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「ONDO♨︎」最終話(創作大賞2024参加作品)

走馬灯でも見る様に、昇太の頭の中はグルグルとしていた。これまでの状況を理解しているが、理解しないようにする気持ちが掻き回している。

グルグル。

向こうから。向こうがどっちなのかハッキリ分からないけど向こうから。知ってる足音が聞こえてきた……気がする。
それはこっちに向かって。だんだん、近くなって。隣で、止まった。

「昇太」知ってる声が呼ぶ。
見なくても誰なのか分かった。

「悪いな。こんな銭湯残しちまって」
「何だよそれ…」

本当にいま、隣にいるのか。記憶、意識の中なのか。グルグルとしていてハッキリ分からない。分からないが、その空間に身を委ねていた。
「俺が死んだら、ここは迷わず捨てろ。此処を売って、お前と南が少しは楽に生きれるように」
「……兄貴は?兄貴はどうすんだよ?」
「あいつは、戻ってこなかった」
「戻ってこなかった…? 待つのをやめたの…?」
「もう、戻って来る事はないだろうから…」
また足音がした。遠ざかっていく。遠ざかっていくソコへ聞こえるように-

「帰って来るよ絶対…だから俺は…」

--誰かの携帯電話が鳴った。

昇太がその音で、現実に戻った。
着信音が鳴り続いている。「こんな時にすみませんけど…聞こえてますよね…早く取っていただけますか…」着信音も、気まずそうにしているようだ。

「…悪い、取るぞ」光が言った。

この場に意識を戻した昇太が、ふと目をやると南は時江の腕の中で泣いているのか身体が揺れている。これが現実か…。夢かなんかだったらまだよかった。昇太の身体は鉛が乗ったように重く感じた。少し離れたとこで光の声が聞こえている。

「あ、わかりました。どうぞ。はい、入ってきてもらえますか」

そう言うと、今度は電話越しではないだろう会話がうっすらと聞こえてくる。
入り口に目をやると、光に招かれ、ふくよかな中年男性が入ってきた。

「すみませんね、小汚い所で。どうぞ入ってください」
男は記憶を辿るように、どこか懐かしむように辺りを見渡し入ってきた。…知り合いか?いや、知らない。そして、その後に清水実が入ってきた。思わず昇太の口が開いた。

「清水…さん…?」

そう声が出ているのか、出てないのか分からない。目の前の清水実は俯いている。

「紹介するよ。清水春彦さんだ」

清水晴彦という男の挨拶を無視して、昇太が清水実に問う。
「え、どういうこと……?」

清水実は少し顔をあげて、
「…すみません」とだけ小さく答えた。
「…すみませんって?」
「実さんのお父さんは、雑誌やネットニュースを扱ってる会社の社長さん。で、実さんはそこの従業員。あ、従業員って失礼か…」
光が答えた。

「ちょっと待って…全然話がわからない」
「つまりだな…」
「清水さんに聞いてんだよ」
「此処をマンションにするって話に乗ってくれたのが清水さんで-」
「清水さんに聞いてるって言ってんだろ!!」
昇太が語気強く言うが、光は握った手綱を離さないでいる。
「-それを記事にしようってやってくれているのが娘さんの実さんだ」
昇太の温度を超えて光が言い切る。
久々に声を荒げたのか、喉に手をやり咳払いをしている。

光の説明は、宝湯のなかの時間を止めてしまったようだった。静まり返る宝湯の待合い。
「黙っていてすみません…」
清水実がまた小さく声を発した。

昇太は押し寄せてくるこの現実に飲み込まれそうになりながら、息継ぎをするかのように天を仰ぎ大きく一度息を吸った。仰いだまま、しばらく天井を眺めた。感情の波が荒れている。ザブン、ザブンと荒れている。辛うじて打ち上げられた先の岩に掴まっている…今はそんな心持ちだ。嫌な想像が少し先の未来に見え隠れする。

「あの…こういう事……」

悪い予想はだいたい当たってくる。

「兄貴の事とか…知っていて…?」

いっそ聞きたくはないが、それでも聞かずにはいられなかった。

実が反応しない。いや、否定をしないという反応か。どうして兄貴側にいるのか…どんな気持ちで取材をしていたのか…此処が無くなると分かって?…こっちはこれからも続けていこうとやっているのに…そんな風には感じなかった…どんな気持ちで聞いてたんですか…

昇太の中、声に出来ない声で溢れている。
「そうなんですか。そうなんですね…」

そんな溢れる気持ちを二言で押し殺した。
この状況にしびれを切らしたかの様、清水晴彦が昇太の前に進んだ。

「清水です」
その声の先に出された名刺がある。受け取る事なく、実だけを見ている昇太。

「昇太…」
まるで駄々をこねる弟を宥めるように光が言った。こんな時ばかりは兄貴らしい。
「私。昔ね、先代の旦那さんに取材してたことがあったんです」
そう清水晴彦が話し出すと、時江の表情がゆっくり点を結んでいくように変わっていった。
「あんた…さ……あの時の……」
時江が言うが、晴彦はピンと来ていない様子だ。 「知り合いですか?」光が間に入る。

「高木ブー!?ちょっと、あんたが何の用よ、高木ブー!」

高木ブーではないが、高木ブーで、晴彦の記憶も蘇った。

「君は、あの時の…!!」

ふたりの時間が繋がる。
「なんなのよ、あんたが何しに来たのよ!?」
時江が、勢いよく晴彦に詰め寄った。
「落ちついてよ、時江さん!なにやってんの!?」光が慌ててまた二人の間に入り、感情的になった時江を引き離した。晴彦も鼻を膨らませ、まるであの時に戻ったような面持ちでいる。
光が、晴彦にへりくだる様にして時江の無礼を謝った。冷静さを取り戻し晴彦が話を続けた。

「私ね。あなた達のお父さんにこっぴどく叱られたことがありました」
「それが何だってのよ!?」

それを遮る時江。
「時江さん、いい加減にしてくださいよ」
時江が、泥棒かなにかを追い払う番犬の如く、吠え立てる。それを宥める様にして晴彦が続ける-

「いや、感謝しているんですよ。今の会社があるのは、その悔しさがあったからだと思っているので…」
「だから、なにしに来たかって聞いてんのよ!」
時江の火が消えることなく燃えている。

「なんの縁か、光さんと出会って…こういう事だと話を聞いて…」
「こういう事ってなんですか」昇太が反応した。癇に触れたのが分かる。
「だから…」すかさず、光がマッチアップする。
「下火になってるこの銭湯を健気に続けている兄妹がいるって。なんとかしてほしいって頼んだんだよ、俺が…!!」
「光君、やめてよ。そんな言い方」
時江の声は届いているのだろうか。兄弟は視線こそ合っているが、お互いに家族を見る目ではない。
光から視線を切った。切って、申し訳ないような顔にして、妹を見た。
「…悪いな、南」
そう言って、晴彦の隣に戻る光。

重く切ない表情の南。いま、なにを思うのか-
「ここを記事にさせてもらうのは私の会社のため。日本特有の文化であり、歴史が此処にはありますから。ちゃんと記事にしてから…ね」「ありがたいことです」
神妙な面持ちで光が答えた。いまだ、俯いたままの実。清水晴彦は続けた-

