奈良の洞川にて、本物レトロに泊まる。
山道を車でくねくねと上ること、数十分。
本当にこんなところに温泉街があるのだろうかと首をかしげていると、急に並ぶぼんやり明るい提灯の明かりに目を奪われた。
今回訪れたのは、奈良県の南東部、奥大和エリアにある天川村に位置する洞川(どろかわ)。
大峯山の麓に広がる秘境として知られており、この地は役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれ、7世紀後半から修験道の聖地として1300年もの歴史がある。
先ほどの山道から嘘のように、急に現れた提灯に照らされた道はどこか幻想的で、「千と千尋の神隠し」の世界観のようだった。
そんな提灯に照らされた道中に、この日宿泊するお宿「紀の国屋甚八」はあった。
旅館の前には、「歓迎」といった白字の達筆の下に〇〇様、〇〇様と本日宿泊する人の名前が横並びになっている。全部で6組という少ない名前の中に、わたしの苗字も見つけ、なんだかにやりとしてしまった。
いろんなホテルや旅館に泊まったことがあるが、このサービスを受けるのは初めてである。
中に足を踏み入れると、「古き良き旅館」という言葉がしっくり来るようなたたずまい。なんだか、「よく来たね。」と迎え入れてくれるおばあちゃんおじいちゃんの家のような雰囲気がある。
建物の歴史を感じるような、趣きのある廊下を通って、本日泊まるお部屋に案内される。
泊まる客室が少ないのもあり、ここのお部屋もここのお部屋も使っていいの?とびっくりするくらい広かった。
訪れたのは10月上旬とはいえ、ここは山の上。とても身体が冷えていたので、こたつがあるのは有難い。
部屋に入ると、
ーああ、やっぱりこの匂い、おばあちゃん家だ。
さらに色濃くそう実感した。
遥か昔、曾祖母が住んでいた田舎の大きな家の匂い。
住む人がいなくなってもう取り壊されてしまったけれど、記憶の中にある祖父母の家の匂い。どんな匂いかと問われれば、答えに窮するけれど、嗅げばああこの匂いだと実感する不思議な香り。
古い木の香りだろうか、それとも歴史を重ねた家はそこの生活の匂いが染み付いてゆくのかもしれない。
ふと、考える。
今の子どもたちがイメージする、おばあちゃんおじいちゃんの家もこんな古い木造建築なんだろうか。わたしの両親世代が若いときに建てた家は、もちろん昔ながらの木造建築ではない。わたしの両親世代は、今の子どもたちにとっての祖父母と世代が重なっている。
そうなると、昔は存在した「おばあちゃん、おじいちゃんの家」といった一種のノスタルジーをはらんだ記憶のイメージは、あと何十年後かすると、消えてゆくものなのかもしれない。
この旅館、歴史のある旅館なんだろうなあ、と思っていたが創業300年らしい。通りで、と納得する。
最近は、喫茶店だとか、着物の柄だとか、「レトロ」という言葉を用いて、少し前の時代のものが、一部脚光を浴びている。
しかしその中には、レトロ、な雰囲気に寄せて最近作られたものもある。
しかし、ここに息づくのは、まぎれもない本物の「レトロ」で満ちている。
年数を経て、色濃くなった木の梁や柱。
昔おばあちゃんの家で使っていたような柄の布団。
そして既に先ほど触れた、古い家の匂い。
なんだか、懐かしいようなあったかいような気持ちになるのは、遠い記憶が呼び覚まされるからだろうか。それとも、古来から親しんできた「和」に日本人として刷り込まれたDNAが反応しているんだろうか。
しかし、そんな本物「レトロ」には、少しの不便さもはらんでいた。
客室である和室は広いが、洗面台やお手洗いはない。廊下でのある共用の洗面台やお手洗いを使う仕様になっている。
これまで泊まってきたところは、旅館とはいっても、広い脱衣所の洗面台のそばにドライヤーがあったり、部屋に当たり前のように備品としてドライヤーは置いてあったりした。
それにすっかり慣れていたので、廊下にある共通洗面台に備え付けられていたドライヤーに、ここで乾かすの?と少し驚いた。
夜にお手洗いに行きたくなっても、少し歩かなければいけないのは少し面倒だなあなんて思ったが、すぐに慣れた。
「便利」はあったら楽だけれど、なくったって案外困るもんじゃないんだな、と思う。
お宿の雰囲気だけでなく、お料理もすごく良かった。どれも丹精に作られているのが、伝わってくるような美味しさだった。
晩御飯の中で特に印象的だったのは、イワナのお刺身。
わたしは、定期的に身体が欲してしまうくらい、お刺身が大好物である。
旅先で地のものの珍しいお魚を食べたことは結構あるが、川魚をお刺身で食べるのは初めて。川魚=なんとなく生臭い、みたいなイメージを持っていたが、全くそんなことはなかった。
例えていうなら、鯛の味の輪郭を濃くしたような味で、身が引き締まっていてむっちりとした弾力がある。本当に美味しくて3切れ食べると、お椀一杯の白米が消えていた。
鹿肉のローストも、牡丹鍋も、鮎の塩焼き、地元で獲れた食材ばっかりである。
会席料理の先付から一品ずつ出てくるお料理も、次はどんなものだろう、とメニュー表を眺めながら、わくわくと期待するのは楽しい。
が、こうして一度に大小様々な器がと並べられて「うわあ、次どれ食べよう。」とお箸が泳いでしまうのも、また一興。
飲んだお酒は、奈良の地酒の「八咫烏(やたがらす)」。辛口だったので、ぐいぐいとたくさん飲むことはできなかったが、キレがあり、澄んだいい香りでどのお料理ともよく合った。
わたしが日本酒を嗜むようになったのは、ここ数年であり、まだまだ日本酒好きを名乗れるまでには至っていない。こうやっていろんな地域へ赴き、その土地のお酒を知っていくのは大人の贅沢な遊びだと思う。
決められた時間以外は、24時間自由に貸し切りに出来る温泉も魅力的だった。決して広くはないし、先ほど書いたように浴室の近くに洗面台があるわけでもないからちょっと不便ではあるけれど、少し硫黄の匂いがする雰囲気のある温泉でとても良かった。
旅行中珍しく、翌日は朝からしとしとと雨。
近くには、龍神様を祀る泉龍寺があるんだもの。まあ、雨の降ることも多いんだろうな、なんて思っていたのもあって、残念には思わなかった。
傘を片手に、美味しいお蕎麦屋さんに立ち寄ったり、鍾乳洞へ行ったり、とぶらりと散策して、洞川を満喫する。
手作り豆腐と柿の葉寿司がついてくる、お得感。
観光地、という感じも強くない、静かで落ち着いた雰囲気のこの場所。
そして美味しいお料理と温泉、こたつのある和室の広いお部屋。そしてどこか町全体に漂うノスタルジックさ。
もしもわたしが昔の文豪であったなら、今も昔も別荘地で有名な軽井沢もいいけれど、ここを常宿とし原稿用紙に向かっていただろう。
…いや、文豪じゃなくても、絶賛積読中の本10冊ほどと、わたしの執筆の相棒であるLet‘s noteのパソコンを抱えて2週間くらい籠りたいなあ…。
#旅エッセイ #洞川温泉 #旅レポート
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