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炎は語る

学生時代からの付き合いである盟友が、近所の河原で焚火をするというから顔を出してみた。

火が人の文明の起源であるという言説があるとかないとか、聞いたことがあるようなないような気もするが、実際に赤々と燃え盛る炎を前に感じるのは、一種のノスタルジーと安らぎであると思う。

もともと多くの言葉を必要としない盟友との焚火時間は、パチパチと真っ赤に爆ぜる薪をただ黙って眺めるだけで過ぎていったが、そこに何一つ物足りなさはなかった。

ふいに盟友が口を開いた。
「あの子、あれからどうなった?」

「あの子って、どの子だよ」
思わず苦笑交じりに返す。

付き合いが長いだけに、お互いの酸いも甘いも知り尽くしている。
一言に「あの子」と言っても、それが誰を指すかが判然としないことはわかっているはずだ。

盟友は苦笑を返すと、「例えばさ」とつぶやきながら火ばさみで薪を一つ取り上げた。

取り上げられた薪は、表面上は真っ黒に焦げながら、その真の部分が真っ赤に熱を帯びている。
それは、活火山から流れ出る溶岩のようにも見え、人知の及ばない力強さも感じられた。

しかし、しばらくその爆ぜる音を聞いていると、その音に紛れるようにしてなにやら言葉が聞こえてきた。

例えるなら、FMラジオの周波数をダイヤルで少しずつ合わせていくような感覚だった。

周波数が合った時、聞こえてきたのは、とある女性の台詞だった。
薪が周波数を合わせて聴かせてきたというよりも、自分の意識と薪の
周波数が合ったという感覚だ。

その台詞が脳内を流れた刹那、その場面までもがありありと浮かんだ。

今度は俺が適当に薪を挟み、別の燃え盛る薪を盟友に差出した。

今度は盟友が目を見張り、目をつむり、そして静かに目を開けた。

同じ体験をしたことは明らかだった。

私も盟友も、どんな場面のどんな台詞が云々の話はしなかった。
それぞれが胸の内に大切にしまう類のものであると、お互い気付いていたのだ。

数々の台詞については、その場面での、その台詞の重みや尊さを再認識して、薪が語るまで、その場面が自分の記憶の奥底に眠っていたことのショックの方が大きかった。

場面が終わったので、今度は私が適当な薪を火ばさみで挟み、盟友の目の前い差し出した。

すると、どうやら盟友にも私と同じようなことが起こっているようなのだった。

記憶の奥底から再び鮮明によみがえったあの日あの時の場面と台詞。
そのままではまた記憶の奥底へとただただ沈んでしまう。

もちろんそれはそれでいいのだが、やはりせっかくの記憶なので、ただ沈んで堆積されるだけでもあまりに悲しい。

あの日あの時を再びそこに沈めてしまわぬよう、書き記して残すことにした。
おそらく記憶は美化されて、あの日あの時に起きたことを完全には再現できないだろう。

それでも私は書き記す。
それが「あの子」と過ごしたあの日あの時に時間に対する供養のようなものだと思うからだ。

そう心に決めた時、次の薪がまた目の前で爆ぜた…

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