桃を引き寄せた話。
もしもこの世に「引き寄せの法則」なるものが本当に存在するならば、わたしはこの夏、4回も桃を引き寄せてしまった。
1回目は、夫の会社でいただいたお中元のおこぼれ。
「じゃーん、お土産がありまーす!」
そう言って、取り出したのは見事なまでにどっしりした桃。芳香としか表しようのない、魅惑の香りを放っている。
これがわたしが出会った今年初の桃だった。
ご存じの通り、桃は高い。大きいものだと1つあたり400円~500円くらいはする。庶民にとって、そうやすやすと手を出せる果物ではないのだ。
お中元で贈られるような桃なのだから、きっと最上品質の一品だったのだろう、そこに一年ぶりの邂逅という要素も相まって、それはもう極上の甘さだった。
そもそも桃は、この世に溢れるあらゆる果実の中で、最も高貴な甘美さに満ちた果実だと思っている。果物の美味しさを表現するに月並な語彙として、「瑞々しい」なんて言葉があるが、桃はもはや瑞々しい、を超えた先にある。
果実の細胞が含むことのできるぎりぎりまでの果汁をたたえたその実。水分量だけでいったら、西瓜なんかもひけをとらないんだけど、西瓜がさっぱりと爽やかな水分を含むのに対して、桃のそれは果汁の濃度が違う。
あの香り立つ果汁といったら…!!
するんと溶けるどこまでも柔らかな舌触り。うっとりするような上品な甘みが広がったかと思うと瞬く間に喉の奥に滑り落ちてゆく。
さほど、お腹にたまるような果物ではないのにも関わらず、美味しかったなあ…と余韻に浸れてしまう後味。
そんな果実の女王ともいえる存在をぺろりと平らげ、
「また、他の会社の人も桃、贈ってくれないかなあ。」
と厚かましく呟いたその翌週、夫はまたもや
「別の会社さんからも、いただいたよ。」
とまた一つ、立派な桃を鞄に入れて帰宅した。
学校の先生というわたしの仕事柄、「お中元」「お歳暮」とは一切縁がない。そしてこれまでもお中元やお歳暮は、両親、義父母、茶道の先生にと贈る一方であった。
けれど夫の会社という間接的な形ではあるが、もらう側になってみて「お中元」、なんて素敵な文化なんだろう、と小躍りした。
そして二度あることは三度ある、とはよく言ったものだ。またしても立派な桃と縁が…!
たまたま寄った、いつもは行かない産地直送スーパー。
そこで巡り合ってしまった、またもやどっしりとした立派な桃…!少し端が痛みかけているようで、3割引きのシールが煌々とその存在を主張している。しかもラスト1個であった。
…桃の神様がわたしに、微笑んでいる。
多少、一部茶色く変色していた箇所があったものの、そこも含めて美味しくいただく。こちらも先日のいただきものの桃に劣らないくらい甘かった。
もう、天から桃が降って来ることはないだろうな。
スーパーで大特価ででも売っていない限りは、これが今年最後の桃納めになるかもしれないな、なんて思いながら、ちびりちびりと齧った。
そして、つい先日のことである。
義父母から「親戚から桃をいただいたので、送りました。」と連絡が入った。
「桃!桃やって!」
傍にいた夫に伝えたわたしの声は、弾みに弾んでいたに違いない。
桃の神様、微笑みを通り越して、もはやにやにやしている。
「また桃が食べたい。」というわたしのもはや執念に近い想いが、届いたのだろうか。
夫は積極的にキッチンに立つ方である。しかし、わたしの方が果物愛が強いので、必然と果物を剝く係はわたしの方が多い。
家事において「几帳面」「きっちり」という概念をはなからほっぽりだしているわたしだけど、少しでも多く口にしたいという食い意地が、出来るだけ皮に実が残らないように皮をむくという、慎重かつ丁寧な仕事をさせる。
少しでも力加減を間違えると、形が変わってしまいそうなやわやわとした桃を優しく持ち、今年4回目になる皮剥きをする。するんと綺麗に剥けるよう、ゆっくり包丁を滑らせる。
ご褒美が目前に迫っている手間はちっとも手間じゃない。
ガラスの器に盛り、さらに美味しくいただくために冷蔵庫に仕舞う。
剥いて、しばしのお預け、は耐えられないので切り分けたうちの一つだけその場で味わった。
何度食べても幸せな気持ちになれてしまう桃はやっぱり偉大だ。
送られてきた桃は4つ。
最低でもあと3回、ひんやりうっとり甘い瞬間を堪能することができるのか。
冷えた桃、それはすなわち日常のご褒美のてっぺんに位置する存在である。
ああ、ありがとうございます。
夫の会社の取引先の誰か、顔も知らない遠い親戚の人、そして義父母。それから桃の神様。
そして、どうか来年もよろしくお願いいたしますね…!!
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