと通じている。そんな都市伝説があるの知ってた?自殺とか中絶とか良くない死にかたをした不完全燃焼の死霊が集まるところ、それが煉獄《れんごく》」

それだけ言い残して、自分だけすたすたと暗黒のトンネルの中へ歩いていく。

「おい!」

あれだけ人間を始末しといて、平気で闇の中へ歩いていける。やっぱりこの女はイカれている。

少女の背中を見失わないようにライトでその小さな背中を照らしながら必死に歩いた。本当はもう座りこんでしまいたいくらい足腰にこたえていたけど、こんな暗闇で取り残されるよりはマシだ。

「なぁ、ひとつ訊いていいかな?」

「・・・・・・どうぞ」

「名前、なんてーの?」

「虎6」

耳馴れない言葉だった。フゥーリウ、と彼女は発音した。

「フゥーリウ・・・・・・?」

「虎に数字の6でフゥーリウ。みんなにはそう呼ばれてる。本当の名前、私も知らないの」

中国語・・・・・・?どう見ても日本人にしか見えなかった。日本人の女の子にしたら、ほんの少し距離感が近くて無防備な感じがしたぐらいで。中国語、と分かった瞬間、警戒感がわき起こる。俺のなかにもしっかりとネトウヨ的な偏見が植え付けられてる。頭の弱い若者が毎日ネットを見てれば必ずかかる病。

この少女についてきたのは正解だったのだろうか?本当にこの少女は味方なのか?

闇の中に遠ざかる少女の背中を見つめながら足が動かなくなった。虎6、コードネームみたいな名前しか持たないこの少女に見捨てられたら、俺は闇の中に一人ぼっちになるしかないのだ。

心臓を取り出されて、宇宙空間の無限の闇の中に放り出されたみたいな孤独感に襲われた。

親友も幼馴染みも、戻るべき故郷も、もう無い。闇の中に少女の背中は遠ざかる。

一人ぼっちになる恐怖感に耐えられなくなって、歩き始めた。胸のなかでは不安感と不信感が渦を巻いていた。

□□

ホームから地上に上がって、また別の地下鉄路線に乗り換えて。東京のはらわたの中をハイキングしていった。地下鉄の暗闇にも馴れて、闇に目が効くようになっていた。歩き疲れてくたくたになると、どこかの駅のホームに上がって寝袋を敷いて眠る。

どこの駅にも売店があって、軽いお菓子などの食料はそこで手に入った。このまま、地下鉄路線の中を転々と移動する生活も悪くないと思えるくらいだ。地下鉄を乗り換えるときに地上に上がると、外の世界の混沌ぶりはより一層、深まってるのが分かった。

だけど真性アセクシャルの少女、虎6には明確な目的地があるみたいだった。

どれだけ歩いてきたんだろう。駅名が自分の生活圏とはかけ離れた首都中枢のものばかりになってくる。女らしい香水の匂いなんてまるでさせない、ほとんど体臭の無い虎6だったけど、真後ろを歩いているとほんの微かに汗の匂いを感じた。トイレの洗面所で顔を洗い、濡らしたタオルで身体を拭くくらいで湯船に全身を浸けるなんて贅沢はもう何日も遠ざかってる。何ヵ月も前から研究所に押し込められてた俺なんて酷い体臭をたれながしてるかも知れない。

でも虎6の身体から漂ってくる汗の匂いは不快じゃなかった。心地いい香りとは言えないけど、嗅いでいてもぜんぜん嫌な気がしない。むしろ、もっと近づいて匂いの発生してる所在をつぶさに確かめたくなる。

女として見てるんだ、と自覚する。汗の匂いも好ましく感じるくらい、目の前にいる少女を異性として認識してしまってる。

彼女は、俺の事を男でも女でもない、ただの36℃の温もりをもった肉のかたまりぐらいにしか感じていないだろうに。なんの感情もわき起こらない相手から、一方的に異性として意識される。それは、どんな気持ちなんだろう。

虎6は男たちがなんで自分の身体に執着して特別な関心を示すのか、まるっきり理解できないまま生きてきたのかも知れない。

俺が、中年のおっさんに欲情されて追いすがられたときに感じるような戸惑いを絶えず感じながら。

都庁前駅。東京の首都中枢のど真ん中といえるその駅で、虎6は地上に出ると宣言した。

──外に出る?

