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今週の読書 6/15「その後の不自由」

今週は「その後の不自由」を読む。図書館で借りてきた。

桃山商事の清田隆之さんがオススメ、とのことで手にとってみた。どういう本なんだろうか。ちらっと開けてみたところ、依存症の話と、依存症を抜けたその後の人生をどう生きるか、の話なのかなと。

読み始める。とても読みやすい。今は第1章の「私たちはなぜ寂しいのか」。

まずは家族によって境界を壊されてしまった人たちの話。家族の中の誰かの不幸を背負わされて育ってきた人たちだ。頼りになるやつ、としてその家族の痛みを請け負い、自分の痛みは誰も請け負われずに育ってきた。そして応援団を持たない人、ということになるのかな。応援団とは、ここでは自分をケアしてくれる、大事にしてくれる人ということ。

最近色々な本を読むと、どんなに本人が軌道修正しようとしても、養育者によって投げかけられた事に囚われ、振り回されてしまう話の数々。それどころか振り回されていることに気付かない。恐ろしい。長年にわたって影響を及ぼし、そこから離れても、その後の人生も変わってしまう。子育てなぞ、怖くてできない、と感じてしまう。別に不幸を願っているわけでもない。その養育者がその時大変で、応援団もおらず、自分の痛みを持ちきれなかっただけだ。恐らく。これは、世代間連鎖に繋がるのではないだろうか、など漠然と思う。

そして、境界を壊された人はどう振る舞うか。人との距離感がつかめず、安全がわからず、人の痛みと他人の痛みの区別がつかず、何かあっても適した相談相手に相談できない。いや、もう苦しすぎる。でも自分の苦しいとか痛みをもう感じないんだろう。もうずっとそうやって生きていたから。なぜそうなるのか、そう思ってしまうのか、この本はとてもわかりやすく解説してくれる。メンヘラになるには理由がある。生まれながらにメンヘラはいない。メンヘラにさせられるのだ、恐らく。残念ながら痛みのバケツリレーで次に渡せる人がいなかっただけなのだ、運悪く。だから軽々しくメンヘラという言葉は使わない方が良いな、など。

そろそろ回復の話が出てくる。デジャヴ。「人体は流転する」と似ている。

回復とは回復し続けること。
変化することを受け入れられるかどうか。

回復の4段階など。長い長い道のりだ。問題と不満を行き来し、問題の中でも大問題と中問題を行き来し、往きつも戻りつを繰り返す。

境界を壊された側がなぜこんな辛い思いをしなければならないのだろうか、など考えつつ、続きはまた。

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