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8×10

 ここでは何故、撮影するに手間がかかる大判カメラ8×10を選択したのかに触れてみたい。カメラをスクエアのハッセルブラッドから8×10大判に変えたのは、現在のterrestrialの基となった安倍川上流の大谷崩れを開始した後であった。
大谷崩れは宝永地震で山体が崩壊した後も、二つの断層に挟まれていることもあり、崩れと大雨時は土石流を繰り返す、常にカタストロフィーが起きている場所だ。
南方熊楠について書いた中沢新一著「森のバロック」の一節に、“森は「流れ」をも体験させてくれる。森はいっときも静止していない。どこかの微小部分では、たえまなくカタストロフィー的な変化が起こり、それはまわりに波及したり、調節作用によって、波及にストップがかけられることもあるが、全体として見たときの森は、たえず変化し、何かをつくりだしている。“
勿論、微小なカタストロフィーを写すことは難しいだろう、でもできる限り細かく描写できるといい考えていた。
当時、スクエアの中判カメラを使用していたが、フィルムの高騰、品質上のトラブルなどがあり中判デジタルに変えようと考えていた。
原宿にあるメーカー主催の試写会にも参加した。使用した感じも良く、これならとほぼ導入を決めていた。
それより少し後、先輩より8×10の使用の勧めと、自分が使用していたものを買わないかとの打診があった。
その時に思い浮かんだのが、数年前に見た8×10等の大判で撮影された写真の展示で見た細かい描写、そしてビデオで見た、16×20と思われるカメラでダライ・ラマを撮影している光景、被写体となったダライ・ラマも驚きの表情で「なぜ、そのカメラを」と質問、すかさず返答した言葉が、「このカメラはこの場の空気も写しとります。」返答した様子だった。
確かに、8×10の大判で撮れば森の中の細かい描写、そしてその場の雰囲気と、単なる物としての映像だけでなく雰囲気を感じられるかもしれない。
いいだろうなと思いながらも、あの大きさ、重さ、フィルム代、その他もろもろ考えれば現実的ではないと思う一方、心の中では迷いが生じた。
しかし、ある一冊の本を読んでいる時に気持ちは固まった。すでに手元にはないのだが、コーヒーについて書かれた本であった。数名のカフェの店主について書かれた本で、その中の1人の店主が東北の震災でボランティアに行った際に、被災地の漁師さんからかけられた言葉、「おまえはさ、やりたい事があるならどんどんやればいいよ。俺もやりたい事があったけど、全て津波に流されてしまった。」正確な記述は覚えてないが、「やりたい事があるならやれ」この一節が決め手となった。
一度、やってみよう。絶えず変化し、カタストロフィーが起こる様子をこのカメラで撮ってみよう。その選択は今では間違ってはなかったと思ってます。

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