夫が会社に行けなくなった話 前半
「会社に行けない」
夫がそう言い出したのは、息子が小1、娘①が幼稚園の年少児、そして末っ子の娘②は未だこの世に生まれて来ていなかった2016年の1月。
それは正月休み明けでの出来事で、娘①はまだ幼稚園の新学期が始まっていなかった。
登校の準備をしようにも、トレーナー は後ろ前で、なんならデニムも前後に履いて、アラ?ランドセルは?持っていかないの?が常の息子をやっとの事で送り出して一息入れた私は
「え?ちょっと何言ってるかわかんない」
30秒程、サンドイッチマンの富澤氏になったものだった。
ちょっと、何言ってるかわかんない。
◆
夫は持病持ちだ。
それは現在も絶賛進行形で
と言っても心臓とか糖尿とかそういう発作の際は命の危険を覚悟してください奥様的なアレでは無くて
『難治性網膜剥離』
この2016年の更に1年前の10月、ちょっとした事故で左目の眼球の網膜が結構な広範囲に渡って一度剥がれてしまって
それ以来、何度眼球を手術しても剥がれ、手術しては剥がれてを繰り返すという地味に厄介な状態に陥り、夫の親切でちょっとフェミニンな主治医先生が何度も手術で患部を何とかしようとして来たが
今のところあまり何ともなってない。
夫の左目は光がわかる程度であまり見えてはいないし
そして夫の眼球の中には今もシリコンオイルが入っている。
この時も、1ヶ月前に3度めか4度めの手術をし、2週間程休んだ後の年末年始の冬休み明けだった。
夫はリビングの椅子に力なく座り込み、なんというかアレ「白い灰になったジョー」位、立ち上がる気力も様子も1ミリも無く
「会社に行けない」
「電車に乗れない」
を繰り返して項垂れるばかりで、私は事情が今一つ飲み込めず
「風邪?」
「お腹痛いの?」
「また目がおかしいとか?」
体調の不良かと色々聞いてみたが、夫は更に小さくなって
「俺、もう出世とかしなくていい?」
「電車で会社に行くと思うと足が動かない」
と聞いてきた
コレはもしやの
精神科案件か
その夫が以前から
病休が重なっている最中、人事異動で配属になった部署が、些細な事で怒号飛び交い、ミスの一つで斬首確定の苛烈極まる恐怖の第三帝国だと、この話は以前から聞いて居た。
恐んやな、人事部やろそこ。
そしてその中の「恫喝が趣味」な上司がもう何人も大人しやかな社員をメンタルを滅多打ちにして病院に送りにしているのも
おるよなそういう人、薙ぎ払え、焼き討ちにしろ。
そんな事を普段、偶に世間話的には聞いて居たが
夫が当事者の一人とは思って居なかった。
仕事ができるか出来ないかは、職場をのぞいたことが無いので詳しくは知らないが
夫は兎に角楽天的な人で
「結婚しようね」
ニコニコとそう言い出した時には遅れてきた社会人一年目の預貯金30万あるかないかという状態だったし
お陰で3つ年上で、その時既に社会人だった私が結婚指輪も何もかも買いますよハイハイ、冷蔵庫は私が使ってたやつでいいですね?という泥縄式の新生活のスタート
あと、息子が生まれた時は「子供が生まれて嬉しいなあ、所でコレってどうやって育てるの?」
という有様の人で
私もその辺はそう変わらないけれど
「仕事の関係の恫喝と怒号の為に、会社に行くこともままならない」
という状態が夫の中で起きている事がにわかには理解し難かった。
そして、ついこの間まで
「幼稚園に絶対行きたくない」
「ママとウチにいる!」
そう言い張って幼稚園バス乗車を真っ向拒否していた息子と戦い、小学校入学を期にその3年戦争に終止符を打った私は、今度は夫からの登園拒否ならぬ出社拒否に
「ブルータス...お前もか」
夫の気持ちと、妻に「会社に行けない」と吐露したその苦しさに思いを馳せる前に、議場で刺殺されたカエサルになってしまった。
お前までママとお家で『おかあさんといっしょ』を見て籠城する気なのかと
夫、あの時はほんまにすまんかった。
◆
会社に行けないと言った当時35歳を
「いや、行けよ」
そう言って、家の外に蹴り出すのは無理だ、非情だ。
楽天家とは言ったが、基本は真面目で、普段は主婦という名で合法的に引き籠りを続けている妻の私の300倍位明るく社交的でかつ高度に社会的な人間の筈の夫が深く椅子に座ったままもう一歩も動けなくなった様を見て
これは相当手痛い目にあったのでは
そうで無くても
ついこの前、眼球を針とメスでザクザクやられてまだ身体も本調子じゃないというのにウチの夫は
そう確信して、こういう時は、こういう時はまずどうしたらいいのか、そうだ!欠席連絡、パパ!連絡帳出して!
