夏の終わりとマンゴーパフェ。
あ、秋が来た。
先週の半ば頃のある日、歩いていてわたしは唐突にはっきりそう思った。
秋来ぬと
目にはさやかに見えねども
風の音にぞ 驚かれぬる
約1000年前、三十六歌仙の1人である藤原敏行はそう歌を詠んだ。
そう、風。風なんだよな、ってしみじみうなづいてしまう。真っ先に秋を意識するのは、視覚でも、気温でも、香りでもなく頬に当たる涼やかなこの風なのだ。
こうして遥か昔の歌が文化として遺っていることで、時を経ても歌を通じて同じような感覚を共有できることを不思議に思う。
まあ、最も昔は今よりもずっと涼しかったのだろうから、わたしが秋の風を感じたときと藤原敏行が感じたときとでは数週間の時期のずれがありそうなんだけれども…。
思えば、今年の夏も凶暴だった。むわっと身体を包む、あの逃れようもない暴力的な暑さ。外に出かけるときは、ペパーミントの香りの冷感スプレーを身体中あちこちに吹きかけ、なんとか暑さをしのいでいた日々。
やっと9月に入っても、「残暑厳しい」なんてものじゃなく、ただの夏の延長だった。その席を秋に譲ることなく、いつまでも我が物顔で居座り続けてる夏。
ところが現代の秋は、カレンダーが変わるや否や、まず視覚からやってくる。
どのお店も、秋の収穫物や豊穣を彷彿とさせるようなオレンジ、紫、黄色、茶色に染まってゆく。ついこないだまで、売り場は「涼」を前面に押し出した爽やかなブルーで満ちていたのに。9月とは名ばかりでまだまだこんなに暑いのにさ、なんて急な手の平返しにちょっと皮肉な気持ちになってしまう。
しかし、まだまだ気温は高くとも、様々な秋の収穫物がメインになった商品を何度も目にしていると、購買意欲をずいずい急き立てられてしまうのも時間の問題だった。
ちゃっかり「秋商戦」に乗ってしまう日々…。
そんな「秋限定」にものの見事に踊らされているうちに、どうやら本物の秋がやってきたようだ。そもそも、秋はある日突然やってきたわけでもなく、ゆるやかに夏と交錯して徐々に気配を強めていたんだろう。
強くはっきり秋を意識した9月24日をわたしの中で秋の始まりの日、とするならば、それは同時に最後の夏の終わりの日でもあるな、とぼんやり思った。
今年、まだ口にしていない何か夏らしいものを食べたい。そんな欲求が、真夏の入道雲のようにむくむく膨らんだ。
そう思いついたとき、ふいにその存在を主張してきたのはマンゴーだった。
それには、理由がある。
わたしにとって夏と海は同義語であり、思えばここ10年くらいは毎年海へ出かけて、潜っていた。海といえば奄美大島が大好きで、あの紺碧の虜になって3年連続訪れた。
そして奄美大島といえば、マンゴー。
訪れた内の1回はキッチン付きのお宿に滞在し、現地のスーパーで買った採れたてのマンゴーを切って食べたのだ。少し小さめだけど、ぎゅっと詰まったマンゴー。南国の果物の王様、マンゴー。
そうか奄美大島、ここは南国だものな、なんて小さな感動を抱きながら口にした濃度の高い甘さはしっかりと舌と心に焼き付いた。
そんなわけでわたしの中では、マンゴーと夏は強く結びついている。
まだ夏が終わると思いたくなかったのは、今年は海に行けなくて、例年に比べて夏を満喫した感じを抱いていなかったからかもしれない。
そんなことを考えているうちに、注文したマンゴーパフェが届いた。鮮やかなオレンジがかった黄色、山吹色の果実がごろごろと乗せられているパフェを前にして頬が緩まないわけがない。
頬張る。夏が溢れだした。
そこにあるのは、まぎれもない夏だった。
さよなら、夏。また来年。
そして来年こそ、どこまでも広がる本物の紺碧を目に焼き付けることができたらいいな。
こうして、マンゴーパフェを胃に収めることでわたしは夏を仕舞った。
そして秋よ、やっと来たんだからさ、お願いだからゆっくりしてってよね。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?