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今週の読書「悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える」

 Kindle unlimitedが激安だったので3ヶ月入ってみた。

 そこで「悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える」早速読んでみた。これは面白かった。身構えそうなタイトルですが、昨今の情勢も相まってとても面白い。新書で手に取りやすいが、中身が濃い。

 著者の仲正昌樹先生は、哲学の本をさまざま出されており、私が欲しい「ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義」の著者でもある。

 ハンナ・アーレントは個人的に結構読みにくかった記憶。。。「エルサレムのアイヒマン」の旧版を読んだけれど、正直結構辛かった。(新版はやく読みたい。)よって先に全体というか大まかにつかんだ方が読みやすいかも、と解説書的なものを読んでいる。

 この本はアーレントの「全体主義の起源」、「エルサレムのアイヒマン」を中心に全体主義とは何か、それに陥らないためにどう向き合うかを、解説している。

 読み終わって、これは今、多くの人が読んだ方がいいのでは?と思った。

 アーレントは、全体主義は「国家」ではなく「運動」だと言っています。

 この言葉には思わず膝を打った。

 通常の国家は、指導者を頂点として、命令系統が明確なピラミッド状(もしくはツリー状)の組織を形成します、法による統制を徹底するには、それが不可欠だからです。これに対し、組織が実体として固まっていかないのが「運動」。イメージとしては台風や渦潮に近いと思います。
 台風の目(中枢)は確認できても、全体の形状は不安定で、輪郭も定かではありません。全体主義においては、命令を発する台風の目も常に運動し、それに合わせて周辺の雲(組織)もどんどん形を変えていきます。
 「運動」は全体主義の特徴であると同時に、急所でもありました。気圧の運動が鈍化すると台風の勢力が弱まるように、運動の担い手である大衆が安定してしまうと求心力が落ちてしまう。それを防ぐためにナチスが講じた諸策のなかで、アーレントが特に注目したのが「組織の二重化」でした。

 この「国家」と「運動」というのは興味深い。「運動」は常に不安定であることで保たれる。 

 自立した道徳的人格として認め合い、自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を、アーレントは「複数性 plurality」と呼びます。
全体主義は絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。

 絶対的な「悪」など存在しないが、しばしば二項対立で物事を捉えがちなところもあり、これは本当に日々気をつけなければと思う。自分の中でも「悪」を設定し、相手が悪い、と考えることをやめていないだろうか。

 そのほか、有名な「悪の陳腐さ」についても触れられている。なにか理解できないことが起きた場合に、その特異性を必死になって探し、自分とは違う、と安心してはいないだろうか。悪と善は本当に対極的なものなのだろうか、など、思わず背筋が伸びるような話が多かった。
 時々読み返して、反省したり、自らをチェックしたりするのに良いかもしれない。

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