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今週の読書 5/17

今週は全く進まず方向転換。手元にある短いものをいくつか。

「山月記」中島敦

完全なるネタバレだ。しかし、いまの自分には必要な言葉だから敢えて書く。文章も美しいし、かなり短いので、何度でも読み返したい。

なぜ李徴は虎になったのか。

色々な意味で、自戒を込めて引用する。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

才能という言葉は危険だ。特に自覚しているとなると厄介だ。プレッシャーもある。なくてもよかったはずのプライドや羞恥心が生まれる。居場所がないのだ。簡単にいうと、上にも行けず、下にも行けず、人とも関われないと思われる。それはとても苦しいものだろう。子供の頃から天才だとか、秀才だとか言われていた人たちは、いつ、どう折り合いをつけていったのだろう。自分の御し方をどうやって身につけるのだろうか、など考えた。

付け焼き刃の心理学的なことでいうと、Sと超自我のバランスをとる自我が損なわれ、Sが支配する世界が虎ということなのか。Sが支配する世界は獣のようなものであると。

「名人伝」中島敦

これは究極的な話でとても興味深い。ちょっとしたコメディのように思えた。その道を極めるということはどういうことか。こだわりを捨て、無我であること、ということだろうか。ここでは名人は「山月記」の李徴にできなかった己の珠を磨き、師に教えを乞い、ひたすら道に邁進する。ありふれた言葉だが、努力できることが才能であり、天才ということなのだろうか。彼らを隔てたものはなんだったのだろうか。自尊心の持ちようなのか。

この中島敦を連続で読んだが、この自我を失った虎と、無我の境地の名人と。この短い短い2つの話で、両極端を描く。個人的にはともに面白いし、好きな話だ。

これは恐らく小学校高学年か、中学生くらいの時に読んだのが初めだと思うが、今も読まれているのだろうか。

「芸術新潮」おそるべし!川端康成コレクション

こちらもパラパラと見る。やはり面白い。型にはまらない。全体像がなく、すべての蒐集品がすばらしも、ということもなく、自分が美しいと思えばそれで良い。この得体の知れない魔界感が心惹かれるものかもしれない。とてもベタだが、個人的にはオーギュスト・ロダン「女の手」を眺める川端康成の写真が好きだ。変態みと凄みを感じさせる1枚だったりする。この作品も生涯手放さなかったらしい。作家の美意識はとても興味を引かれる。以前、夏目漱石の美術世界展をやっていたが、見逃してしまった。気になる。美術と作家の関係は、またちょっと違う角度からその作家を楽しめる気がする。

来週は回復基調だといい。


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