「そして、此処を買い取る事が、少しでも貴方達のためになるならと…」
「…俺たちのため?」
「昇太、お前は頑張った。心からそう思ってる。実さんから少し記事も読ませてもらった。俺にわからないこと沢山書かれてた。今まで任せっきりでごめんな。これからはさ…」
「帰れ」
「昇太…」
「帰れって言ってんだよ!」
「昇太。話を聞いてくれ」
「話にならないって言ってんだよ!」
兄を突き離す弟。この話は、この兄弟二人に懸かっている。そんな空気で周囲が押し黙った。
「兄貴、あんた本当相変わらずだな…。父さん、母さんの何回忌すら帰って来た事ない。来たと思ったら、なんだよこれ。何なんだよ…。またどっかから逃げ出してきたのか?また傷害か?また薬にでも手出して、その金にすんのか?」

たちまち気まずい表情の光。

「またって何だよ、またって…」
歯切れも嘘みたいに悪くなる。分かりやすく、またこの弱みの多さがもはや光らしさでもあった。
「また、だろ!?自分から手出しては、だめになって。そうやって逃げてきたんだろ今までずっと」
「お前がなにを知ってんだよ!?」
「知ってるよ…!?知りたくないことも知るの家族って…」
いつの何の事を昇太は言っているのか、本当に分からなかった。
光というこの男に(過去)というものは残らないのか。捨てに捨て去って生きてきたのかもしれない。あの日を境に-
「… 昔の話ですかね?」
振り返り、後ろにいる晴彦に自分の話を疑問形で返した。晴彦の表情は曇る。当然だ、スクープなども扱う会社なのだから。
昇太が続ける-

「そんなんで…俺ら巻き込むのはやめてくれよ」
「なあ、昇太、俺なりに考えてきたんだよ。ここを売って、みんなで幸せになろう」
「ここを売ってどうすんの?」
「マンションを建てる。それで、その収入で俺らやっていけるから。もう大丈夫だから」
「南」昇太が、妹の南に振った。
「お前はそれでいいって言ってるんじゃないよな?」
南が答えないでいる。すぐに答えてほしい昇太の顔が曇っていく。光がしめしめと見ているようで辛い。どうして当たり前に味方でいてくれないのか、ずっと一緒にやって来ただろ…そんな気持ちでため息を吐いた。

「…お兄ちゃんが」
昇太が視線を切ろうとした時、南が話し出した。ここに、二人いる兄が自分の方かと反応している。

「お兄ちゃんが此処を守ろうとして、お兄ちゃんの人生がただそれだけになっていくのはもっと辛い。それは…ずっと考えてきたこと」

お兄ちゃん、は昇太の方に掛かっていたが、

「お前…いい加減にしろよ」

昇太の待った答えでは、まるで無かった。

「昇太君」

苛立つ昇太を時江が心配する。その声が昇太の中の届くべきところに届いていないのが分かる。昇太の中はもう、いっぱいなのだ。

南が続けた-
「お兄ちゃんが、光お兄ちゃんをずっと待っていたことも私にはわかるから…」
昇太の表情が変わる。昇太の(いっぱい)の中を、くぐって潜って届いたのが分かる。
ああ、やっぱりそうなんだ…そんな気持ちもあってずっとずっとやってきたんだな。家族だな、兄弟だな、あったかいな。歪み合う兄弟を見てきた時江のなかで救いが生まれた。

それでも-
「此処を手放して…お兄ちゃんがいま一人で抱えてしまってるもの降ろして……光お兄ちゃんが戻って来て。それじゃだめ…?」

南は、此処という宝湯を手放す事を肯定してみせたが、昇太を想うが故でその言葉の意味を軽く受け止めて言ったのではない。当然それは昇太にも伝わっているようだが-

やはりそれは昇太の望む形ではないのも分かり酷でしかなかった。時江の心の中も、もう(いっぱい)だった。その時-

ガラガラガラ

硝子戸が開いた。ガラガラガラといつもの音で開く。誰かの話声も聞こえる。まるでこの硝子戸が仲間を連れてきたかのようだった。
そこには、茂、一平、茜、宗男の姿がある。
「あれ、なに、取り込み中?」
何も知らない茂が、いつもの調子で入って来た。

「…なに。皆、神妙な顔して」
事情を何も知らない者の、日常的な姿が張り詰め冷たくなった空気を温めていくようだった。
時江が、どう仕様もない表情で常連たちに助けを求めるよう駆け寄った。
「光君が……」
「……え?」

複数人いる中から、茂と一平が光を認識した。
「光君……」

一度、繕い直した顔で光が前に出た。

「どうも皆さん。いつも兄弟がお世話になってます」
「光君…帰ってきたんだね」
そう言ったのは一平だった。

「はい」
「そうか。よかった。やっとじゃないか。おかえり……」光のもとへ一平と茂が駆け寄った。

「あ、いやでも…違うんですよ…」
「え?」

ガラガラガラ-
光が言いかけると、また硝子戸が開いた。
イラっとした表情を滲ませる光。望月とジェイムスの姿がある。望月がすぐに光の姿を捉えた。
「…光君!?」
光も望月を見て、認識した様子だ。ばつが悪そうな光。

思い切って車のアクセルを踏み込むように、張りのある大きな声でもって再会を遮り、走った。「此処を手放そうと思い、帰ってきました」

時江が苦しそうに目を瞑った。

言葉の意味は分かるが、分からなかった茂たち。状況を探した。
「えっと…どういう事……」
答えを求めたその声は、昇太に向かった。向かったが昇太は答えられなかった。

「南ちゃん?」

南にも向かうが、同じだった。
見兼ねた光が間に入っていった。「残念ですけど、此処を……」
芝居掛かった顔で、あざとく言い切らずにニュアンスを残して言った。

茂が、隣にいる南にもう一度聞いた。
「どういうこと、南ちゃん?」
「南は、わかってくれています」光が言う。
「本当なの、南ちゃん?」茂が南に聞くが、答えてはくれない。昇太にも視線を送るが合わない。自分たちが入り込めないのが分かった。

「此処は、このオンボロ銭湯は、昇太が何とか何とかやってきましたが無理なんです。一つ故障が出れば売り上げは飛んで、兄妹達は生活を切り詰めていくんです。案の定、今、ボイラーが壊れています」
常連たちは時江に視線を送った。時江が俯きながら、うなづいた。

「これの繰り返しなんですよ。だから、此処を手放さないと兄妹は一生幸せになれないんですよ。だから俺が、宝湯を終わりにしにきました」
光が背広の内ポケットから行政関連であろう、お堅そうな文字が詰まった用紙を取り出す。
常連客にも言い聞かせるように話した。

「俺たち兄弟は、三人で一つの決断しか出来ない。これが国が決めたルール。銭湯を営むウチの兄弟がする遺産相続のルール。…わかるな、昇太?」
そう言って、用紙を昇太に突き出した。廃業届けと書いてある。

「お前一人が続けたいと思っても出来るもんじゃない」
光の目に、今にも泣き出しそうな南の顔が映った。

「南見ろよ。……泣いてるじゃないか」
昇太と南の目が合った。その瞬間、南の目に溜まっていたものがスーッと流れていった。

「お前、今までちゃんと南を見てこれたのか。お前の独りよがりになっていたんじゃないのか?」
「そんなこと…… 」否定しようとするが、
「あるのか……?」自分に問いかけていた。
なぜだろう… 自分なりに一生懸命やってきたつもりだ。だけど、ここに来てそれは不安に形を変えようとしていた。
こんな兄に何も言い返せやしない。そして、法は兄の味方となる。平等をつくるものだろうが融通が効かない。凄く一方的に感じた。