違うわ
「パパ、携帯貸して!」
このまま黙って会社に行かなければ無断欠勤になってしまう、まずは連絡だ、この電話帳のどれだどこのどいつだその恫喝パワハラ上司は、私が電話したる、今日は休みますそして病院に行きます、お前かウチの若いモンに手ェ出したんは、お前の頭スコーンと割って脳味噌ストローでチューチュー吸うたろか
そう思って
どない思てんのや
吉本新喜劇・未知やすえ姐さんに倣った気合と気迫で夫が指差した番号をタップして電話をかけた
合法的な引きこもりで、社交性のカケラも無い私は、唯一土壇場にだけは強い、更にケツを捲るのも早い。
この日の私は人生で三本の指に入るレベルに勇敢だった
あと一つは心臓疾患児の末っ子を一人で病院に産みに行ったその時。
最後の一つはまた考えておく。
電話は数回のコールで相手が出た、お前か恫喝パワハラ野郎。
ワレどこの組のもんや。
しかしそこで私は驚いた
電話に出たその相手が女性だった事に。
上司と言えば、おっさんだとばかり思っていたのに。
そこは言うといてくれ、夫。
◆
欠席連絡のその3時間後
私と夫と、そして、当時まだ年少さんでまだ冬休み中の娘①は、駅前の心療内科クリニックに居た。
欠席じゃなくて欠勤連絡の電話では
「今朝突然夫が会社に行けないと固まってしまいました」
「精神的にかなり参っているようです」
「今日病院に連れて行きます」
「今後の事はまたご連絡致します」
私は緊張すると物凄く勢いのある早口になる、それは奇しくも昨年の大河の阿部サダヲ演じる田畑政治と同じ『論戦において相手に口を挟ませない』手法になり
「行けないって言ってるのを行かせられる訳ないじゃんねー!」
とは言ってないがあの速度に勢いに電話の相手である女性上司氏は口を挟んでこなかった。
私の竹を割ったじゃない、縦板に水な口ぶりに呆れていたのかもしれないが、
「えっ?」
「あっ?」
「はぁ」
という戸惑った感じの返しのみで
「兎に角診断書を貰ってきます、その後再度ご連絡します」
電話連絡は私の一方的な啖呵で終わった。
この時は「兎に角診断書が、書類があったらええんじゃろ」
という気持ちで『診断書』を持ち出したが、実際医師の診断書カードは強い。
それは今疾患障害のある子を育てていて本気で実感している。
各種福祉医療手続きにおいて、医師の診断書は疾患業界のロイヤルストレートフラッシュ。
しかし
身体頑健、思慮浅薄、基本楽天家の、ましてや医療福祉関係申請盛りだくさんの心臓疾患児の末っ子を産む以前だった私はまだそんな事は全く知らなかったし、その上『かかりつけ精神科』が無かった。
それで電話を切って即、市内全部の精神科、心療内科、それらしい病院を全部虱潰しに調べ上げ、自宅から距離の近い医院、クリニックに片っ端から電話をし
「今日!今から!診て下さい!ジャストナウで!」
という大体が予約制が常のかの業界にとんでもない無茶振りをして、一件だけ無理を聞いてくれたクリニックに当時12Kgの娘①を抱え、70Kgある夫を引っ張って乗り込んだのだった。
この時点で
普段、幼稚園バスのバス停と家を往復する程度しかしていない、社会性を著しく欠く、まあ今でもそう変わらない暮らしをしているけれど、私は『見ず知らずの夫の上司に啖呵を切った』という事に大分HPを減らしてしまい、かなり疲労していたが
いやしかし、ここで何かしらの診断を受けて帰らなければ、夫はただの登園拒否児童ならぬ出勤拒否社員になってしまう、こういう時のコマンドは
アレだアレアレ
いのちだいじに
▷ガンガンいこうぜ
◆
ストレスでドーパミンが著しく不足し石化した夫、アドレナリン全開の妻である私、そして
「えほん、ないわねぇ」
「おもちゃも、ないわねぇ」
そう言って、無駄に明るい照明のクリニックに置かれたカッシーナかイデーか、おしゃれ成分過多なイタリアンブランド感あるソファにちょこんと座り
『うつ病のメカニズム』
の本を絵本がわりにペラペラめくってみたり、ソファの横に置かれたベンジャミンの鉢植えの葉を引っ張って少し叱られてみたりしていた娘①の3人が夫の名前を呼ばれて入室した診察室には
柄本 明
が居た。
正確には柄本 明そっくりな、飄々とした風情の精神科医が鎮座していた。
神よ
こういうキャラ立ちのするタイプの医師は当たりなのですかハズレなのですか?