地下の闇の中に平穏を見出し始めていた今、それはとんでもない暴挙に思えた。なんとなく、この国籍不明の少女と一緒に地下空間をねぐらにして生活していくのも悪くない、なんて夢想を抱き始めてもいた。二人だけで生きていくなら食料はほとんど無尽蔵っていえるくらい駅の周囲に残されていたし、そのうち東京は木々や草に覆われて森に還るだろう。大都心を覆い尽くした森の中を駆ける野生の鹿。それを追いかけ、狩って、ふたりして食べる虎6と俺。

こんなバカげた事を妄想してると知れたらびっくりして彼女は2度と俺と会話してくれなくなるかも知れないけれど。

だけど、俺の反対意見を彼女は一蹴した。

「だめ。あなたは送り届けなきゃいけない。私の部族のもとへ」

誰にも見えない胸の深いところでひそかに傷ついていた。闇の底に落ちたガラス片みたいに鈍く光る痛み。虎6と一緒に過ごす時間に名残惜しさを感じていたのは、やっぱり俺だけだったんだ。

少し眠るだけで、この世界にアップデートしたてみたいに回復してしなやかに躍動する虎6の身体。尻や太ももの筋肉が流動して、彼女の鮮やかな身のこなしを生み出していく奇跡みたいな光景を見ていた。

疲労が身体の各パーツの中に洪水後の泥濘みたいに重く残る自分の身体。虎6のあふれでる活力の前で惨めったらしさは加速する。

小綺麗な駅構内は人影ひとつ無い。いまだに動き続けるエスカレーターを避けて、地上への階段を昇る。

「いかなる通信手段も傍受する術を相手は心得てる。だから、最も原始的な方法で情報を共有して仲間と合流するしかなかった。口伝え。記憶。ホコリ一粒サイズのナノマシンで盗聴される事まで想定して私たちの部族にだけ伝承されている古代の暗号言語でやり取りしてね」

もう少しで仲間と合流できる。その安堵感からか虎6は饒舌になっていた。

地上に出ると、本当に目と鼻の先に都庁がそびえていた。高層ビルが立ち並んだこのエリアにも人影がまるで無い。示し合わせたような廃墟感に、どこか不気味さを感じた。あれだけ人口が密集してた東京で、どうやったらここまで人の姿を消せるんだろう。

虎6が向かってるのは、そびえたつ都庁そのものらしかった。足元に地下鉄路線が走るこの高層ビルは、たしかに人目を避けてたどり着くには理想的な目的地なのかも知れない。

猫を思わせるしなやかな動作で駅の出口から都庁入口までのわずかな距離を潰すと、虎6は俺にあとに続くよう合図した。

周囲の人目を警戒しながら、身を低くして走る。

ありとあらゆる通信手段を傍受する術を相手は心得てる、と虎6は言ってた。事前の口約束だけを信頼してここにたどり着いたって事になる。仲間が、ここで待っている事を信じて。リアルタイムで仲間と連絡を取り合っていたわけじゃないんだ。

虎6はここで仲間が待つことを信じて疑ってない。

俺も虎6の事は信頼していた。彼女が俺を本気で守ろうとしている事は疑う余地も無い。けど・・・・・・。彼女の部族の仲間まで信用してるわけじゃない。俺をどうするつもりなのか。本当に生かしておくつもりなのか。何も読めなかった。

膨大な空間の中には、もうすでに遺跡感が漂いはじめてる。これだけの空間のなかに活気を吹き込み続けていた人々の生命力。こんな巨大な建物を生かし続けるには、常に活動する何千人もの人々っていうとんでもないコストを必要で。たった一人で都市の王様に君臨したつもりになっても、都市の方はあっという間に空っぽの死骸に移り変わってしまう。もう、都市に息吹を吹き込む人々はどこにもいない。

エレベーターが到着してベルが鳴っただけで、薄《うっす》ら堆積《たいせき》した埃《ほこり》が舞い上がった気がした。

虎6の上気した顔が微笑ましくて違和感を口にするのがはばかられた。

地上200メートル以上の高さを誇るこのビルの最上階付近は、展望台として一般に無料公開されている。二股に分かれた高層階の、北側に位置する展望台に俺たちは上がった。

エレベーターが開いた瞬間、長い間停滞してた空間特有の気配が流れた。ちょうど、夏休み明けの教室に一番乗りしたときに似た気配。

虎6の表情もみるみるうちに緊張感を取り戻した。寂れた売店やレストラン。人影の絶えたフロアを注意深く歩き出す。

不意に、前方に光が溢れると目と同じ高さに空があった。天井の高いフロアの外側は、全面がガラス張りになっている。東京の景色が1面に広がっていた。

思わず息が漏れて、思考が景色に染められる。虎6の横顔を見た。俺と同じ、心に景色を映した顔をしていた。

虎6も俺の方を見た。胸のなかの温かい気持ちがお互いの表情を同じ色合いに染めた、そんな気がした。

夕暮れの窓辺を紙飛行機が通りすぎていく。中学生のときに教室で見た、そんな光景にそっくりだった。

青空。大都会を一望した景色。そこを横切った真っ白な飛行機。目と同じ高さを飛んでいた。

紙飛行機みたいにすーっと視界を横切ったそれは、真隣にある双子のような南展望台に、直撃した。

一瞬で衝撃波がきて地上200メートルの高さで、床が傾《かし》いだ。自分と外界を隔ててるたった1枚の頼りないガラス板がぐにゃんぐにゃんとたわむ。

頭を真横から殴りつけられたような轟音。ガラスの砕ける音。目のくらむようなこの高さから簡単に外に投げ出される。流れ込む風に肌を撫でられて、文字通り皮膚でその事を実感した。床は少し傾いたまま元に戻っていない気がする。あるいは、俺の中が壊れて傾いてしまっているのかも知れない。