「待って…。私はこんなのは認めない」

時江が待ったを掛ける。が、それは既に弱々しい。ただ、幸雄の分も君子の分も役割があるように感じていた。いい答えなんて分からないけど、でも何度も余計な真似をして、少しでも考えて、答えを出してもらいたかった。
「そんな事くらいしか出来ないよ…ごめんね旦那さん、女将さん……」
「ちょっと黙っててもらえますか。いま家族の話をしてるんで」
「わかってる。だけど、このままじゃいやだよ。昇太君も南ちゃんも、まだ言い合えてない気がする…」
「じゃあさ、時江さん。あなたにこの宝湯の借金、全て背負えますか?このうちの未来背負えますか?」
光の言葉は重かった。
時江だけではなく、周りもウッと息が止まりそうだった。
これだけ家族の話に首をツッコむなら、これだけのことを言えば本気で考えだす。黙らすにはこれしかないと光は分かって言っている。
「考えなくていいですよ。背負えるわけないでしょ? 綺麗事はやめましょう。優しさってそういうことじゃないんですよ」
光がこの場を制した。

「南、ここにサインをしてくれ。頼む」

光にそう言われた南の表情は、これまでより迷いがなく決意が窺えるようだった。
昇太のためを思ってか。それはもう引かないであろう光を分かってでもあるのか。これ以上、周りを巻き込みたくない思いもあるのか-

そんなことを思いながら、清水実が南を見つめていた。
「南さん。…少し待ってください」
そして、声を上げた。

「昇太さん。ちゃんと話さなくていいんですか」
「……何を」
昇太もギリギリかすれた声が出た。

「南さんにです。昇太さんと南さんは思いあっているはずなのに、どこかすれ違ってしまっている」
「実さん、ちょっとさ…」
煙ったい表情で光が寄って来たが、清水実はやめなかった。

「昇太さん、私に言ってくれました。ジャーナリズムですか。自分を信じて素直に伝えればいいって。それは昇太さんも同じです」
「お前は口を挟むな!」
清水晴彦が、強い口調で言った。娘というより、部下を叱る様だった。

「挟みます。お父さんと光さんが持ちかけた話で、昇太さんと南さんが(本当に)すれ違っていってしまうのは凄く嫌だから」
「お前は、何しに来てるのか分かってるのか?」
「分かってます。此処を潰して、買い取って。記事を書かせて小金まで儲けようとしてます」
「…な!?……誰に口を利いてるんだ!!!」

もしかしたら、記者清水実にとって初めての(反抗)だったのかもしれない。晴彦の反応が、そう伝えているようだった。
清水実は自分自身のハードルを飛び越え振り絞っている。

「二人はこの若さで十年…二十年と…二人三脚で…親御さんが情熱を注いできた、この銭湯を守ってきたんです。続けてきたんです。そんな純粋な場所なんです。それを-」

「もうつまらないよ……」

清水実が熱意をもって訴えかけていた。
だが、晴彦のボソッと吐いた言葉は、実の火を消した。

「お前のその神経が、つまらないんだよ」

清水実が押し黙った-
父であり、上司、社長である父親はこうして娘から自信を奪ってきた。「つまらない」「お前の神経がわからない」これまで何度も浴びせた。この言葉を聞くと、身体から力や熱が消えていく感覚になる。悪魔に魂を売った者と、そうでない者のこれも(すれ違い)なのかもしれない。
「いい子ぶるんじゃないよ。いいか、世間は人の不幸を待ってるんだよ。まだわからないか?こんな人情劇をズバッと切って記事にしろって言ってるんだよ!」

いつも、こうして負けて、
「わかりました」「直します」「直させます」そう言って背中を向けデスクに戻っていった。
情けない娘の背中だと思われているだろう-
自信のようなものはとっくに、カラカラに枯れた。

だけど、
「清水さんが物事をどう見て、どう感じて、どう書くのか。それでいいんじゃないですか。それはきっと、読んだひとの心を温めてますよ」


うれしかったな…


「清水さんの取材受けてると、心が乗ってきます。ああ、色々あったけど。生きてきたなーって前向きにさせてくれます」


誰かの力になれる喜びが沁みた…
カラカラに枯れた場所に-


清水実は昇太と南の言葉を思い出していた。
自分の心の中にまだ力が残っているのが分かった。いつもなら負けていたところで、まだ力が残っている。小さな自信。小さな自信は今の清水実にとって大きな自信になっていた。私は変わっている。まだ変わっていけるし、強くなれる。息を吸えた。正解には息を吸えた感覚があった。決して清々しい空気ではないが、それは闘う者の呼吸だった。

「私は、しない」

強い声だった。
目の前にいる兄妹二人の人生を、不幸に変える記事にはしない。そう訴えた。
今まで俯いてきた清水実は過去に消える-

「お父さんが言う様な、そんな記事にはしない。二人は、この世の中をギュッと手を繋いでやってきたんです。親御さんが大切にしてきた銭湯を二人で繋いできたんです。お金儲けにしないでください!」
光の出した廃業届けを、自分のジャーナリズムを信じて破った。

「この紙、破ったって。どうしようもないでしょうが…」光が呆れた顔で言った。

「光さんは、二人の幸せが何なのか分かるんですか。ずっと離れていた光さんが昇太さんの幸せ、南さんの幸せを分かるんですか?」
「わかりますね。此処があるから弟と妹に苦労をかけてしまっている」
「わかっていないと思います」
家族でもない、取材した程度の人間にそれを言われたのはさすがに腹が立った。
「…何が?」
「私はたった一度の取材しかしていないけれど分かっています。二人が此処を手放したくないことくらいは」
清水実はその勢いのまま昇太を見つめた。
「昇太さん、どうなんでしょうか。昇太さんが抱えてるものすべて、南さんにしっかり話して、それが二人にとってはどれだけの問題なのかを話さないと。二人でやってきたんじゃないですか」

清水実は、さっきまでの自分のように俯いた南の前に立った。
「それなのにわからない事があるって……南さんはそれが、苦しいんだよね…」
南と視線を合わせて、そう聞いた。

「……苦しいです」
南がようやく答え、実がそれを受け止めた。

「昇太さんの優しさが…苦しくなる時もあるんです」
「南……」

昇太はショックだった。南に対してではなく、自分自身に。光に言われた自分本位や、南のことをちゃんと見てこれたのか。そんな言葉が当てはまってしまった。南がたまらずその場を立った-

「南ちゃん!」
時江がそれを追うが、昇太の事が気になり足が止まってしまう。呆然としている昇太。そこにゆっくり近づく優しい足音が聞こえた。

「坊ちゃん、たまにはわがままも言うのが家族だから」声の方に向くと、望月がいた。
「兄妹の前に、もっと大きいのは家族だろ?話してやんなきゃ」

望月は一度、清水実をとって続けた-
「二人で、支えあってきたんだから」

足を止めていた時江も続いた。
「お父ちゃんお母ちゃんは、お父ちゃんお母ちゃんで、昇太君は昇太君なの。一人で何人も抱えなくたっていいんだよ」そう言って、南を追った。

「南さんは、昇太さんの子供じゃないですよ。兄妹で、家族です」

そう言ったのは茜だった。一平が茜を気にかけるように、昇太も南を気にかけてきた。だからこそ茜には昇太のそこには少しの違和感があった。親子ではない。もっともっと兄姉らしくていい。という思いがあった。

