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台湾に留学しそこねた時の話 Part3

なんだかただの学生旅行みたいな日々を送っていましたが、そもそも今回の目的は大学院入学です。健康診断書を入手しなくてはいけません。

気分を入試モードに戻し、事前に本で調べてあった日本語の通じる医師を尋ねたのですが…。
「これはウチではダメ。衛生所(保健所)に行ってください」
と言われてしまいました。
場所を教えてもらって、一旦宿に戻り地図を確認してから出直すことにしました。

翌日、宿からそんなに遠くなさそうなのでバス代節約も兼ね、てくてく歩いて行ったのですが迷ってしまいました。
仕方なく、とりあえず大通りに戻ってタクシーを拾ったのですが、運ちゃんもよくわかってない人だったので変な場所で降ろされました。

タクシーがわからんのに私がわかるわけはありません。思いあまって近くのホテルのベルボーイに日本語で聞いてみました。
まともなホテルであれば、ベルボーイでも日本語が通じたからです。
ちょっと驚かれてしまいましたが、
「よく一人でここまでいらっしゃいましたね。私は地元の人間ではないのでよくわかりません。申し訳ありません」
と言われてしまい、また探すことにしました。本当に申し訳なさそうな顔をされました。
保健所の場所を聞く旅行者なんていませんよね。三德ホテルのベルボーイのお兄さん、ありがとうございます。

歩いて歩いて、それでもやっぱりわかりませんでしたので、疲れて7-11に寄りドリンクで一服しました。
そこで、店員の小姐にダメ元で保健所の場所を尋ねたところ、
「あ~あそこか、ちょっと待ってね」
という感じで電話をし始めました。
2〜3ヶ所に電話をしてやっとわかったのですが、件の保健所は建て替えのため一時移転していたのでした。
そりゃあるわけないわな。
わざわざ電話までして調べてくれるとは。十分にお礼をして保健所に向かいました。台湾の人は本当に親切です。あの時はお世話になりました。

やっと保健所を見つけて、受付で健康診断用紙を2枚購入しました(まず用紙を買うんですね)。
しかしその診断用紙を見た瞬間、私はちょっと固まってしまいました。
検査項目は内科のみならず全身の多岐にわたり、肛門まで検査されることになっていたからです。
これ、何十項目あるの?丸一日かかるんじゃ…。
夕方になってしまったのと、心の準備ができていないのとでまた一旦宿に戻ることにしました。

しかし、健康診断書がなければ大学院は当然門前払いになります。意を決して、健康診断を受けることにしました。

検査当日、私はかなり緊張していました。しかし実際に健康診断を受けると、内科の先生は脈搏と血圧を測ったのと舌を見せたくらいで「正常」のハンコをポンポン捺してくれました。舌を見て判断するところはいかにも中医の先生らしいですね。

眼科検診は日本語のできる先生(日本に留学していたそうです)が担当で、ここでも前日のホテルとまったく同じく日本語で「よく一人でここまでいらっしゃいましたね」と驚かれてしまいました。保健所に来る日本人は相当珍しかったみたいです。
検査は日本で受けるのとまったく同じランドルト式でしたので、なんの問題もなく上下左右を答えて「正常」のハンコが捺されました。

歯科検診もあったのですが、先生がジェスチャーで「ニン!」とやったので私も「ニン!」とやったらやっぱり「正常」でした。
実は私、歯列矯正で抜歯しているので歯の数は4本足りません。いいのか?と思いましたが、矯正しているのを中国語で説明するのが面倒くさいので黙っていました。

一番いい加減だったのは耳鼻科で、「你好」とあいさつしただけで「正常」でした。診察しろよ。あ、聞こえればいいのか…。

無事健康診断書を入手できてホッとした私は、日をあらためて大学へ提出に行くことにしました。

さて、書類提出の日。
窓口の担当者に持ってきたすべての書類を渡すと、大学の卒業証明書と成績表をていねいにチェックされ、紆余曲折の末入手した健康診断書も「ふんふん」という感じで受け取ってもらいました。
しかし、そこで私は意外な事を伝えられます。

「HIVの陰性証明は?」

え?

そんな書類いるの?

聞いてないよ〜!

手元に持っていた入試要項を見せたのですが…。

「それは去年のです。今年はHIVの陰性証明が必要です」

えええええ!
どうしよう?

「一週間待ちますから、それまでに準備して下さい。」

…無理です。

今でこそ陰性証明は一日で出してもらえるのですが、当時の検査技術では丸々一ヶ月かかったのです。

頭を抱えながら宿に戻り、近くの病院(台湾大学病院だったと思います)にかけこんで相談しましたが、さっぱり要領を得ません。まあ当たり前ですよね。
当時の私でも、一応の知識として検査結果が判明するのに一ヶ月かかることは知っていましたから、病院としては単に面倒くさい外国人が来たと思われただけでしょう。

つまり、
万事休す。

…。

あとでわかったことですが、それまで10年以上同じ入試要項だったのですが、私の受験した年から変わったそうなのです。
入試要項をもらったのが前年の夏休みでしたので、もらうのがちょっと早すぎました。

実はもう一つ心配事がありました。当時、ちょうど民主化運動が盛んになっていた時期でしたので、台北駅周辺にデモ隊が集結していたのです。
私より一回り年上の日本人なら安保反対!みたいなデモ隊に免疫があると思うのですが、私はリアルなデモ隊なんて見たことがなかったので、トラブルを懸念していました。
台湾は1987年まで戒厳令が出されていたのですが、デモが原因で再度戒厳令でも出されたら、外国人の私はどうなるのだろう?

ダラダラと時間だけが過ぎ、そして期限の一週間が来てしまいました。

もう帰ろう。

残念な結果になりましたが、今では良い経験をしたと思っています。
滞在はトータル三週間ほどでした。

さすがに浪人はできないので、その後台湾留学はきっぱりあきらめました。そして就職し、独立し、今に至ります。
今の生活にはおおむね満足していますが、それでももし留学が実現していたらどんな人生だったのだろう?と思うことはあります。

まさか21世紀にもなって疫病が原因で海外旅行が出来なくなるとは、Covid19が蔓延するまではまったく想像もつかないことでした。アジアならいつでも行けると思っていたので、旅行先は台湾より香港を優先していました。
その結果、台湾は30年もご無沙汰してしまいました。

近いうちに自由な往来が再開されると思いますが、その時は台湾再訪を実現したいです。

(でも円安がツライ…。)




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