盲目の人が星を手探るように、虎6の存在を探した。

真隣で、高層ビルの双頭の頂上が爆発した。

脳も内臓も、災厄の震動に揺れる。この不吉な場の持つ禍々しい波動が、俺の存在を巻き込む。

虎6を抱いて、必死にかばった。腕のなかで彼女はつぶやき続けていた。

ごめんね、ぜんぶ筒抜けだった、きみを守れると思ってたのに、ごめんね、ごめんね

なに言ってんだよ、お前のせいじゃないよ。そう声をかけようとしたとき、腕のなかにいたはずの虎6が電光の速度で動いた。

俺の腕をつかんで、展望台の奥に走る。

風の音に混じって、割れた景色の向こう側から妙な音が聴こえてきた。

思わず振り返ると、今度は俺たちのいる展望台に向かって真っ白な飛行機が突入してくるところだった。

片翼が、俺たちのいる空間を引き裂いていった。

展望台の片側が、地上200メートルの高さで剥き出しになっている。

風が無造作に吹き抜けていく。

飛行機は不自然な挙動で展望台に直撃する寸前に急旋回したように見えた。

轟音をたてながら、片翼を失った飛行機が都庁のかたわらを墜落していく。

「きみに、魅入られた」

虎6がささやく。

「飛行機の機体越しで、一瞬なら、きみに接触しても意志を貫けるって・・・・・・甘いよ」

俺が、あの飛行機の自爆テロを防いだ?モテすぎてテロを阻止したって?

そばで小爆発が起こった瞬間には、もう虎6は動いていた。

顔を上げて事態を把握しようとする俺の頭を強引に床に押しつける。

「伏せてて」

床と平行の目線で、虎6が床を転がりながら何かを投げるのを見た。

床に顔をつけた俺の目の前に何かが墜落して、バウンドする。ラジコンヘリコプターみたいな物体。ドローンだった。機体に、手裏剣みたいな金属製の武器が刺さっている。

床に伏せたまま、仰向けに姿勢を変えて空を見た。

無数のドローンが、空にシルエットを浮かべていた。それぞれの機体が小火器を装備しているみたいだった。虎6に向かって無数の火線が走る。

虎6は踊るような軽やかな動作で銃撃を避けながら、空に手裏剣状のものを投げている。

当たらなくても、手裏剣状のものが近くを通過しただけでドローンは火花を散らしてコントロールを失ない、やがて墜落した。

なにか精密機械を破壊する電磁波のようなものが虎6の投げる武器から放出してるみたいだった。

そうでなくても、ほとんどのドローンに虎6が投げた手裏剣状の武器は命中して突き刺さった。

虎6が空に浮かぶドローンをほとんど10秒以内に全滅させた瞬間、ビルの下層の方から軍用ヘリコプターの機体が出現した。

不意を打たれた虎6の方へ軍用ヘリコプターが機首を向ける。俺はとっさにその場で両手を広げた。コックピットに向けて脳細胞が焦げ付くような強い思念を送った。

ヤメロ

不意に軍用ヘリコプターがその場で腹を見せて宙返りしていた。そのまま、まっ逆さまに地上に向けて突進を始める。

俺は、その光景を眺めてあぜんとしていた。自分が、世界にここまで影響力を発揮できる。それはもう、愉快さなんて突き抜けてただただ不気味な事象だった。

背中に衝撃をうけて、身体が浮き上がるのを感じたのは次の瞬間。全身を駆けめぐる何か。自分の身体のなかで脊椎が急に存在感をおびて、浮き彫りになったような奇妙な感覚に襲われる。

自分が何かの強烈なエネルギーに襲われて、全身が感電したように麻痺してるのだと気づいたのは虎6の悲鳴が聴こえてきたときだった。何か安心させる言葉をかけようと口を開いたつもりになっていたけど舌ぜんたいが完全にしびれ上がってて、『あ』の音すら出せそうにない。

品性の器に大穴が空いたみたいに、いろんな体液が身体のあちこちからがばがばに漏れてきた。よだれがとめどもなく溢れ出して顔の下半分が濡れている。精液とも小便ともつかない得体の知れない新鮮な液体がぶちまけられたボクサーパンツ。尻の方は・・・・・・もう言わせないでくれ。

大空のもとには似つかわしくない黒いシルエットが比較的、原形を留めているフロアの入口のところに立っていた。

「・・・・・・虎6。お前の任務は終わった。特異体Oから離れろ」

虎6が何かを絶叫している。中国語っぽい音の羅列だけど俺にはそれが中国語なのか特定できない。

「・・・・・・天朝の方針が変わったのだ。許せ虎6」

男が手に持っている銃火器は砲身が先端に向かって広がっていく、トランペットみたいな奇妙な形状をしていた。

「・・・・・・退け、虎6」

青空の元でも、まるで薄らぐことのない陰がある男だった。何千年も葬儀場で人の死を見守り続けてきたかのような、骨の奥まで浸透した陰。男は、俺の死にも淡々と立ち会おうとしている。俺はこれから始末されるのだ。