「ババンバ、バンバンバ〜ン…!!」
ジェイムスのおっきな声が響いた。

「宝湯ハ、ショタさん、南サン、ノ、心ノ、オンド。ア〜、イイ湯、ダナ~」

こんなむずかしい時は、ジェイムスのカタコトした日本語が沁みてくる。皆が笑みをこぼした。

「俺は認めない」
そう言って、待合いの空気を戻したのは光だった。

「こうやって、生温い感じでダラダラダラ人生下っていくんだ」

光がそう言い切る前に、望月が昇太に声を掛けた。「行ってきな、坊ちゃん。南ちゃんのとこ」

南を追った時江が、男湯の暖簾から顔を出した。

「はい」
昇太が、時江に連れられ南のもとへ向かう。

「昇太ー!!」
光が呼び止めるが、空振りした。光も昇太を追った-

ぐっと気持ちを抑えて、その場に踏みとどまる常連客たち。ここからは家族、兄妹の時間だ。

浴場♨︎
俯いたままの南が浴槽のタイルに座っている。時江が入り口で、昇太と入れ代わった。昇太の背中をやさしく撫でて代わった-

「南……」

昇太の後ろに光も姿を現す。
時江が浴場を静かに去る。兄妹三人にこの運命を託す。

昇太がゆっくり南に近付いて隣に腰をかけた。
「兄貴が言ってんのも間違いばかりじゃない。ごめんな。けど、お前に贅沢もさせられなかった分は、この銭湯に注いできたつもりだ」
南が小さく首を横に振る。
「皆さんのおかげで、うちは余計な修理もない。古いからどうしても出る修理の度に金は飛ぶけど。けどその度に、仲本さんが丈夫に直していってくれていた。今は、その息子さんもしっかり見てくれている」


ボイラー室♨︎
浴場に扉一枚で繋がっているボイラー室。工具が散らばっている。現場の試行錯誤、必死さが伝わる。煤(スス)まみれの仲本修利がいる。工具箱のもとに戻ると、浴場の声に気付き、耳を傾けていた。


浴場♨︎
「親父の代からあった借金は1,500万くらいあって。残ってるのは…あと800万くらい。大丈夫って言っといて……まあ、まだ結構あるんだな……」
「そこにボイラーの修理代か。いや、取り換えるってなったらもっと大変だ…」
光がダメ出しで割って入った。

「でも…この借金は、親父が最後の最後まで修理や工事で出来たものだってわかった。親父、残したかったんだと思う……兄貴に」

「は?」
調子のいい事言うな。そんな顔を見せる光。
「俺には、此処を手放せって言ってから…」
光と昇太の目が合った。
光は少し意外そうな顔をしていたが、邪魔くさそうに視線を切った。

「うちみたいな少さな銭湯だと借金はちょっとずつしか減らないんだけど…。だけど、俺も残したいと思ったからさ。此処は、俺たち家族が生きてきた場所だから」

「どうしようもない経営者だな、お前は」

数字というものは、いつも現実的なことを訴えてくるようで苦手だ。


待合い♨︎
静かな宝湯。常連客たちは皆、男湯から僅かに聞こえてくる声に耳を澄ませていた。


浴場♨︎
「…でもまぁ、これでボイラーが壊れたってなったら、さすがに…どうなのかな…」
昇太の表情に不安がこぼれた。銭湯を営む上で機材など故障のタイミングが悪く重なっていくと命取りになる。それほどの大金が動く。

「これから銭湯はもっと下火になっていく。わかるだろ昇太。水道代くらいが減免って、なあ?この国の制度じゃ、このオンボロ銭湯はやっていけない」
「なにが国の文化だよ。国の文化はヒィヒィだっつうの……」
昇太のグチがこぼれた。
「でもさ、親父が最後まで懸けたんだ。この銭湯を。もう無理だなんて簡単には決められないだろ……」
どこか弱音が混じっていた。それが人間らしかった。やっと、弟の背中が小さく見えた。

「そんなお金のことも…どうして言ってくれなかったの」
南がようやく口を開いた。
それにまた一生懸命応えようとする昇太。
「このうちの、なんだかんだの日常を、失いたくなかったから」
また綺麗事かよ。そんな顔をしてそっぽ向く光。
「私、知らないで馬鹿みたいじゃん」

「そんな事ない」
「そんな事ある」

南が昇太と向き合った。

「だって、うちの事だもん。お兄ちゃんが今抱えてるもの、(一緒)になって持ってあげられるのは私だけじゃん」
真っ直ぐな瞳で南は昇太を見つめた。
(一緒)から外された光が、どこか寂しそうな表情を見せた。

「…ごめんね」
そう謝ったのは南の方だった。

「なんでお前が謝るんだよ」
「お兄ちゃん…お兄ちゃんの人生は、今まで幸せだった…?」
「え?」
昇太は意外な気持ちになっていた。自分が幸せなのか。言葉にする事はあったが、ちゃんと向き合ったことは無かった気がした。
「高校にも行けず、一人でなにから何まで背負ってきて…幸せだったかな…」
静かな浴場の中、妹に問いかけられた「幸せ」。昇太はその言葉と向き合った-

これから出る昇太の答えに、光や、待合いにいる常連客、清水たち。ボイラー室の仲本までもが手を止め、耳を傾けていた。

温度計が示す数字に頼るだけではなく、自分の体でも温度を感じてきたように、この「現実」の中で「幸せ」を考えた。

蛇口に溜まった水滴が、我慢し切れずにポチャリと音を立て、落ちた。

「俺は幸せだーーーーー………!!!」

浴場から、待合いまで大きく広く響く昇太の声。それを噛みしめる面々。人が、幸せだと言える事はこんなにも嬉しく、美しいものか。
あちらこちらで、自然と涙が溢れていた。

「南や、いま側にいてくれる人達のおかげで。親父も、母ちゃんも大変だったなって思うんだよ。だけど、不幸せそうには見えなかったんだよな、いっつも。それが何でか今はわかる」
「馬鹿だな、お兄ちゃんは…」
そう言って、南が共感した。

ふたりの元に、光が近づいた-
「昇太。ボイラーが直らなかったら……手放すってことでいいんだよな?」
現実の話に戻した。

「昇太ーーー!!」「昇太君ーーー!!」
待合いから複数の声が飛んできた。
その一つ一つの声を、昇太と南は大事に受け取っていた。

「いいんだよな?」
再び、光が詰めた。

「…兄貴、ちゃんと覚えてるか?時江さんの事」
「いいのかって、聞いてんだよ…」

昇太は、答えずに話を続けた。
「母ちゃんが倒れた時、ずっと代わりをしてくれたのが時江さんだよ。落ち込んだ親父の背中をずっと押してくれたのが時江さんだ」
「だろうな。わかってるよ」
待合いでは、それを知る常連たちが時江に近付き静かに讃えるようにした。
「望月さんは?」
「昇太、話を本題に戻せ」
「兄貴の起こした傷害事件、罪かぶった望月さん」
「昇太…!!」
「うちの父ちゃん母ちゃんがした、小さな恩なんかのために」

待合いから、望月の声が飛んできた。
「それは、俺が勝手にやったことだから…!」
待合いが男望月を羨望の眼差しで見つめた。
「それでもウチに通い続けてくれた望月さん。戻って来ない兄貴」
「望月さんには悪い事したよ…」
兄弟の会話は続いていく-

待合いは、まるで合格発表でも待つかの様だ。
昇太によって語られる出来事をそれぞれが思い返しながらこれまで歩んだ時間をあたたかく感じていた。

「茂さんは?」

茂の名前が呼び上げられた。
注目を浴びた茂は、つい立ち上がってしまった。立ち上がり、男湯の暖簾の前で昇太や南を感じた。そんな茂をその背中を、みんながやさしく見つめた。
「茂さんのことは分かるか?」
「わかるよ。てか、いつまで続くんだよこの話」
「分かるなら言ってみてくれよ」
「だから……色んなことしてくれた人だろ茂さんも!!」

