見出し画像

【ただのsilentロス】「言葉」と「間」の役割を甘く見てはいけない

silentロスがすごすぎて
最近SnowManのYouTubeも見始めた
文房具クリエイターみすずです📘


そんなどハマりしたsilent、
演者のみなさんのフィット具合とか
とんでもない伏線回収とか
ネットで話題になっていたすごさはもちろん、

私はこのドラマで
「言葉」と「間(ま)」の力
ひしひしと感じることになりました。


放送終了から少し経ったけど
いてもたってもいられないので
ここに書き残しておこうと思います。

考えながら書いているので
どんな話になるか分からないですが
全てはあくまで私個人の感想です。

こういうの書いといた方がいいよね




私とハンディさんの関係


まず初めにこれを簡単に話しておきたいんですが、
私はこれまでの人生で
恐らく人より多くのハンディさんと関わっています。
(あまりこういう言い方は好きじゃないんですが区別しないと話が進まないので…ごめんなさい)

「関わる」っていうのは
「交流しました」なんてものじゃなくて、

私の知ってるハンディさんは
身内や保育園からの同級生、親友などにいます。


詳細はこの記事で前に書いたので
興味があったら読んでみてください👀


普段ドラマを自分から見ることはまずない私が
silentを見始めたきっかけは
話題だった+川口春奈ちゃんかわいい
っていうなんてことないものだったけど、

こんな環境で育ってきた私が
このドラマをどんな視点で見るのか
自分で自分に興味がありました。



そして途中から最後まで見て感じたのは


タイトルにもした通り
「言葉」と「間(ま)」の役割を甘く見てはいけない
ということ。


それぞれについて書いていきたいと思います。




「言葉」はただの道具でしかない


「聴者」と「ろう者」の話だけあって
言葉へのこだわりがすごく見えた気がします。


さっき紹介した昔の記事に
私はこんなことを書きました。

(保育園から同級生でダウン症の友だちを
周りがよくない目で見ていたとき)

幼いなりに
「分かってないんじゃなくて、
分かろうとしてあげてないだけじゃないか」
とか思ったりもした。

「相手を理解しようとする」ことに関して、
ハンディさんであろうが無かろうが
そんなの関係ない。


結局は、自分が、
「相手を知りたい」と思うかどうか、
「想いを受け取りたい」と思うかどうか、

これに尽きる。絶対に。

たまたま出会った「みんな」が、今の「わたし」を作り上げてくれた。より


私にとって「言葉」はあくまでも道具。
ただの記号でしかない。


「あ」には何の意味もない。


言葉を繋いで、組み合わせて、
相手を思いながら使って、
そこで初めて「言葉」に意味が生まれるんだと思う。


伝え方が声だろうが手話だろうが関係ない。


言葉に毒を盛って相手を苦しめるのか、
うまみを足して相手に喜んでもらうのか、

全ては使う人しだい。


よく「言葉のキャッチボール」と言うけれど、
相手が受け取るかはさておき
言葉の先には、ほぼ必ず誰かがいる。


「誰か」は
家族かもしれない
友達かもしれない
自分自身かもしれない。

今これを書いている私にとっての「誰か」は
顔も名前も知らないかもしれない
画面の向こうの「あなた」。


SNSが普及した今、
人はなぜか伝える相手が見えなくなった途端
言葉に毒を盛り始める。

見えていないだけなのに。
画面の向こうには確かに「いる」のに。



実態を知らなければ何をしてもいいの?
ナイフじゃなくて言葉なら人を刺してもいいの?



これを読んでいるあなたは
いつも言葉をどう使っていますか?

相手を想ってうまみを足せていますか?
棘を生やしてしまっていませんか?


言葉を「凶器」にするか「想い」にするか、

全ては使うあなたしだい。






「間」の意味を忘れてはいないか


最初にも言ったけど
「間(あいだ)」じゃなくて「間(ま)」ね。

とっても大事なので2回言いました。



ここで突然の質問。

あなたは動画を見るとき、
「倍速再生」を使いますか?



ちなみに私は「ほぼNo」。

私が倍速再生を使うのは
「そこから情報を得たいとき」だけ。


いわゆる「作品」の部類に入るような
映画、ドラマ、お笑い、バラエティ、
YouTuberさんが投稿するような映像コンテンツも
私は1倍速で観ています。



「倍速のほうがたくさん観られません?」

と思った人いますか?
…いないと話が進まないのでいたことにします。笑



もちろん観られるならたくさん観たい。

けど私が動画を見る目的は
「気分転換したい」とか
「推しを見たい」とかであって
「たくさん見ること」は大事じゃない。



それに倍速再生すると
その映像の「間(ま)」は変わってしまう。

特にドラマなどストーリーがあるものは
「間(ま)」の中の些細な変化を
感じ取れなくなってしまう。


私はそれがすごく嫌。

空白はきっと省略していいものじゃないから。


なんでもかんでも「速い」「簡単」「ラク」が
求められるようになって、
待てない人もどんどん増えているとされる現代。


それでも「間(ま)」が消されないのは
きっとそれが作品にとって必要な要素だから。

「間(ま)」を使って伝えたいこと
考えさせたいことがあるからじゃないかと思う。


だとしたら、
作った人たちがこだわり抜いたそれを
私はちゃんと受け取りたい。

「間(ま)」から
その作品の美しさを、意味を、感じたい。



silentは「間(ま)」にすごく意味をもたせて
それをちゃんと分からせた作品な気がします。


ノーカットで撮られた場面は
ものすごくリアリティがあったし、

無音(手話)で話しているはずなのに
声が聞こえるような表情とその変化も見えた。



みんなが少しずつ想くんを受け入れながら
1つ1つの言葉を伝え、染み込ませていく。

silentにたくさん置かれていた「間(ま)」には
そんな意味があったんじゃないかと
勝手に想像しています。



「速いからいい」かもしれないけど、
だからって「遅いからダメ」じゃない。

「いい」の反対は、必ずしも「悪い」じゃない。



なにかを受け取って
それで終わりにしていませんか?

答えが知りたいあまり
自分で考えることを放棄していませんか?



「作品」を観るときも、
なにか考えるときも、
人生そのものにも、
自分で「間(ま)」を作り出せる。

そんな感性豊かな大人になりたい。





----------


最後まで見てくださり
ありがとうございます!

ログインなしでもいいねが押せるので
よかったらポチッとよろしくお願いします✨


普段はInstagramやYouTubeで
文房具に関する発信中!

公式LINEもやっているので
ぜひ遊びに来てくださいね✦.°


📘Instagram


📘YouTube


📘公式LINE

この記事が参加している募集

振り返りnote

あなたのサポートをお待ちしています!