遥かな地上から爆発音が聴こえてきた。近い区画からだった。爆発音は2度、3度と続けざまに起こる。地上で明らかに異変が起きていた。

地上200メートルの高さからでも感じ取れるような異様な活気が下に集結してきている。オペラグラスでも使って下をのぞけば、出場者40万人のビーチフラッグでも観てるような地獄絵図が展開されてる光景を見物できたかも知れない。

それが自分ひとりをめがけて押し寄せてくる国家規模の暴動だなんて気づくまでは、とてつもなく愉快な光景かも知れない。

無人だった首都に、暴徒が押し寄せてきてる。それを足止めしようと、戦争が始まってるのだ。

ひときわ大きな爆発が起き、その炎がはっきり見えた。どんどん近づいている。

群衆は、都庁《ここ》を目指して殺到しているのだ。

「なんのつもりだ?虎6」

俺の前に少女の薄い身体が立っていた。俺を男から隠すように。

「全員・・・・・・死ぬぞ?」

虎6が切りつけた空間には何も無かった。巨大な漆黒のブレードが空気を焦がす音だけがブンッ・・・・・・と空間に浮いた。

男が虎6のわき腹に掌底《しょうてい》を打ち込むのと、虎6が男のつま先をブレードで串刺しにしてアスファルトに縫いつけるの、男の左フックをかいくぐると同時に虎6が胴に肘鉄を叩き込むの。それら一連の光景がほど同時に脳裏に飛び込んだ。

目にも止まらぬ、を超越したスピード感だった。

この男は、女の肉体に1ミクロンほどの愛情も抱いてない。

そう直感できるぐらい容赦の無い殴り方で、男は虎6の顔面に5、6発叩き込んだ。

この男も虎6と同じ、恋愛感情を決して感じないアセクシャルなのかも知れない。

虎6は、殴られながら腰から漆黒の短刀を抜いて、男の膝の付近に突き刺していた。

足をアスファルトに縫いつけられ、逆の足の膝に短刀を突き立てられた。この一瞬でより深いなダメージを受けていたのは男の方だった。

虎6は鼻血や、瞼の上のあたりから流れる血など気にもかけずにバックステップを踏んだ。

動けない男の顔面に向かって飛び上がり、膝蹴りをいれる。

男は虎6の細身を抱きかかえて動きを封じようとしたけど、空をハグしただけだった。

太い声で叫びながら虎6は物凄い連撃を放った。ヒグマでも絶命しそうな強烈なコンビネーション。

興奮しきった虎6は、相手の膝から短刀を抜くとそのまま相手の心臓に全体重をこめて突き立て直した。

戦闘は終わった。男の身体にめり込んだ短刀の柄から手を放したとき、俺は初めて虎6が泣き顔なのに気づく。

少女は泣きじゃくりながら男を殺したのだ。

男は、虎6にとって大事な存在だった。千の言葉より雄弁にその表情が物語ってた。

・・・・・・なんで?俺なんかのために?

胸が内側から張り裂けそうだった。やるせなさがとめどなく溢れて、もう俺の小さな手では抱えきれない。なんで、こんな健気な女の子に人を殺させたり、悲しい思いをさせたりするんだよ。

非常階段の入り口に食堂のテーブルや台を移動した。気休めにしかならない。大人数で押し寄せられたらひとたまりもないだろう。エレベーターの方は男が来るときに何かの細工をしたのか16階に停止したまま、どの箱も動かなかった。

虎6になんて声をかけていいのか分からない。男の死体と虎6のそばに戻るのが怖かった。

うつむきながら虎6のところへ戻った。

顔を上げると、雲の切れ間から差し込む陽射しに、虎6の穏やかな微笑みが照らされていた。血で汚れているのに、こんなに綺麗な顔を見たのは生まれて初めてだ、そう感じた。

虎6はガラスがなくなった外側の、ぎりぎりの場所に立っていた。あと、ほんの一歩下がれば転落してしまうぎりぎりの場所に。

急に虎6の穏やかな微笑が不吉なものに思えてきた。

「わたしね・・・・・・」

虎6は手の甲で、血と涙に濡れた頬をぬぐう。

「きみのこと、好きになっちゃった」

全力で、虎6を抱き止めに走り出すべきだった。なのに、俺はアホ面を晒してぽかんと口を開けただけだった。

「きみとずっと一緒にいたいって・・・・・・思っちゃった」

自嘲的に笑って、少し舌を出し、自分の頭をぽかっと叩く。そのとき、虎6の仕種やセリフのすべてが日本のアニメから学んだものなんだと気づいた。彼女は、普通の少女同士で交流してお互いの仕種や言葉づかいを学ぶ場所なんてどこにも持たなかったのだ。

「わたし、役立たずになっちゃった。もうきみといらんないや」

笑顔のまま、虎6は後ろに体重をかけた。

支えるものなんて何も無い宙に向かって身をあずける。

叫びは、誰の耳にも、俺自身の耳にさえ入らなかった。

心臓が、石のように無感動になるまで、叫び続けた。もう心を通わせる相手なんて、どこにもいなくなった世界で。

旧訳聖書の、ヤハウェの天罰を真似たような弾道ミサイルが着弾して、地上が熱の津波に洗い流された。

都庁を中心とした半径十キロ圏内、そこに殺到する群衆めがけて無数のミサイルが着弾し続ける。

午後の太陽を下から焦がすような炎が首都一面を覆い尽くした。

遥かな地平線までのあいだに、いくつものきのこ雲が生まれでて、天高く成長していった。

自分と、この破滅した世界のあいだに何の関わりがあるって言うのだろう?

