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31歳、「私、誰の人生もうらやましくないわ。」って心から言えるようになりたい。

先日、また一つ歳を重ねました。
世間的には、もうすっかりいい大人なんだけど、なんだか内面の成長はまだまだな気がする今日この頃。

タイトルの「私、だれの人生もうらやましくないわ」、なんだか聞いたことある言葉だな、って思った人、大正解!

これは、有名コピーライター児島玲子さんの言葉。
20年ほど前パナソニックのシングル家電のキャッチコピーとして生まれ、リメイクされてボディコピーを変えて、家庭のある働く女性をターゲットとして展開された。

児島玲子さん、コピーライターや言葉にまつわる仕事をしている方なら知っている方も多いのかもしれないが、彼女の名前に耳に馴染みがない方も「明日、何着て生きていく?」は聞いたことがあるかもしれない。

この言葉と「earth music  ecolosy」と宮崎あおいちゃんの組み合わせにぴんと来る人、多そうだ。

世には星の数ほどのアパレルブランドがあれど、キャッチコピーとともに思い浮かぶブランドはさほどないと思う。

話は戻るが、数週間前、
「私、誰の人生もうらやましくはないわ。」のキャッチコピーと生まれた背景を知った。
その言葉は、わたしにとってちょっとした衝撃で、ちりちりと小さな痛みを伴って心の片隅に居座り続けた。

誰の、人生も、うらやましくない、か。

みんな、そう感じて生きているんだろうか。

わたしは、正直なところ誰だって羨ましい。

前から読んでいただいている方はご存知の通り、わたしは小学校の先生をしている。

子どもたちの様々な考えを引き出し、深められるような、学ぶことって楽しい、そう子どもたちに思わせるような授業を考えて周りの先生を牽引していく先生がいる。
ーすごいなあ。ああ、なりたい。

子どもたちの心をぐっとつかめるような話ができて、しっかりとした規律のある生徒指導や学級経営をする先生がいる。
ーわたしもわりと頑張ってると思うんだけど、まだまだなんだよなあ。

かといえば、ずば抜けて授業力や生徒指導力があるわけではないけど、職員室の誰とでも朗らかに楽しく話し、親密な関係を結べる先生がいる。
ーいいなあ。わたしはああはなれないなあ。

仕事ばかりでなく、ここ数年書き続けている文章だってそうだ。

なんというか、読後感しばらく余韻に浸るような、圧倒されるような表現や文章に出会うことがある。
お人柄が滲み出るような、軽快でユーモアたっぷりの文章にも。

いいなあ、わたしもこんな風に書けるようになればいいのに。

スキ、フォロー、コメントなどの評価だってそうだ。評価されるために書いているわけじゃない、気にする必要がない、って頭では分かっていても、完全に切り離せないわたしがいる。


念願のnote公式コンテストやnoteの今日のおすすめに選ばれたそのときは、うれしかったんだけど、その喜びもいくらか日が経つと薄れてしまった。

そのくせ、何か投稿した直後に、ぱらぱらっと2.3人のフォロワーさんが減ると、ああ、この文章は受け入れられなかったんだな、なんて小さく傷付くちっぽけな自尊心。

自分の容姿だってそう。
もう何年も自分の顔の造形や肌の色や身長と
共に生きてきて、そこに関して何か思うことは少なくなった。

ただ、スタイルに関してはもうちょっと頑張ったら、どうにかなれるかもって諦めの悪さが顔を出す。


例えばふとした瞬間、写真に撮られてわたしってこんなスタイル、背格好なんだなあ、自分が思っているよりひどくて、がっかりする。

揚げ物やジャンクフードを控えたり、ジムに通ったり、水分を意識してとったり、いろいろやってみるものの、食べることが好きすぎて、いまいち効果がでない。

ああ、あと一体何年あと◯kg、いやせめて◯kg痩せられると自分の理想のプロポーションになれるのになあ、なんて思い続ければいいんだろう。

他にも大小いろいろ悩みの種、エトセトラ。

けれど今挙げたどの分野でも、人に胸がはれるような努力をしていないにも関わらず、軽率に「羨ましい」と焦がれてしまう自分が浅ましくて、嫌悪感。


先月大学時代の先輩が主催した、ことばのイベントに行ったときに、集った方々が温かくて、ついそのつのった思いを吐露してしまった。


良い機会だ、忘れないようもらった言葉をここに書き残しておくことにしよう。

頑張るぞ、って思うのに、誰かと比べる意識も大切かもしれない。けれど、競争していても、隣のレーンを走る人を邪魔することはできないし、結局は自分のレーンを走るしかない。」