「違う。茂さんは特に無いんだ」

待合いにいる全員が、一斉に膝から崩れ落ちた。ボイラー室の扉も開いてズッコケた仲本が浴場に出て来てしまう。

「嘘でしょ…?」

時江が茂を見てそう言った。

「え…え……俺……」

茂も申し訳ない気持ちになって、慌てて記憶を探した。

「引っかけじゃねーかよ!」

光が腹を立てている。
待合いは全員が総崩れで、茂を見て笑った。

「何カ、ネーノカヨ?オー、ドリフ、ミタイダッタヨー!?」ジェイムスは生のズッコケを見て興奮気味に言った。

一人とり残された気分の茂は、考えるのをやめて、浴場へ直接聞いた。
「昇太ー、何か、なかったかな……!?」
茂の、か細くも大きな声が浴場にいる昇太に届く。
「あ………」
慌てる昇太。悪気はまったく無かった。しかし、自分が茂に対して意地悪なことをしてしまったんだと、ようやく気付く。
昇太の返事がすぐに無いため、待合いの茂は帰宅の態勢に入った。また、直接聞いた自分を恥じて、「よいお年を……」と哀しそうにみんなに挨拶している。昇太が慌てて浴場から待合いへ向かった-

「茂さん、ちょっと待ってー…!!」昇太が駆け込んできた。
「茂さん。俺たちにとっては、此処を必要として来てくれるだけで何よりなんだよ。そういうことなんだよ」
昇太は4、5回噛みながら、本当の気持ちを伝えた。
「大事なとこ、そんなに噛まれたら……」
茂はこんなに噛んで、思ってもいない事を言わせてるのだと勝手にまた傷ついた。
「それはごめん。本当に申し訳ない」
昇太が必死で茂の対応に入っている。

浴場はどうなっているのだろうか…
南は未だ座ったまま。気持ちを静かに整理しているようだ。昇太の誘導に引っ掛かった? そんな形となった光は苛ついていた。その中、仲本が外してしまった扉をガタガタと気不味そうに直している。

「来年、新しいスタートを切ってみせるよ。いいよね、切っても…? みんなが好きになってくれる自分になるから。今年はもう無理そうだから…帰るよ俺…皆さん…よいお年を」茂が擦り切れそうになりながら言っている。
男湯の暖簾が揺れた。
南が静かに顔を出した。
昇太が心配そうな表情で呼びかけた。
「南…」
茂もすぐに目をやった。
「茂さん待って」そんな言葉を待った。
しかし、まだ話せるような状態ではない南。再び出て行こうとする茂だが誰も追わない。みんなが南を心配している。すぐに自分から戻ってくる茂。
「誰か止めてよ…お願いだから…」
小さな声で言った。見ていられなくなって一平が茂を抱きしめた。
「一平ちゃん……っ!!」茂もしがみつくように抱きしめた。ある種、混沌としている待合いに光も戻って来た。

「茂さん、もうちょっと居てもらってもいいですか?」昇太が言った。その表情から、なんらかの決着をみせる事が窺えた。
「もうちょっとなんて言わずに…」
茂が茂らしく答えた。

「兄貴、一平さんだ」昇太の時間は続いた。
「俺のことはいいから…」
「兄貴にもちゃんと話さないと。家族だから…」そう言って、清水実の目を見た。
清水実の言葉が昇太のなかに生きている。小さく頷く清水実。

「兄貴がウチを出て。存在すら知らなかった相続税やら何やらがやって来て。俺、頭真っ白になった。その時、一平さんが税理士さんだったり、お金の工面までしてくれたんだ」

みんなが知らなかった顔で一平を見た。
「いや、俺が言わなくていいって言ったんだよ。見てられなかったからさ。昇太なら未成年でまだ控除もあった。けど、光君なんだもん、相続の当人は。二十歳を過ぎた光君。出て行ってしまった光君…そんなの放っておけるわけないじゃないか」
放って逃げた光は、居場所をなくした様に背を向けた。

「俺が此処を辞めようと思ったのはその一回だけ。一平さんに救ってもらって今がある」
「もうとっくに全部返ってきたけどな。返さなくていいって言ったのに。俺さ、そんな金を女房に相談せずに出しちまって…こっぴどく叱られると思ったんだけど。事後報告だけど、素直に話したんだ。そしたらあいつ、俺の事惚れ直しちまってさ。それで俺達また愛し合って、茜が産まれたんだ」
「そうだったの!?」
茜が百点満点な反応をみせた。
「そうだったんだよ」
どこか惚気た表情で一平が答えた。
「皆んなの前で恥ずかし過ぎるカミングアウト…」茜も、はにかんだ。

「こんなボロ銭湯のために…」
光が苦し紛れ皮肉を吐いた。

「だからさ、南ちゃん。…光君。そういう事もあったんだけど、昇太が南ちゃんには心配かけないようにってやってきた根性は並大抵じゃないんだよ。光君には頼りたい部分はあったろうよ」
「…俺だって本気で継ごうと思ってたよ…だけど…親父の言葉が頭から離れていかなかった。お前には無理だって…!親父、俺にお前には無理だって言ったんだよ」
「光君…」
時江が気にかけていた心配がやはり光の中にはあった。

「…それで出て行ったのか?」
昇太が問いかける。
「…お前にはわからないよ、この気持ちは」
「わかるわけないじゃないか。光君が出て行って、まだ小さい南ちゃんがいて、この銭湯があってさ。親のつもりで、兄貴として南ちゃんの前に立ってきたんだ。それをさ、もう20年やってきたんだよ。わかるわけないじゃないか」
一平は昇太の気持ちを代弁するように伝えた。
「わかってあげなきゃならないのは、光君の方なのかもな」望月がそっと光に寄り添った。
「だけどな、南。お前はいつでも自分の思う幸せを取ってほしい」

「だから…」
昇太がそう言うと、南は怒ったような、泣いてしまいそうな複雑な表情を見せた。

「違うだろ坊ちゃん」
望月が間に入った。
「その前に、坊ちゃんが幸せになる姿を見せてやるんだよ。なあ、南ちゃん?」
そう訂正した。
南の表情はそれを望んでいた。

「…お兄ちゃん、ありがとうございます。私は、これまで何の不自由もありませんでした。ありがとうございます……!!」
そう言って、深く頭をさげた南。

床にピチャリと落ちていくヒカリは、二人三脚でやってきた兄妹の美しさを象徴するようだった。皆が、しばらく見惚れた。
「あの……」
後方から飛んできた声に、向き直る。
「仲本さん……」
煤で顔まで真っ黒な仲本修利がそこにいた。
「ボイラー……」
待合いが息を呑んだかのように、皆が揃って息を呑んだ。

「直りましたので」

昇太の身体から力が抜ける様に、膝から崩れ落ちていく。

「……ありがとうございます」
「ちょっとした事でしたね」

仲本は平静を装った。その姿を見れば全然ちょっとした事ではなかったのが窺える。言いたいことが昇太にはわかった。南とのすれ違いを言いたかったのだと思う。

「もう、大丈夫ですから」
「よかったです…本当にありがとうございます」
「お互い、頑張っていきましょうね」
そう言って仲本が真っ黒な顔で笑顔を見せた。
「はいっ」昇太もそれに応えた。
「早く焚かないと、お客さん来てますから」そう言って、仲本が歩き出す。光とすれ違うところで一度立ち止まり、小さく頭を下げた。
自分の手に宝湯の命運が懸けられていたことを分かっての事だった。責任を果たした仲本が再び歩き出し、この場を去っていった。「よっ!仲本っちゃん!」や、拍手が背中越しに聞こえた。歌舞伎役者にでもなったような気分だった。振り返りたい気持ちはあったが、これから何度も困難は続くだろう-。そう身を引き締めて、そのまま静かに硝子戸を閉めた。