自分が、この途方もない荒廃になにか関与してるだなんて到底思えなかった。

森林火災のなかで一本だけ燃え残った大樹みたいなこのビルの上空に、軍用ヘリコプターが集結してきてる。

警戒して、しばらくはまわりを滞空しているだけだったそれらの機体は、陽が暮れる頃になってようやく真上までやって来た。

漆黒の、異星人じみたデザインの防毒スーツを着た軍人が、ヘリから命綱で降下してくる。

・・・・・・早く、殺せ。

首のあたりにショックが走って、死とも眠りとも判別のつかない暗黒で意識を切断された。

□□

男たちの、言い争いの声が無意識の暗闇に切れ目を入れた。世界の裂け目から垣間見た光景のなかで漆黒の防毒スーツを着た男たちが揉み合っている。まだ軍用ヘリコプターの内部にいるようだった。

「俺はこの人と結ばれるために生まれてきたんだ!」

けたたましい叫び声。

「恋愛過敏体質か!なぜ検査をくぐり抜けられた!」

「防毒スーツすらもう効いていないんじゃないか」

「やむを得ない、投棄せよ!」

青空の一部が見えて、生き生きとした突風が頬をうつ感触と同時に意識が遠のく。

□□

痛覚が、胸のある一点にだけ高まっていく。

眠りの膜を突き破るまでに鋭角にとがった痛み。

光源を背負った防毒マスクの男たちが、俺の手足にすがりつくようにして身体を押さえつけていた。

痛みだけが、俺を突き上げて覚醒の世界に浮上させている。痛覚の出所である胸に視線を落とした。

自分の胸の中心に、見たことも無いような長い長い針が刺さっていた。心臓まで到達しているとしか思えない長さだった。

「コッチコッチコッチコッチ・・・・・・」

血の気が引いていくのが自分でも分かる。俺の胸に針を突き立てている人物が、防毒スーツの内部で、その奇妙な擬音を口走り続けていた。

「コッチコッチコッチコッチ・・・・・・・」

俺の胸に突き刺さった針が、根元から徐々に徐々に、朱色に染まっていく。針の上へ上へと、血液が昇っていく。

「7時35分!7時35分!」

急に、俺の心臓に針を突き立てた男がそうけたたましく叫んだ。

「7時35分!7時35分!今日の獅子座の運勢は!今日の獅子座の運勢は!」

いてもたってもいられずに、俺は叫んだ。

□□

世界がひっくり返ったような衝撃とともに、カラフルな夢の世界を一瞬で漂白する朝の光が脳を焼く。

「7時35分!7時35分!」

「うわあぁああああああ」

心臓に針を突き立ててきたマッドドクターが、また奇妙なたわごとをつぶやいている。そう思って悲鳴がほとばしり出た。

「うるさいなぁ、もぉ。さっきっからどんだけ魘《うな》されてるの?」

女子高生の制服の上にエプロンをつけた幼馴染みが俺のことを見下ろしている。

「二度寝もいいけどさぁ、遅刻するよ?」

アオイだった。

死んだはずのアオイが目の前に立っている。

さっきまでと、別の色味をした恐怖が胸の内側に染みてくる。

「お前、生きてたのか!?」

「・・・・・・はぁ?」

「今日の獅子座の運勢は花丸!勇気をもって新しい世界の扉をあけよう!」

アオイの背後で、テレビの朝ニュースが流れている。耳にこびりついた占いコーナーのBGM。遠く霞んだはずの日常の世界から流れてくる音だった。

「・・・・・・虎6は、虎6はどうした?」

「え?なに?」

「虎6だよ!」

「ふぅー・・・・・・ら・・・い?」

アオイが、虎6と面識が無い事に思いいたった。虎6に出会う前に、アオイは死んだはずなのだ。

「中学生くらいの、小柄な女の子だよ」

アオイは、妙にしまりの無い表情でにやけた。

「ははぁー、さては中学生くらいの女の子とチョメチョメするゲスい夢でも見てたな」

・・・・・・夢?

なにか、水風船でも顔に投げつけられた心地になった。

・・・・・・夢?

