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今週の読書3冊 「くらしのための料理学」など

ぼちぼちといくつか読んでいる。

「自分を傷つけずにはいられない」「「死にたい」に現場で向き合う」これはともに松本俊彦先生によるもの。最近みすず書房から自伝的な本を出され、それがとてもいいという評判を聞いていたから、目に止まったものだ。みすず書房の本も図書館に入ったら読みたい。

「自分を・・・」の方はとても実践的で、当事者も非当事者も読んで全く損はない。周りに当事者がいるが、何をして良いかわからないので、見て見ぬ振りをしているということもあると思う。(過去私がそうだった)そういう人にも読んで欲しいなと。具体的に何をしたほうがいいのか、何をしたらダメなのかよく分かる。自傷とは生きるための手段である。それを間違えてはいけないと思う。行為だけを見て責めてはいけない。

「死にたいに・・・」の方は、こういった現場の慢性的でかつ解消される見込みのない人不足を思う。最近自分の周りもそうだ。どこもかしこも慢性的な人不足で、教育する余裕もない。これが社会や国の貧困なのだろうか。人にお金や時間をかける余裕のないこの現状は、などふと思った。一人を救うのにどれだけの人が関わり、時間が必要なのか。その人がその状況に陥るまでの長い長い時間を考えると、それは当たり前のことのような気もする。どこかでせき止めることのできない大きなうねりと流れ。最近その堰が急速に無くなりつつあるような気がする。

「くらしのための料理学」土井善晴先生の本だ。

このシリーズは短くて結構濃いものが多く。かといって個人的には、買うのはためらわれる薄さ。DMMの70%オフで買ってしまった。私は料理が結構苦痛だ。何しろワンパターンなものしか作れないし、たまに人に食事を提供する機会があったときに必ず味が薄い、と言われる、などなど。その上、食べるためには作る必要があり、そう頻繁に外で食べるわけにもいかずという、仕方なくやっている感がすごいからだ。土井先生は最近一汁一菜など提唱されているし、家庭料理についての再定義のようなものをされている気がしていて、興味があった。色々と気になる文章があった。

プロの料理は手間をかけることに意味がありますが、日常の家庭では意味のないものです。

なんとなく家庭料理であっても手間暇かけることが愛情みたいな謎の思想は嫌いだ。好きな人はやればいいし、できる人はやればいい。愛情をはかるものではない。

食べるという行為は、視覚、聴覚、触覚、嗅覚によって予測し、結果を見極める味覚によって、楽しみ、幸福感を味わうものです。味覚のおいしさとは、思いがけない「ご褒美」です。

食べる行為をこう捉えたことがあまりなかった。「おいしさ」とは。

できる日はやる、できない日は「やらない」のではなくて「できない」のです。そういうことがわかった上で判断するのが、ふつうです。

できない日は、「できない」、「やらない」のではないとは、心強い言葉に感じた。

そもそも料理とは、消化の外部化です。料理のおかげで、生食に必要であった大きな顎も大きなお腹(消化器)も不要になったのです。

これは、ハーバードのリチャード・ランガム教授の「火の賜物」の話のようですが、これも大きくヘッドバンキング。

その他、利他の話なども出てきましたが、こちらは「利他」がどういうものなのか、あとは「料理と利他」という本もあるのでそちらでじっくり取り組んだほうがいいような気がした。

「場を整えよう」ということを結構書かれている。確かにそうしたい。なかなかできないが、少しづつ整えたい。

私はほとんど在宅勤務で机がなかったので、ずっと食事をするところで仕事をしていた。ある時期から、そこで食事を取ることがなんとなくできなくなった。仕事の場に乗っ取られてしまったからだと思う。同じ場所であっても、食事をする場として、何か食事の度にそれ用に整えることで避けられたかもしれない。

この3冊は内容もジャンルも全く違う。なんでこんなチョイス?と思ったけれど、どれも生きることに直結している、というところで共通しているのかもしれない。

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