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その子の、無事を疑わないこと。

「頑張って」というのは難しい。

「大丈夫ですよ」ということはできない。

「わかります」は何かおこがましい。

「今、子どもが手術室に入りました」

これからの季節、我が家史上最強の暴れん坊である心臓疾患児の娘の周辺でよく聞くことになるこの報告への、激励の言葉を選ぶことはとても難しい。

もともと脊髄反射的に良い返しが出来るタイプでもないし、最近『折り紙100枚入り』を家中に撒いて遊び、油性ペンでその辺に落書きをする楽しさを覚えてしまった3歳の娘が最後の手術を終えて半年が経ち、自宅でゆっくり循環機能が回復するのを待っている今、余計に分からなくなってしまった。

手術室受付が閉まり、照明が落とされた薄暗い手術前の待合室でひとり、手術室から執刀医が笑顔で終了の言葉を告げに来る瞬間を待つことしかできなかった不安や恐怖や焦燥、それを忘れつつある健忘症状の激しいアタマの私には、現在進行形で手術室の中と外、双方で闘っている人達に声をかける事はなんだか申し訳ない事なんじゃないかと思うようになった。

安全地帯から最前線にいる人への声援は時として、その人を傷つける。

誰かを励ます言葉を選ぶのは、本当に難しいと思う。



9月に入り、夏休みが終わって小学生や中学生のお兄ちゃんお姉ちゃん達の学校が始まると、大学病院やこども病院、それ以外でも大きな病院では秋の幼児予の予定入院が始まる。病院によっては少し違うのかもしれないけれど娘のかかりつけの大学病院はいつもそんな感じで、幼児と学童の予定入院の時期は極力重ならないように予定されるのが常。

子どもの手術はオオゴトだけれどその後の術後管理は場合によっては更にオオゴトで、同じような手術をする子を1人の主治医が一度に何人も管理する事になると、その人はもう季節が変わるまで家に帰れなくなる。そうなると家族に顔を忘れられてしまうし、実際そういう状況になって這う這うの体でやっと帰宅したら可愛がっていた愛犬に「誰だオマエ」と威嚇されて泣いたドクターの話を聞いた事がある。術後を過ごすICUやPICUの病床にも数に限りがある。

それでおチビちゃんたちは少し年上のお兄ちゃんお姉ちゃん達の夏の入院が終わるのを待って、秋の気配のやって来る今時期からが下半期の手術と検査の入院シーズンになる。

これを書いている今もひとり、疾患名と年齢以外は名前も知らないお友達が手術室の扉を潜って手術室の中にいる。あの子が受けているのは娘が今年の2月に受けたものと同じ手術で、下半身の下大静脈に人工血管を繋げ、それを心臓の外側か内側か、心臓の状態によってそれぞれだけれどそこを通して上半身の肺動脈に繋げる循環の大工事。ついでに心臓の壁に人工的に穴をあけたりもする。これまで見聞きして来た手術所要時間は娘も含めて大体皆10時間前後になる。

手術が開始されてから執刀医が手術終了の知らせを告げるために手術室から出てくるまで、もしくはICUでの面会が許されるまでの長い待ち時間の間、親は

「何かあったらどうしよう…」

もういてもたってもいられなくなって用もないのに何度もトイレに立ったり、そうかと思えば、闇雲にボリボリとチョコレートを齧って頬張ったり、突然『ここまで来たんだからあと少しよ』と、脳内に天使みたいな何かが励ましに来たりする。なに、今の誰?

まだ娘を産む前、子どもを見送った手術室の扉で待つ両親の姿には、映画やドラマでよく見るような

『涙に暮れて我が子の無事をただ祈って待つ』

というイメージしかなかった。でも実際に現場に当事者として放り込まれてみると手術室前で我が子を待つ親というものは結構色々な事をしている。

手術室のフロアを競歩の速度でずっと歩き回っていた人。

胸やけするまでずっとぼんち揚げを食べていた人。

手術室にいる子どものために毛糸の帽子を編み続けていた人。

何か食べようとして何故か食パンを2斤買って来た人、これはうちの夫。

小さな子どもの手術というのは、どこにメスを入れるにしても大人より体が小さい分、時間がかかる。これまで娘と同じかそれ以外でも手術を受けた小さいお友達の手術終了の一報を聞くことができたのは大体深夜だったし、うちの娘の手術の時も、子どもお年寄り若者全年齢の患者の手術終了を家族が静かに待つ待合室で、私がいつも最終走者になった。

自分以外に誰か他の患者家族が最後まで一緒いたのはこれまで1度だけ、娘が1歳半の時の2度目の手術の時だけだ。



あの時、最後まで手術室の中に残っていたのはうちの娘と、生後1ヶ月に満たないくらいに見える本当に小さな赤ちゃんで、朝も同じ時間に小児病棟から黄色い小児用のストレッチャーに乗って手術室に出発した。うちの娘の執刀医が小児心臓外科医、向こうは小児の消化器外科医。病児の親歴も長くなると自分の子とは全然関係の無い診療科の先生の名前や顔を覚えるようになる。

朝9時に手術室に入室し、手術室に前のりして娘を待ち構えていた麻酔科チームに裏拳とカカト落としを繰り出して応戦する娘が麻酔で静かになるのを見届け、あとはずっと待合室の壁掛けテレビをぼんやりと眺めて夜の8時を越えた頃、手術室前の待合室に残っていたのは私とその赤ちゃんの家族、若いお父さんと若いお母さんと、手術室の中の子のお姉ちゃんらしき4歳位の小さな女の子、それからその子のおばあちゃんの5人だけだった。