そしてこの洒落たクリニックに柄本 明というか何というか
いや私、柄本 明氏本人は割と好きなんですけど。
Dr.柄本(仮名)は夫の顔を見て
「お父さんね、今日はどうしました?会社行けなくなっちやったみたいやけど」
「ちょっと具合悪い感じ?」
なんか喋り方までや柄本 明やな、でも、『こんな事で精神科とか来てもらっても困るよー!』『君は甘いよー!』とか言う感じは無い、よし、いいぞ当たりかここは。
私は医者の当たりは物凄くいいのだ、自慢にもならないけど。
夫は、朝こそ石化していたがDr.柄本(仮名)の質問に
部署移動をして仕事に慣れない内に、持病の為に暫く病休した事
復帰は出来たが、些細な事で恫喝される事や、同僚が同じように恫喝される事に精神的に参っている事
片眼が殆ど見えていない事が並行感覚を失わせているので何か余計に鬱々とした気持ちになる事
夜眠れなくなり、食欲はあるけれど兎に角、日日の倦怠感がすごい事
を、結構しっかりとした口調で説明した。
そして、通勤途中の駅のホームで通過中の特急に
「飛び込んだら楽にならないかなあ」
と思うことも。
おい、やめて。
◆
Dr.柄本(仮名)は
「『死のうかな〜』って考えられてるウチは人間そう死なないけど〜」
「でも大きい病気すると人間やっぱり精神的に参っちゃうからねぇ」
「それで本調子じゃないのに仕事が過分に忙しい、と。」
Dr.柄本(仮名)は、手元のメモ用紙に
『鬱状態』
そう書いて
「うつ病のちょっと手前、うつ状態になるの、これが長く続くとうつ病になってくる訳やけど〜」
どうしても辛い時のお薬は出すけど、先ずはストレスの原因から暫く離れる事が先決やから、ちょっと休もうか?休める?
そうDr.柄本(仮名)は聞いて来たので夫が答えるより先に
「休ませます!診断書書いてください!」
夫の後ろに、娘①を抱いたまま背後霊よろしく控えていた私は前のめりで答えた。
夫も小さく頷いていた、と思う。
その為に来ました!さあ!先生ご一筆宜しく!
「あ、そう?お父さんそれでいける?じゃあまずは2週間お休みで書くから、あとは通院で診ていこうか〜」
2週間の基準って何?適当?とは思ったが、取り敢えず書いてもらえるならそれで会社に再度連絡できるし、ハイハイ書いてくださいよ、PCに書式がありますよね、其方をホラ立ち上げて!
と思ったら
Dr.柄本(仮名)は、クリニックの名前の入った便箋に
『鬱状態、2週間の休養を要す...以下解読不能』
をボールペンで強めの筆圧で記し、病院の名前の入った封筒にホイと入れて渡してくれた。
先生パソコンは?
