「居るのはつらいよ」

この本を手に取ったのは昨年の6月くらい。Twitterで書評を読んで読みたくなったのと、タイトルに惹かれたからだ。ずーーーーっと、何かが辛かった。でも何がつらいのかよく分からなかった。このタイトルを見た時、「あ、居るのがつらいんだ」と自分の中でストンと落ちた。そこから、ああ読まないとな、と思っていたけど本屋や図書館でなかなか見つからず、なぜかインテリアショップに置いてあったのを購入した。

最初はあれ、なんか違うか?と思ったが、描写も丁寧で分かり易かったし、なんとなく面白かったし、帯に学術書と書いてあったけどイメージと違う文体で、少し時間はかかったけど、読み進められた。副題の「ケアとセラピーについての覚書」というのも興味があったし。この時、自分自身が大きく損なわれていて、ケアが必要な時期でもあったし、この状態からどうなるのか先も見えないし、何もできないのに、時間だけはあったから。頭に常に霞がかかってたけど。そんな中で気になったことを順不同でいくつか。

依存労働は他者をケアする仕事だ。依存労働は、子供を世話する母親のような役割で、自分なりに平たく解釈すると、だれかのお世話をして生活がうまく成り立つように助けるような仕事という感じ。これは別にお金が稼げるわけでもない、価値が見えにくいで、本当にうまくいっている時こそ、それが行われている事に気付かないものらしい。失って初めてそのありがたさに気付き、またうまく回っているとそれは当たり前になる。必要なものであるのになんとも切ない。自分の当たり前を支えるためにだれかがそれを担っているのだなと。

セラピーって、ざっくりアメリカのドラマとか映画でたまにみる、カウンセラーに話を聞いてもらって自分の気持ちに気づいてまた歩き出せる、みたいな割とポジティブで日本における占い感覚か?みたいなイメージだったけど、話はそう単純じゃないみたいだ。ここでも自分なりにざっくりまとめると、治療者と患者は、患者の話を聞き治療しつつも治療者側も古傷が痛んだり、傷つけられたり、それを患者側がケアしようとしたり、自分の中にあるものを相手に見出したり、それを癒したり癒されたりしながら、その人の損なわれたものを補修したり、再構築するものらしい。結構ハードル高い。そんなことをして治療者はどう自分を保つんだろう。

退屈について。「安定」と「正気」があるから退屈できるということ。(これは最近手に取った「暇と退屈の倫理学」でも思った。この本に引用されていたとは、読み返して気がついた。)

元々自分の「居るのはつらいよ」を解明するために読んだはいいけど、それは解消されたのかというと、なんとなくぼんやりと「居る」のを辛くさせて居る正体が見えた。他の書評でも書いてあったのだが、最終章に怒涛のごとくいろいろなものが見えてくる。そこで出てきたものに近いと思う。

自分に効率とかコストパフォーマンスとか会計的なものを強いてきた。それに取り込まれると、どんどん遊びがなくなって、気持ちが置き去りになっていく。仕事をするには気持ちは余計な障害になることが多いし。なんとなくこのやり方がうまく行って、幸い給料も上がっていって、新しい仕事に声をかけられたり、一見うまく回っていた気がする。ただ進み続けるのみ。前に進めなくなったら終わり、価値がなくなる。置き去りにされても気持ちはどこかにあるわけで、澱のようなものが知らないうちに溜まっていいって溢れ出し、前に進めなくなり、居られなくなる。それを繰り返す。でも気持ちはとっくに捨てたものだから、なにが辛いのかもうわからない。残るのはよく分からないけど、とにかく「居るのがつらい」それだけ。なんでこうなったのかは分からないけど。

ここに至る経緯はいろいろあったのだろうけど、気がついたらそうなってた。この本に救いを求めて、よかった。これからそもそもの原因を探る必要があるのだろうけど。





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