「兄貴」
昇太が光に向き直った。
「こうやって、兄貴の知らない宝湯があるんだよ。もう20年になるってさ」
昇太はそう言って、みんなの顔を見た。言葉にならない気持ちが込み上げてきた。周りの人々も共鳴しあっている。光はそんな光景を目にした。なんだか悔しさが込み上げてきた。

「まだやれるって。宝湯がそう言ってるみたい」そう昇太が言うが、光は今更素直になれるわけもなく、
「…いいか、俺は長男だ。認めない!ここは売るんだ。売ります清水さん!」そう言い放った。

「今日のところは引こう、光君」
清水晴彦の答えは早かった。
この宝湯の命運を見届けたという表情だ。
「あなたは、俺の運命の人だ。色んなものに見離されて生きてきた俺の…」
「もうわかっただろ。君たちのこれからは、兄妹三人で一つの決断しか出せない」
「じゃあ俺はどうするんだ清水さん…」
光が、去ってしまいそうな晴彦の足元にしがみ付いた。
「此処を売って、逃げちまった嫁と子供取り戻したいんだよ。わかってるだろ!? 金が必要なんですよ。金があれば取り戻せるんだ俺の幸せは」
「まだ分からないのか…」
「兄妹達にもちゃんと分け前は作る。みんなで幸せになるんですよ!?」
「だからね……」

足元に光をくっつけた清水晴彦が、ゆっくり此処にいる面々を見やった。光に向ける目、自分に向く目、それは同じだった。当然だ。自分も光の話に乗った身だ。情けない姿だなと、光を見て思うが、自分自身のようにも見えた。そして、そんな自分を吐き捨てるように言った。
「だから……てめぇの汚い草履で、俺が大切にしてる場所にズカズカ踏み込むなっつってんだ」

光は、きょとんとした表情で晴彦を見上げた。
「何言ってるんですか……」
「あなたのお父さんから、取材していた当時の私がいただいた言葉です。今一度、自分に言い聞かせました」

「高木ブー……」「お父さん…」
時江と清水実が同じ間でつぶやいた。

そっと、ふたりに目をやって晴彦は続けた-
「どんなに出世したって…この言葉は私から消える事はなかった。だけど光君と出会って、その時が来たのかなと思いました。運命、そうだと思いました。この場所がなくなれば、私はあなたのお父さんに突き付けられた印籠をようやく外す事が出来るのかと。…けど、私はあの時から何も成長していなかったな…と、思ってしまいました。また印籠を突きつけられましたね」
「清水さん、待ってくれ…待ってくれよ……話がちがうじゃないか……」
蚊の鳴く様な声で、足元で光が泣いた。
いつまでも変われない自分自身を悔やんでいるようにも見える。
「此処をどうしていくのか、きちんと家族で話しあった方がいい」
清水晴彦は、昇太と南も見てそう言った。ふたりは頷いていた。

「清水さん、うちの兄妹はこの小さな世界しか知らない可哀想な奴らなんですよ?」
「本当にそうか、よく見なさい」
晴彦が静かにそう促した。昇太と南を見る光。涙のせいか眩しく映る。

「光お兄ちゃん。私、幸せです。こんな小さな世界しか知らないけど-」
南は、その小さな世界を見渡した。心から込み上げるものがある。それを必死で我慢して、続けた-

「凄く、幸せです…」

「南ちゃん」

時江が南を抱きしめた。
時江に支えられながら、南は目一杯また叫んだ。

「幸せです……!!」

昇太が笑った。それを見てみんなが笑った。
「兄貴。宝湯はまだ生きてるよ。やれるとこまでやってさ…もし本当にだめなら…兄貴の話、聞いてみることにしようかな…」
「お前らさ…いい人間ぶるんじゃねーよ!胸糞わりぃんだよ!これじゃ俺がまるで悪い人間に見られる…俺は普通だよ!もう気持ちわりぃんだよ…お前らみんな気持ちわりぃんだよ!!」
「言いたい事はそれだけか」
昇太の想いに皆が寄り添っている。風向きの悪さを感じる光。
「お前は、兄貴を見捨てるのか?」
「南、アレ持ってこい」
「わかった」
南、アレを取りに行く。 にやっとしている時江。

「俺は…なんでこんな目にばかり遭うんだよ…」光が弱々しくそう吐いた。
「さぁ、実、帰ろう。嫌な予感がする」
清水晴彦が足早に去ろうとする。

「待ってくれよ清水さん!」その足に、またしがみつく光。
本気で伝えたい気持ちと、早くこの場を去りたい気持ちで晴彦は言う。
「これはチャンスだ、光君。私も腐っていた時期に、あなたのお父さんからきっかけを貰った。悔しかったけどね。人はその悔しさを変換しなきゃいけないんだよ。さぁ、行こう実」「わからないっすよ……俺はどうしたらいいんですか清水さん……」
光は離すどころか、さらに助けを求めしがみついた。清水実は見ていられなかった。
「あとは大丈夫ですから」
昇太が実に声をかけた。ふたりは見つめ合った。すれ違った人生のうちの一瞬を訂正しあうように。深々とお辞儀をして清水実は去った。
「清水さん、此処売らないと、俺はひとりぼっちだ」
「家族がいるだろ此処に!」
「頼むよ清水さん!」
「ちょっと離しなさい…」
依然として帰らせてもらえない清水晴彦が四苦八苦している。そこに南が戻ってくる。手にはアレを持っている。
「お兄ちゃん、コレ」とアレを渡した。
「やっぱりアレだ……」
アレの正体を晴彦は確信した。もうごめんだった。
昇太の手に大きく一握り、塩が握られている。
「なんだよお前」
光がそれに気付くと、昇太はすでに振りかぶっていた。

「兄貴、一昨日来やがれーーーっ!!!」

そう叫びながら、清めの塩が父親譲りのスリークォーターで派手に撒かれた。清水晴彦も巻き込まれた。人生二度目のこれは下手に抵抗せず、口を閉じて静かに目を瞑り受け入れた。なんだかご開帳を迎えたような気分だ。

「昇太ーーー!!」
人生初の光は目鼻を真っ赤にさせ、断末魔の如くお叫びを上げた。初心者に多い反応で晴彦はそれを煙たがった。
「俺は此処を残す覚悟はとっくに決まってるから。兄貴はそれを分かってから。話はそれからだ。清水さん…すみません…」
「お父さんにそっくりだ、君は」
時江が大きく笑った。そして、時江は昇太から塩を奪った。
「え!?」
塩を掴み、昇太と光、そして清水へ向かって再び撒いた。

「え…なんで……」
困惑した様子の昇太。
早くも人生二度目を迎えた光はまた暴れてみせた。時間が足りなかったか、やむを得ない。その横で三度目を迎えた晴彦はもはや神々しく光を見守っていた。

「昔っからね、喧嘩両成敗って決まってるのよ」悪気なく時江が言い払った。
「坊ちゃんたち、あんたら立派な親を悲しませるんじゃないよ。流せるもんは流していこう」「そういうこった。ねぇ、南ちゃん。湯は沸くのかな?」
「沸くに決まってるじゃないですか。ちょっと待っててね」南が笑顔で答えた。

風呂屋には沸かした湯を溜めておくタンクがある。

私たち人間にも苦しみや悲しみから守るためのタンクはあるだろうか。喜びや感動、人の優しさを冷ますことなく、忘れてしまうことなく溜めておけるタンク。形こそ見えないが人間にもきっとあると信じたい。

