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今週の読書「生きる心理療法と教育」

下手に動けたり本が読めたりする日があるせいか、前ほどこころから休めない。なんだかんだ今まで1日に一回は仕事の問い合わせがあるし、結局2−3日に一回はテレカンもしている。やむなく出て、声が元気そう、とか言われると、それはどうなの、と思ってしまう。

散歩のルートに図書館があるせいか、しこたま借りてしまった。図書館は本当に色々な本があり助かる。

http://www.seishinshobo.co.jp/book/b87810.html

「生きる心理療法と教育」を借りて読んだ。どなたかが影響を受けたとのことで、紹介していたのを読んで、借りてきた。古い本のようで、保存庫で眠っていたらしい。最初の一週間手付かずで放置してしまったが、読んでみるといたく感動した。「治す」のではなく「いかに生きるか」に寄り添うのが心理療法(家)なのかもしれない。そして、「治す」ではなく、それを「いかに生きるか」に取り組むことは、とても困難なことなのだと思った。

考えさせられる、気づきのある言葉が多くあったし、第4章の2「障害と発達」のジンと母親にはとても心打たれた。

そもそも、「いかに生きるか」というテーマに取り組むことは、いかに苦しくとも個人がみずからの人生と正面から向き合うことを意味する。そして心理療法家は、そのような個人の語りに耳を傾けるのである。けれども、それがいかに過酷なことであるかを、ジンと母親の事例は語ってくれている。
現実の「事実」をみずからの「体験」としていかに受け入れていくのか、そのプロセスをクライエントとともにするのが心理療法家である。

この2つの引用はそのエピソードのところだ。事実を体験として受け入れることは結構難しい。私はまだそれができていないのだと思う。うまく整理できないが、その「事実」に意味はなく、意味を考えるのではない。そこになぜはなく、ただあることとして捉えることが第一歩だろうか。中井久夫先生の本で、「病気中心の人生にしてはいけない」とあったが、そこにもつながる気がしている。

「こころ」ということばは、たしかに「ことばによって開かれた世界」の概念ではあるが、それは本質的には科学の知によって獲得された概念とは異なるのである。筆者は、「こころ」ということばではなく、こころそのものは「ことばのない世界」にあると考えている。

心と言葉についてはとても気になっているトピックだ。人間は言葉でコミュニケーションをする以上、言葉と心は切ってもきれないものだとおもっている。でも言葉と心は遠いところにある気もしており、その関係を言い表すものとして、感覚的にしっくりきた言葉だった。

何度か読むとまた色々な学びがありそうな本だと思う。また読む機会があるといい。

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