「どうでもいいけどさ、せっかく朝食つくったんだから食べてよね」

テーブルの上に皿が乗っていて、形の崩れた目玉焼きが湯気をあげている。

5分ぐらい、湯気を見つめながら呆然としていた。

モテて、モテて、モテすぎるあまりに。俺をめぐって世界が戦争を始めて。日本が滅亡する。

思わず、吹き出した。

なんで、もっと早く気づかなかったんだろう?夢以外にはあり得ないバカげた出来事の連続だったじゃないか。

「笑えるぐらい美味しくなさそうって事ですかぁ?どーせきみのお母様には敵いませんよーだ」

肌が、不意にあわだった。

ここ数か月の体験のひとつひとつが実感として皮膚の表面に浮き上がってくる。

あれが、夢?あり得ない。

目の前の料理に空腹を感じて、スプーンを手に取り口に入れてみた。

ちゃんと、口のなかにリアルな味が広がった。

「・・・・・・美味い」

「えーほんとー?」

目の前の料理、そばにいるアオイの声。すべてに現実感があった。

もし、あの破滅と滅亡がすべて夢のなかの出来事だとしたなら。まだ俺の故郷も、まわりにいる大事な人たちも、なに一つ失われていないんだとしたなら。

どれだけ、どれだけ素晴らしいだろう。どれだけ幸せだろう。

胸がいっぱいになって、涙がせき止められなかった。アオイもヒロも地元のみんなも、まだ生きている。この場所に存在してる。こんなにありがたい事は無い。こんなに幸せな事は無い。

突然、泣き出した俺を見て、アオイは怪訝そうな顔をした。すぐ優しい笑みを浮かべて慰めの言葉を考えている風だ。

「あっ時間!学校いかなきゃ!遅刻だよ!」

テレビ画面に浮かぶ時刻表示を指さしてアオイが叫ぶ。

ぼんやりとした頭で周囲を見回す。自分の家の風景が少ししっくり来なかった。長い旅行から帰ってきたあとのような。

「・・・・・・制服どこだったかな?」

「どんだけ寝ぼけてんのぉ?着てんじゃん制服」

言われてみて、自分も制服姿な事に初めて気づいた。

ほら、行こ、と俺の手を握ったアオイの手の温もり、皮膚の質感、すべてが生々しく実体感があった。

アオイの背を追って、廊下を走る。アオイがドアを開ける。

1センチのすき間も無く、外が人で埋め尽くされていた。

手の中からアオイの温もりが消失した。

ドアと言わず、窓と言わず、あらゆる場所から群衆が流れ込んでくる。

壁が、紙1枚でできた薄っぺらな書き割りみたいに気軽に取り外されて外の景色が剥き出しになる。

無数の手が家の内側に伸びてきて俺の腕や足や首や胴をつかんだ。

どこからか大量の水が流れ込んでくる。群衆も俺も家の中に流れ込む濁流に巻き込まれて何も見えなくなった。

その瞬間、もう一度、目覚めた。

2重3重に重なった繭《まゆ》のような夢の世界から、ようやく顔の先だけつき出したような一瞬の目覚めだった。

水、水、水。

水に包まれているという状況だけが現実のようだった。

水族館に展示された海洋生物みたいに、俺は水の中に身を置いて浮いている。

身体の末端から胴体の中心部にかけて固形物みたいな痺れが貼りついていた。手当たり次第に身体のあちらこちらを動かそうとしても、頭脳の指令に答えたのは左手の指先と右の頬だけ。舌は干からびて死んだ磯巾着《いそぎんちゃく》みたいに喉の奥にへばりついてる。

自分が今、どんな状態なのか。五体がきちんと揃っているのか。それすら分からない。

あるいは、左手の指先と右の頬だけが残ってて、あとはぜんぶ欠損してるのかも知れない。胸だけで悲鳴をあげて泣いていた。

自分をこの空間に閉じ込めているガラスケースに頭突きをいれてやりたい。だけど身体はまるで言うことを聞かない。呼吸を荒くする事すら自分の意志じゃままならなかった。

唯一、自由に動く眼球だけをぐるぐる回して視覚情報だけでも限界までかき集めようとした。

自分が、ガラスケースのなかで液体に浸されて浮いていること。ガラスケースの外が宮殿みたいに広くて豪華な内装に彩られた貴族的な空間だってことだけは把握できた。

自分が王宮の間のような、きらびやかな空間でオブジェみたいに展示されているんだとまでは、まだ自覚できなかった。

今まで気づかなかったガラスケースの足元に、一人の少女がたたずんでいた。少女は俺の目を真っ直ぐ見上げている。

はっきりと視線が重なった。

天才的な職人が手がけた精緻極まる人形に、そのまま命を吹き込んだかのような、美しい白人の少女だった。

人類がもってる価値のなかでも間違いなく最上等に属する、宝石みたいな美少女。少女の金髪のきらめく様、幼い頬の滑らかさ、小さな手のなかの真珠みたいに綺麗な1枚1枚の爪、そんな可憐な容姿の全体が、胸をうつような感動的な魅力が、そんなおおげさな感想を自然と胸の中に彫りおこす。