「ぼさっとしてんじゃないよ。あんたらも南ちゃんを手伝いなさい」そう、時江が発破をかけた。

「まだ覚えてることある?」
昇太が光にそっと言った。

「……誰がやるか」
突っぱねる光。見兼ねて時江が間に入った。
「やりたかったんでしょ。今日ぐらいイイじゃない。旦那さんと女将さんに線香上げるくらいの気持ちでさ」
「なんつう冗談だよ」
「いいから来いよ」
そんな光を昇太が裏のボイラー室に連れていった。
「あの時は、逆だったね…」
時江は、ふたりの背中にそう声をかけた。


回想♨︎
光は中学3年で薪焚きが出来るようになった。自慢したくて、こっそり親の目を盗み弟の昇太(この時、小6)をボイラー室に連れていった。

「俺もあそこ入っていいの?」
「俺がいれば大丈夫。もうプロだから」
「やったー、すげーね!」
「騒ぐなよ、見つかったらやばいから」
「え?」
「なんだよ?」
「プロだから見つかっても大丈夫だって…言ったでしょ?」
「……黙れ」
時江も、そんな光を見てみぬふりで見逃した。
よっぽど嬉しかったのだろうと、微笑ましく。そのふたりの背中をボイラー室まで見送った。
そんな光景を思い返していた。


「時江ちゃん。いつもありがとうね」

君子の声が聞こえた。
振り返ると女将の姿はない。もちろん、いない。湯を待つ常連客たちがドリフのDVDをセットしていた。
でも、女将の声はこの耳に残っている。


エピローグ♨︎
それから約1年後…

ジェイムスが黒と白で色分けされたコートのようなものを羽織り、少し偉そうに番台の前に立った。
パチッ、パチッと音がして、待合いの照明が幾つか落ちた。

パパパパーン♪と、かの有名な曲が待合いに高鳴った。

ライトアップされたかのような男湯の暖簾の奥から宗男が登場した。髪をビシッとかき上げ、白いスーツを纏っている。
宗男の見違える姿に、参列者という名の宝湯の常連客たちが拍手で迎えた。清水実も居て、カメラを構えている。
女湯の暖簾の奥から望月にエスコートを受けた茜が登場した。
望月もドレスアップし、極まっている。
ウエディングドレスの存在感が宝湯の待合いとなると凄い。また、大人らしくメイクアップした茜もそれを凌駕するものだから、この場にはすごく浮いている。
すごく浮いた茜の姿を見つめる宗男の目は、UFOでも見た人間のようでもある。
そんな宗男と茜が、どこか偉そうなジェイムスの前に並んだ。ジェイムスはこの式の牧師を務めていた。彼なりの役作りと、この後に来るだろう長台詞に神経を集中させているため、どこか偉そうに見えているのだと思う。見兼ねた昇太が、始まる前にカンペを用意したが、ジェイムスに怒られた。「真剣ナンデスヨ」との事だった。

曲を流していた南と、照明をいじっていた昇太が参列に加わった。
ジェイムスが小さく細く息を吐く。
「宗男、茜チャン」
誓いが、はじまった-

「健ヤカナル時モ、病メル時モ
喜ビノ時モ、悲シミノ時モ
富メル時モ、貧シイ時モ
手ヲ、取リ愛、支エ、歩ンデ行ク、事ヲ、誓イマッカ?」
最後の語尾だけ、さんまさんのようになってしまったが、長いセリフを言い切ったジェイムスの表情がほぐれた。緊張していたのが窺える。
「誓います」
「誓います」
ふたりは、お互いを見合って神父ジェイムスに誓ってみせた。

「分カリマシタ。一平サン、ニモ、伝エマショカ」

茂の腕の中に一平の遺影がある。新郎新婦はそちらに向き直り、息を合わせた-

「誓います」

笑顔を見せる一平の遺影はそれを祝福している。

「ソレデハ、二人、ハイ、ドウゾ」
と、ジェイムス牧師。その手には二羽の黄色いアヒルがいる。もちろんおもちゃのアヒル。カッコ、お風呂用である-。
指輪を買えなかった宗男を気遣ったジェイムスがお風呂のお供、黄色のアヒルを指輪代わりに用意した。
買えなかったというのも茜が宗男を気遣い我慢をしたのだ。我慢というのか、これから共に生きるのだから自分のためでもあった。指輪はいずれ生活が落ち着いた時に。それで良かったそうだ-

このアヒルを交換する意味がよくわからないが、雰囲気で黄色いアヒルを交換しあう新郎新婦。指輪のように輪っかは付いていないので、お腹の辺りを摘んで鳴き声を出し合った。

クアー、クアー

参列者たちが笑った。
二羽の黄色いアヒルは高らかに鳴き、祝福ムードを上げた。満足気のジェイムスだ。
一平は癌に勝てず、三ヶ月前にこの世を去っていた。みんなが落ち込み、悲しみにふけり宝湯にしばらく顔を出さない者もいた-

「ソレデハ、新婦茜、カラ、父、イッペーサン、ヘ、感謝ノ言葉」

それでも、この若い二人に一平さんの分まで何かしてやれないかと大人たちは寂しさを変換した。変換して今日この日の宝湯での挙式が行われた-

茜、父一平の遺影に向かうが胸が詰まり言葉を出せずにいる。見守る参列者たちも皆、同じ状態にあった。

「茜ちゃん泣かないで。お義父さんは、茜ちゃんの笑顔が世界で一番好きなんだから」
宗男が笑顔の一平に負けじと、笑顔をつくって声をかけた。

「……うん」
「僕が悲しみ半分貰うから。笑って。大丈夫だあ~~」

笑顔を見せる茜、寄り添う宗男。
誓い通りの姿がそこにはある。

「…お父さん。私、宗男君と支えあって、一生懸命、いただいた人生を歩んで参ります。…お父さんの子供に産まれてこれて、しあわせ……」
「そんなの…結婚式まで取っておきなさいよ…」そうやって照れた一平の顔を参列者皆が思い浮かべていた。

「お父さーん……!! ありがとう……」

茜が直接届けるかの様に、空に向かって叫んだ。また皆んなが空を見上げるようにした。
宝湯の天井は吹き抜けてなどいないが、スーっと高くて、届くんじゃないかと思えた。
最後に宗男から、皆んなへ感謝と決意が伝えられた。その表情は語られた言葉通りに、ふたりは進んでいくと思えるものだった。男湯で行われた一平と宗男の「熱闘」をまた皆んなが思い返していた-

「生きているこの世界が、実は地獄なんじゃないかって、南さん言っていたよね」

新郎新婦の背中を見送ったあと、南の隣で清水実がそう言った。取材中、ボイラー室で聞いた南の言葉だった。
「そうなのかもしれないね」
「え?」
「だからさ、辛いことがあって…摺り切れ、摺り切れていくんだけど…もらった人の愛を、もっと大切に感じたいなと…思った。この世を離れていく時、そんな大切な人達の顔を思い浮かべて旅立ちたい。そう思ったよ」
「清水さん」
南が小さく口を開いた。

「一つ、修正させてください」
「なんでしょうか」
「この銭湯は、私達家族が生きてきた証だと言いましたが…」
「はい」
「私達家族と、周りの皆さんとで生きてきた証です」
「そうですね」
清水実が参列した常連客たちにカメラを向け、大事にシャッターを切った。
「さて、あっためて来ます」
「はい」
そう言って、南はボイラー室に向かった。
今日も宝湯は営業していく。