ーその方のスポーツトレーナーというお仕事柄、分かりやすい例えだなあ、と思った。
自分のレーンをどう走るかは、自分にしか出来ないことなんだよなあ。


目指す人とどう違うのか、何が違うのか見つけたら?」

ーごもっとも。本気で今のままが嫌なら、分析して行動しなければいけないのに。それをきちんとしていないのは甘ったれだな。


年齢上がると自分の可能性がみえてくるんだよ。良くも悪くも。1つの成し遂げたいこと、上に行くより、横に広げてみるとか。」

ー確かに、「わたしはあそこまでは無理だな」っていう健全な諦めというか、悟りも大事だ。
そして1つの大きな目標だけだと、達成できなくては悲しくなってしまう。関係のあることや、興味のあることに力を注ぐうちに、繋がっていくのかも。


悔しいと思えるうちは続けたらいいんじゃない?射程範囲内だと思っているからこそ悔しい。」


ー全くフィールドの違うオリンピック選手やアイドルに「いいなあ、ああなりたい」なんて微塵も思わないもんな。おこがましくも自分もああなれるかもしれない、と思っているからこその気持ちなのかも。

その中の一人が、今専門で学ばれている分野について、
僕は、生まれ変わっても◯◯を学びますよ」
とおっしゃった。
仮にどんな人生も選べる中でも、生まれ変わっても、って言えるのってすごいなあ。

わたしも、もし生まれ変わったらどうだろう、と考えてみた。

いや、でもやっぱりどんな人生を選べたとしても、先生という仕事を選び、文章を書いている気がする。

それが、わたしらしい気がする。

まあいいなって思っても、他人は他人ですからねー。」

ー確かに。至極当たり前のことなんだけど、
「他人は他人」なんだよなあ。
最近いろんなことにがんじがらめになっていたわたしにはたくさんの言葉がありがたかった。

そう考えたら、わたしが羨ましいのは「人生」ってほどではなくて、誰かの持っている力や環境など、その人のごく一部分なのかもしれない。
そしてわたしのある一部分も誰かにとって羨ましがられるものもあるかもしれない。

それぞれの人生経験、それぞれの立場の人からの言葉は、自分で紡ぐ言葉とはまた少し違っていて、なんだか励ましてもらったようで、帰り道ちょっとだけ泣きそうになった。


そして誕生日当日だった、6月23日新しく買ったネイビーのワンピースを着てみた。

いつもは休みの日しか履かないヒールを履いて、これまた休みの日にしかつけないマスカラでほんのちょっぴり睫毛を上げてみた。

一年のなんてことない、平日の一日だけど、
どうやらわたしは、ただの一日にはしたくなかったらしい。

そして、出張で早めに出れたのをいいことに、そのまま学校に戻らず、まだ太陽の気配がする時間にカフェで読書をした。

ばたばたしているときや、気持ちが落ち着かないときは、心に言葉がさほど残らずに通り過ぎてゆくのだけど、今日はちょっと違った。

冷たいカフェオレとともに、言葉が感情を伴って身体に心に染み込んでいく気がする。

そして、読書がひと段落すると、いつものノートを開きペンを手に取る。

「無理だよどうせ」「もう疲れたよ」の下にまだ伸びゆかんとするたくさんの想いの芽をたくさん見つける。
見失なわないように、ちゃんと言葉にしておく。
心からこぼれて散り散りにならないように、ここに繋ぎとめておく。

今年は、ちゃんともっと行動に移すんだ、わたしが好きでいられるわたしを生きるんだって、小さな自分、だらしない自分、自分に甘い自分とさよならしたがってる。

パワフルに、けれど穏やかに。

どうせ自分は、って気落ちするだけじゃなくて、こんなもんでいっか、って諦めるんじゃなくて、あともう少し、やりたいことやなりたい姿に手を伸ばしていたい。


けれどそれが、しんどいよ、苦しいよ、って感じながらではなくて、穏やかな気持ちで向き合えるようになったらいいな。

作業がひと段落し、お手洗いに立ったとき、心持ち背中を伸ばして、全身鏡に自分を映してみた。

ーうん、悪くない。

胸はって「自分の全てを愛せる」なんてまだまだ言えないけれど、ちょっとだけ、まあこんなわたしでもいいかと思える気がした。


ーそう、私、誰の人生もうらやましくないわ

#エッセイ  





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