幼く、美しい少女は俺が再び水槽のなかで意識を失う瞬間まで、1度も目を離す事無く俺の事を見つめ続けていた。

□□

長い長い夢の裂け目からひとときだけ垣間見《かいまみ》えるガラス越しの風景。

そこには、必ずあの少女の姿があった。

少女は水槽の下に座り込み、飽《あ》くことなく俺を見つめながら何かを喋っている。

あるいは、少女が延々と語りかけてくる事によって俺の意識は現実に呼び戻されているのかも知れない。

眠気の濁流に引きずられた意識で、最初はただ煩《わずら》わしいと感じていた。完璧な均整のとれた美貌に見つめられる心地よさは胸の一部に残っていたけど、今はもうただ植物的な眠りのほうに帰りたかった。

それでも毎日、毎日、少女に語りかけられていたせいかだんだんと自分のなかで覚醒している部分が増えていった。枯れはてた荒野に水を撒きつづけて、緑の部分を養うみたいな。少女の途方もない根気が成した奇跡に近かったかも知れない。

少女がだんだんと成長して大人びていくにつれて意識の覚醒した部分も増えていった。

意識が冴えていくにつれて、彼女の美しさが直視しがたいほど強烈なものだと分かってくる。

長い長い間、聴かされ続けてきた彼女の身の上話。彼女はこの世界を統一した絶対権力者の娘だった。

世界をひとつの団体が統一する。それに、どれだけの年月がかかったのかは分からない。

この世界はある宗教を母体にした新興団体によって急速に支配され、ついには統一されてしまったのだという。あらゆる異文化、異教徒を飲み込み、洗脳し、消滅させるだけの圧倒的な支配力をこの新興団体は手にしたのだ。

新世紀のカリスマ。イエス・キリストや仏陀やムハンマドの残した影響力を綺麗さっぱり塗り替え、更新してしまった新世界の神。

俺が、俺自身が、この新興宗教の御神体であり、強大な影響力の源なのだった。

少女の語りかけによって目覚めさせられて、起きている時間が長くなるにつれて、俺は事態の真相に気づかされた。

900万人の上級信徒が集結した神児《シンジ》祭のフィナーレを飾る一大イベントとして、俺は水槽ごと群衆の前で晒し者にされた。

大海原に波が伝うように、徐々に徐々にひれ伏してゆく大群衆。俺の前に跪《ひざまず》きながら、群衆はなんとか俺を見ようと視線をあげる。

ぎらぎらと脂ぎった白眼、白眼、白眼。

異常繁殖して海を埋め尽くした海月《くらげ》みたいに、群衆のぎらぎら脂ぎった白眼が大地を覆い尽くしてる。

俺は頭のなかで、誰の耳にも届かない悲鳴をあげ続けていた。

群衆が発狂して、俺の入った水槽に飛びかかってくる寸前までこの晒し者状態は続いた。

□□

いつしか少女は成熟した女性になり、親に定められた相手との結婚の時期が迫っている。それは、目を覚ますたびに聴かせられる彼女の身の上話から知っていた。

長い夢のあと、眠りの表皮が薄くなり音も無く裂けていく。

目を開けた瞬間、純白のウエディングドレスに身を包んだ彼女が目の前に立っていた。

何世代も労働とは無縁だったであろう細くて小さな可愛い手に、禍々しい形をした鉄鎚《てっつい》が握られている。重さをもて余して地面に引きずるように両手でぶら下げているそれを、彼女は全身に勢いをつけて振り上げた。

鈍い音が続けざまに響き渡り、視界1面にひび割れが走る。

長い間、自分のいた世界が砕けた。投げ出され、叩きつけられ、ぶちまけられた。

いくら息を吸っても、呼吸ができない。肌のあちこちに刺すような痛みが走る。

純白のウエディングドレスを、溶液で赤く汚した彼女が俺を抱き上げた。

息ができない。意識が遠のいていく。胸の中に空気が流し込まれる感触に目を覚ますと、彼女の唇が荒々しく俺の口をふさいでいた。しつこいくらい送り込まれる人工呼吸で、ようやく肺が自発的に動きはじめる。

「行こう」

こちらの意志も確認せずに、女は俺の身体を無理に起こした。

「一緒に逃げよう」

思わずうめき声がもれる。全身の骨がきしんだ。筋肉が萎えていて、一歩足を踏み込んだだけで膝の関節がずるっと抜けそうな感覚がある。

17歳の肉体感覚しか知らない俺は、今の身体との激しすぎるギャップに絶望した。もう、早く死なせて欲しい。暗い絶望感に心がどんどん沈んでいく。

衰弱しきっている俺を見かねて、彼女は俺を抱えあげた。いわゆるお姫様だっこの状態だ。

ウエディングドレスを着た、絶世の美女にお姫様だっこされている自分。情けなくて、涙がこぼれそうだ。

喉の器官が死滅したみたいで、声が出ない。地面を擦る枯れ葉みたいな微かな音をたてて、なんとか彼女に意志を伝えようとした。

なんでこんな事するんだ。ほっといてくれ。

「あなた以外の誰かと結婚するなんて、絶対に嫌。わたしが好きなのはあなただけなの」

脳裏に虎6の顔が浮かんだ。

困ったような微笑みを浮かべたまま、背後に身を投げた虎6。

自分の欲望のままに突き進むこの女は虎6には似てもにつかない。

外は夜。大神殿のすぐ外に、タイヤの無い車があった。地べたに座り込んでしまったみたいなその車に女は乗り込む。助手席に座らされた。

「色気のぜんぜん無いファーストキスだったよね」

そう言うと、女は助手席に覆い被さるみたいにして口づけをしてきた。長い、濃密なキスだった。

車と思えたそれは、宙にふわりと浮き上がる。空に浮き上がる恐怖とはまるで違う種類の恐ろしさがわき起こる。

俺は、一体どれだけの時間、寝ていたんだ?