この年の大晦日♨︎
強い寒気がやってきているが、雲が少ないおかげで暖かな日差しが差し込んでいる。宝湯の外で木村孝之の声が響いた。「違いますよ、それはこっちこっち…!!」
外の様子を伺うと、大量の薪を持たされた長男光の姿があった-
「大丈夫か?」昇太が中からそっと声を掛けた。
「あ、昇太さん。僕、良いこと思いついたんですけどね。ボイラー室の薪、これからは人手が一人増えたわけだから、こいつに割らせればいいんじゃないかって」
「こいつって言うんじゃねーよ」
「いいから。ほら、早く運んで!」
木村が生き生きとした様子で光を扱き使う。

「割れた薪を頼むより、幾らか安く済むでしょ?」
「そうしよっかな」
昇太が光をからかう様に答えた。

「薪割りって言ったー!?」
離れた場所から光の声が飛んでくる。

「言ってませんけどー」
光が薪を置き、二人の元へ戻ってくる。冬だと言うのに額から汗びっしょりである。
「俺には出来ないよ、薪割り。腰が悪いんだ」
「じゃあ、給料安くしてもらってください」「君さ。俺は、このうちの長男だよ?」
「僕にはわかりません。それは昇太さんだと思ってるので」
「じゃあ俺は何者だ?」
「僕の後輩」
これから就職を控える木村孝之は厳しく後輩の指導にあたった。
「はい、まだやる事いっぱいですよ」
「一回休憩しよう」
「さぁ、こっちだ」
光が反抗しその場に座り込んだ。
「早く来いって…!!」
木村がそれを許さず光を引っ張って行った。

その様子を苦笑いし見守る昇太。物怖じしない木村は出戻ってきた光の相手にはちょうど良かったのかもしれない。
ただ、木村が上司というキツさは想像するまでもなかった。

ボイラー室♨︎
宝湯のボイラーは不死鳥の如く。
あれから何事も無かったように薪を燃やしていく。南が火を生き物のように見つめ薪を入れていく。火の音はバチ、バチっと鼓動を上げる。
窓を開けて空を見上げた。空に向かって昇る煙を見つめて言う、
「今日も元気にやってます」

浴場♨︎
外はすっかり暮れていた。
冷えた体を温めに来る常連客たちで宝湯は賑っている。

「ふぅー、あったまるー」
茂たちや、高橋兄弟の姿もある。
「ちぃせぇ嫌なこと、この湯がいっつも流してくれんすよ」
「そうだね。そうやって、おかげさんで今年も終わるね」
望月と茂が、話している。

ぴちょんぴちょん。滴る湯気が宗男の頭に落ちて来た。
「あ、冷た…!」
「オーー! 冷テーエーナー、湯気ガー、天井カラー、ポチャリト、背中ニー」
宗男の反応を受けて、ジェイムスが歌った。

「ジェイムス、うまいじゃんか」
茂がそれを煽てた。気を良くしたジェイムスがさらに口ずさむ。
「ババンバ、バンバンバン」
それに皆が続いた-

「ババンバ、バンバンバン」
宝湯の音頭だ。


待合い♨︎
時計の針は20時を回った。
番台には昇太がいた。普段はまだピークの時間帯だが、家族連れなど、ほとんどの客が家路を急ぎ落ち着いた様子の待合いだ。
頭にタオルを巻いた普段着の清水実が昇太の近くで座っていた。テレビから流れるのは紅白歌合戦などではなくドリフの映像でそれを観て二人は笑っている。

一足先に上がった茂が、静かに二人を見やった。
ちょうど清水実の座っている位置に君子がいて同じくドリフを観て笑っている。笑い声に誘われた幸雄が出て来て、昇太の隣に立った。
茂のなかで、いつかの風景が重なっている。
幸雄が何か喋っている。
「俺が死んだらさ、笑い飛ばしてくれ、こんな風にさ。ずっと鳴かず飛ばずの人生を全うしていくんだろうから…」
君子、幸雄の話を聞かずに笑って観ている。

「あのぉ…聞いてる?」
「聞いてるよ」
「お前にも、子供達にも、うんと贅沢もさせられずにさ。旦那としても親としてもずっと20点くらいの男なんだ」
君子、やっぱり幸雄の話に反応せずドリフを観て笑っている。
「…ねぇ聞いてる?」
「幸せの物差しは、あの子達が見つけていくものよ。私だって、そう」
「そうか」

幸雄がテレビに目を移した-
「戦後まもなくして、お茶の間あっためてきた人達は強いよな…」そう呟いていた。

「あなた達も、強かったよ」
茂が心のなかで二人に声を掛けた。

「ナンカアッタ?」
振り返ると、ジェイムスたちがいた。

「ううん。なんでもないよ」

昇太が、こちらに気付いた。
「みなさん。今年も一年、お疲れ様でした」「ありがとうね。良いお年を」
皆が口々にそんな言葉を交わし合った。

三が日は、宝湯にとって束の間の休息。
毎日あるものから、しばしのお別れだ。
外で南の声がしている。ボイラー室から外にまわって茂たちに挨拶をしているようだ。
ふと目をやると、清水実も帰り支度をしていた。

「清水さん」
「はい」
「あのぉ…明日の元旦は何してるんですか?」
緊張気味に昇太が話した。

「明日?」
「よ、良かったら。一緒に初詣にでも行きませんか?」
「せっかくのお休みなのに…いいんですか?」
「はい。あ、あの、他に約束があるならいいんですけど!」
「ありません。いいですね、初詣」
「いいですよね、初詣」
奥ゆかしい二人の、なんとも言えない雰囲気がある。木村が陰からそれをジッと見ている。
「…ちなみにそれは、デートのお誘いですか?」
清水実が、少し勇気を振り絞ったのか。顔がほんのり赤い。

「デ、デート…?!」
木村の理性はいつの間にか壊れ、心の声も漏れてしまっている。

「あっ…」
「木村……いつから……」
「なんなんですか、昇太さん。僕が居ない隙にデートって」

清水がまた顔を赤くして、
「ち、違うんですよ……その……皆んなで行きませんか初詣?」
昇太の目が点になった。

「ハ、ハイ……ソウデスネ」

心を失くしたロボットのように昇太が答えると、木村は心の残った爆発寸前のロボットのように答えた。

「ボクハ…ソンナ……野暮ナコト……シマセン…!!」

二人の心はギシギシ音を立てた。やがて、木村ロボは爆破した。少し悲しいが感動的だ。

「木村……」
「ちぇ~…」

木村が成長した姿を見せ、昇太と実の初詣デートを確定させた。

「あ、それより昇太さん。光さんの姿がないんですけど…」
ずっとは居ないだろう。なんとなくだったが、光はまた出て行ってしまうと、昇太の脳裏にはあった。

「…すぐ戻って来るだろ。気にすんな」
「あんにゃろ~、絶対どっかでサボってる」
木村が、再び光を探しに行った。

昇太、表の様子を伺うと目の前を雪が舞った。

「あ、雪だ…」
そう言うと、静かに清水実は昇太の隣に肩を並べた。

街の片隅で、光もこの雪に足を止めていた。手には身支度がされたバックがある。
「…母さん、誕生日おめでとう」
ボソッと、君子の誕生日を祝った。振り返ると、宝湯の煙突から煙が昇っているのが見えた。
その煙の下で南は唱える。
「父さん、母さん。今日も、元気にやってます」狼煙を上げる。

ボイラーで燃える火は、この家族の灯火。
「今日も元気にやってます」
待合いでは、ドリフターズのエンディング曲が流れはじめた。


おわり


#創作大賞2024  #お仕事小説部門

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