そして書いてある内容が半分位解読不能でしたが大丈夫ですか。
これについては私の人生において
『医師直筆の診断書解読不能問題』
という未だ未解明の案件があり、私の人生に関わり合いのあるドクターの9割は悪筆..というか忙しすぎて筆が走るのか難解なミミズのたくり系の文字をお書きになる。
なぜアレで各種手続を通過出来るのか。
もしかしたら各専門機関には『ドクター発行の文書読み取り』専門職員が居るのかもしれない。
地下の狭い部屋で、難解な医師の悪筆を読み続ける可哀想な人たちが
そういう想像の翼にアタマを持っていかれているウチに、診察、弱めの抗不安剤の処方は終わった。
そしてあの「病院の便箋に適当に書きました」という体の診断書のお値段
税込み3240円(当時)
高。
◆
さて、件の税込み3240円の手書き診断書。
それがどうやって夫の会社に届けられ、そして夫は病気休暇を取得したかといえば。
向こうが取りに来た。
帰宅してから、うつ状態の人は自宅療養で何をするのかよくわからないけれど、兎に角寝といたらいいんじゃろ寝といたら!と思い夫を布団に放り込んだ数分後
「ママー、なんか今から診断書取りに来てくれるって」
誰が?
「さっき電話した人が」
私がブッキラボーを煮詰めた態度で電話したあの上司を家に上げろと仰る?
「え?あの人、今の上司じゃないよ、前の上司、今の直属よりもっと偉い人」
どうやら本来電話するべき人は、その上司氏の一個下に登録されていた人で
私は一つずらして、更に偉い人に電話をしていたらしい。
ワシそんな人に電話してたんかい。
それがよく欠勤連絡になったな。
通じたんやから結果オーライか。
どうなってんねや君の職場は。
私が職位を超えて電話したのはどうも昨年の夫の上司だった人らしく、今年は更に昇進してそこかしこの部署を統括している
なんかようわからんけど偉い人なんやがなという人で
夫の予告数時間後、小狭い我が家にケーキ持参で現れたその人は、グレーのツイードのノーカラー ジャケットを着た
若き日の上沼恵美子だった。
これは頼りになる。
間違いない。
関西以外の地域にお住まいの皆様はご存知だろうか、M-1グランプリの審査委員として名を馳せる上沼恵美子氏を。
あのベテラン女芸人にして関西マザーのご意見番を。
えみちゃんは我が家に現れるなり
「アンタ!どーしたん!?」
「なんでそんな事になったん!?」
えみちゃんや。
「あっ!奥さん?コレお子さんらにね!」
ケーキを渡すそのタイミングも、仕草も、包み紙がちょっと高級な阪神百貨店なのもめっちゃえみちゃんや。
そして、えみちゃんは今朝の失礼極まりない間違い電話について平謝りする私を『奥さん気迫十分やったわ』と笑い
次いで、夫にこう言った。
「アンタで今期3人目やで」
どんな部署なんそれ。
それで凄いサスペンス劇場なんやけどその前振り。
◆
えみちゃんは、夫の部署の上司氏が大変なクラッシャータイプの人で、今期、同部署の、気の優しい、穏やかなタイプの若者をすでに二人、休職に追いやった事を話してくれた。
仕事ができる事と、気性の荒さは表裏一体ではないだろうけど
そういう人は世の中に一定数いる。
思い通りにいかないと、周囲に当たり散らすというか
自己評価と自己愛が強すぎて相手の傷心に気づけないというか
そして周りは困る。
滅せよ、クラッシャー上司。
そんなお前は来年禿げる。
これは呪いだ。
えみちゃんは
「今は病休扱いにして、今後の事はまた私に連絡して」
「あと2週間後に産業医の面談をする形で今後を決めよか」
そう提案してくれた。
そしてえみちゃんは必要書類は送ってあげるから、コレはあたしが預かって渡しとくわ!
そう言って朝、柄本 明から受け取った3240円(税込み)の診断書を持っていってくれた。
えみちゃん、超頼りになる。
それで、夫はほっとしたのか、それとも1日で事態が急展開を迎えた事に疲れ果てたのか、えみちゃんが帰宅してからそのまま眠ってしまい
この日から夫は、延長冬休みが始まった。
息子と娘①は普段平日は全く顔を見られないくらい朝早く、夜遅い夫の在宅に喜び、えみちゃんからの到来物のケーキを夫の在宅よりも更に喜んで食べた。
子供は正直だ。
かたや、私はこれからどうなるか、これからどうしようかと思って頭を抱えた。
お母さんのライフはもうゼロよ。
サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!