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今週の読書「悲しみと共にどう生きるか」

予約していたことも忘れていたのだけど、図書館で別の本を借りようとしたら、届いてますよ、と渡されたのがこの本。

これを読もうと思った時、昨夏に亡くなった友達のご家族から、突然会いたいと言われた時だった。会いたいと言われれば、会いましょう、と返事をしたものの、どう接したら良いのか、何を話せば良いか全くわからなかったからだ。

亡くなってから4ヶ月ほどたっていたので、なんとなくやっと故人のことを話せるようになったのだな、と漠然と思った。お会いするまでにグリーフケアについて知っておいても良いだろうな、と思って予約したうちの一冊。これだけがもう数ヶ月経って届いたわけだ。

ミシュカの森での講演をまとめた本なので、とても読みやすいので機会があれば多くの人が読むと良いなと思う。

私がとても印象的だったのは、若松英輔さんと平野啓一郎さんのお話だ。

若松英輔さんは、「クリスマスキャロル」を読み解きながら、生きるということについて、たましいについて、言葉について、まるで誰かを励ますように、暖かく語っていらっしゃった。クリスマスキャロルという一冊の本に溢れんばかりの思いが読み取れるということにも驚かされるし、このような優れた本にも関わらず、表面にさらりと触れるような読み方しかできないことを恥いる。若松さんの講座で、もう何十回と読んだ「夜と霧」の講義も受けたことがあるが、本当に深い。自分にはこういう深いところまで潜るのは1人ではなかなかできないな、と本筋とは関係ないことまで思ってしまった。

平野啓一郎さんの死刑の話や、カテゴライズされる、することについてもとても興味深い。本当に最近二項対立のようなものを見かけることが多く、別にそう単純なものではないんだけど、と思うことが多かったので、色々腑に落ちた。分人の話を聞きに行った事もあるので、またそれも思い出した。個人を一つのアイデンティティーに縛らことが、分断、対立の始まり。本当にそう思う。さまざまな自分を持つ事で、悲しさや苦しみを乗り越えていく、それが全てではないという話もわかりやすい。

悲しみもまた多種多様で、一括りにできるものではないし、家族や大切な人を喪った人らしく、みたいなものは危ない。本当に感じ方も時間もそれぞれだ。

この本は、私たちが向き合うべきは、何かを喪った人というカテゴリーなのではなく、その人自身なのだという当たり前のことの大事さを気付かせてくれる。

◯◯の人、といったようなカテゴリーに振り分けてしまって、その役割をおしつけるようなことは、自分にとって楽なだけで、相手を傷つける可能性すらある。
なかなか難しいが、(自分の主観の目を通してもなお、)ありのままのその人を見ようとする事、その時のその人に真摯に向き合うことが必要なのではないだろうか。
それはすなわち、なにか。言葉が大きくなるけれど、自分を疑い、考えることなのではないだろうか。

誰もが喪うこととは無縁ではいられないと思うが、語られることが少ないことなのではないだろうか。何も特別な時に読む本でもないので、気負わずに手に取るのが良いと思う。

「悲しみとともに」と書かれるとどうも気負ってしまいそうに私はなってしまったが、何かのエッセイを読む感じで手に取られると良いのではと思った。


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