白髪になった老人の自分を連想した。でも、空高く浮き上がって夜景の中を飛んでいる車の窓に映ったのは17歳の自分の顔だった。

眼下には、いびつな形に夜を切り取った近未来の大都市が光輝いてる。

ちっぽけな俺たちは、本来世界がゆるやかに変化してる間に老化して寿命がきて、大きく様変わりしたその後の世界なんて見届ける前に老廃物よろしく世界から排出される宿命のはずなのに。

俺だけが保存され、生き残り、様変わりしたその後の世界に移植されてしまった。

自分と心を通わせた存在や匂いを知る懐かしい人たちがみんな消えたあとの異界みたいな遠未来。

唯一、隣に座る女性だけがこの世界との接点と言えた。心中深く根をはった心細さのなかに、彼女への依存心が結晶していくのが分かった。

生命のある宝石群みたいな遠未来都市の上空を過ぎて、底に夜を敷き詰めたような暗い地帯へ。夜の海だと、微かな潮の匂いで気づく。

身体に染み着いたひどい薬品の悪臭で、女性に頼んでさっきから窓を開いていた。

「ごめんね、港はぜんぶ父さんに押さえられてるから」

車は、闇の底へと高度を下げていく。

ある地点まで下がったところで誘導レーザーの光が闇の底から差してきた。

海と同化して黒く溶け込んでいた巨大な空母の輪郭が、だんだんと浮かび上がってくる。

車体がぐんぐんと高度を下げはじめると、急にぱっと明かりが灯った。

夜の底に、とつぜんサーカス団のテント群が照明をぎらぎら光らせて現れたみたいだった。華やかできらびやかな光の塊が夜の海に浮かんでいる。

滑走路の真ん中に着地した車に、作業員の服装をした男たちが近寄ってきた。恐怖がフラッシュバックしてきて、呼吸がうまく出来なくなる。

「だいじょうぶ、この船に乗ってるスタッフは全員、わたしが購入したアンドロイドだから」

どこから見たって、人間にしか見えなかった。人間と見分けのつかないアンドロイドなんてSF映画の世界だ。

ハッチから船内に入ってしばらくすると、エンジンが始動しはじめた。海を航行するのだと思っていたこの空母が、滝のような水しぶきを海面に落としながら浮遊していくのだと気づいたときはびっくりした。これはただの空母ではなくて、巨大な宇宙戦艦だったのだ。

「今日のためにお年玉を貯めて買ったんだけど、中古なの。ごめんね」

宇宙戦艦に中古とかあるのか?ていうか、親はお年玉で小国でも買わせる気なのか?

海から、宇宙空間へ飛び去る。この時代でそんな事まで可能らしい。体育館ぐらいの高さがある船窓から青い地球が見えてきたのはテレビアニメ一本分くらいの時間が経った頃だった。

めくるめく光景に頭がくらくらしてくる。後ろから抱きついてくる女の体温がやけに熱い。

「夢みたい。あなたとこうして触れあえるなんて」

青い地球が、あめ玉くらいの大きさになって暗黒の宇宙《そら》に浮いている。

「お祖父ちゃんから相続した遺産で、テラフォーミング中の惑星を譲り受けたの。空にはほどよい温かさの太陽が輝く地球によく似た環境の星よ」

女の匂いが、肌にじわじわと染み付いて永遠にとれなくなる、そんな幻想が脳裏に広がっていく。

「住んでるのは惑星開拓任務についてるアンドロイドだけ。わたしたち二人だけの世界よ、アダムとイヴみたいに、エデンの園で二人だけで暮らすの」

追手がすぐに来る。この女性の父親。それに、発狂した群衆。

「追手は、来ないわよ」

まるで心を読んだみたいに彼女はそう言った。

真っ白い、水疱《すいほう》のようなものが地球の表面に発生したのはそのときだった。

みるみるうちに、デキモノみたいな純白の球体は膨れ上がっていった。しかも、それは地球表面の複数箇所で同時に発生してるようだった。

「冷戦時代から倉庫に眠ってた粗悪で原始的なシロモノだけど、地球を真っ二つに割るぐらいの役には立ったわね」

白いもやが、地球のあった場所をおおった。

もう2度と出ないんじゃないかと思ってた声が、声帯から漏れでた。

女の匂いが、骨にまで喰い込んでくる。

「永遠に愛し合いましょう。永遠に」

ぎらぎらと脂ぎった白眼だけが、俺に残された世界だった。






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