小さなお姉ちゃんは生まれたばかりの弟か妹が今手術室で文字通り一生懸命頑張っているという事実をいまいちよく分かっていない様子で、まだ待合室が患者家族で込み合っている昼間には、手術室の扉の前の空間でパパと追いかけっこをして、おばあちゃんが用意した手作りのお弁当を食べ、まるでピクニックに来ているみたいに見えた。はしゃぎすぎたのか夕方にはすっかり疲れておばあちゃんの膝を枕にして眠ってしまっていたけれど、広大な大学病院の中でひときわどんよりと空気の重たい手術室前の待合室は、誰と目が会ってもニコニコと笑いかけてくれるその子のお影で少し、空気が柔らかかった。

4歳児のスマイル、プライスレス。

娘の手術予定時間はいつも執刀医からの術前説明では大体7~8時間とは言われるものの、実際に7~8時間で終わったことはない。大体いつも3時間は軽く超過する。最初はそれがとても心配だったけれど2回目以降はなんだか慣れてしまって、手術開始から7時間目あたりを富士山の5合目くらいだと考えるようになった。富士山の5合目はまだ車で行ける場所で、お土産も買えるし、カレーもあるし、ソフトクリームも食べられる。3度目の手術の前の説明の時なんて手術時間の超過に慣れきってしまっていて執刀医と

「手術予定時間は7時間から8時間を予定していますが…」

「でも、7時間じゃ終わりませんよね」

「まあ、癒着が酷かったりするとそうですね」

「ですよねえ」

ウフフと笑って軽口をたたき合ったくらいだ。

あの時、娘の2度目の手術は間のツナギと言うか、最後の手術の準備をするために上半身の血管、上大静脈と肺動脈をつなぐ事が主な目的のもので、心臓の手術だから全身麻酔に人工呼吸器挿管、当然人工心肺も使うしそれなりに長時間になるけれど、娘は当時も今もチアノーゼ性心疾患の子にしては体格が良くて体重が十分あったし、心臓の形状はともかく心機能やそのほかの臓器の状態も良好、気の強さは新人看護師と研修医を泣かせるレベルで、私も娘が生後4ヶ月に受けた最初の手術の時よりは気持ちに少し余裕があった。

でも、その余裕は割と上げ底で、手術開始10時間頃にはだんだんとぐらつき始める。

『恐怖の心不全』

『まさかの心停止』

『血管損傷による大量出血』

時間の経過とともに昼間の余裕は雲散霧消して、どんどん悪い事ばかりを頭に思い描くようになるし、そうなると手足がひんやりしてきて、なんだか喉がやたらと渇くようになる。

手術の前、患者家族は医師から『術中起こり得る最悪の事態』の説明を受ける。それは主治医ないしは執刀医の義務だし、患者家族も最悪の事態に備えてちゃんとことの詳細を聞いておかなくてはいけない。娘の執刀医なんかいつも術前にレジュメを30枚クリップ留めして説明の前日に持ってくる。その上手術とか輸血とかその他諸々の同意書に署名もしないといけないし、子どもの手術前の親は結構忙しい。勿論、理想的な経過をたどればこういう良い結果が待っていますよという話もちゃんとしてくれるし、そちらの方が大切な話だけれど、親の脳内に明瞭に残るのはバッドストーリーばかり。お陰で

「どうしよう、うちの子が死んじゃったらどうしよう」

10時間近く飲まず食わず、その上トイレにも行かずに手術室に立ち続けている執刀医からしたらかなり縁起でもない事を手術室の扉をじっと見つめながら考えるようになる。

でもあの時は、時間の経過と共に思考が悪い方、悪い方に引っ張られて行く地獄の時間を、ずっと一緒の空間にいたピクニック気分の小さな女の子が和ませてくれていた。

手術開始時刻を考えると、きっと朝早くに自宅を出てきて、もうそれだけで疲れてしまっていたのだろうその子は、夕方寝入って夜8時過ぎまでぐっすり眠り、待合室に私とその子の家族だけになってから機嫌良く起き出して今度はママからサンドイッチを貰って齧り、パパが買って来たジュースを飲み、あとは音の出る絵本に合わせて踊ったり歌ったりして、昼間同様とても楽しそうに過ごていた。それで、もうずっと最悪の状況が脳内に走馬灯の如く流れ、前傾姿勢で座ったまま。いい加減腰とお尻が緊急事態になっている私と目が合うと、にこっとして

「ねえ、赤ちゃんのことまってるの?」

と聞いてきたので

「そうだよ、おばちゃんもあっちのお部屋の中にいる赤ちゃん待ってるの」

手術室の扉を指さしてそう答えた。当時娘は『赤ちゃん』と言うほどの月齢ではなかったけれど、入院生活が長かったせいか運動発達が普通の子より遅れていて1歳半なのに全然歩けなかったし、加えて3人兄妹の末っ子、私の中ではまだ十分赤ちゃんだった。何なら今も娘は「アタシアカチャン!」と言って乳児を自称する。現在3歳9ヶ月、えらい老けた赤ちゃんだな。

そうしたらその子は

「アタシの弟も赤ちゃんなの、今シュジュツなの、これが終わったら一緒に遊ぶの」

と言って、自分が手術室の扉の前でずっと待っているのは手術室から出て来た弟と一緒に遊ぶためなんだと知らないおばちゃんの私に教えてくれた。えっ、どうかなあ、手術室の中にいる弟と術後すぐに遊ぶのは流石に無理じゃないかな。でもこんなお姉ちゃんがいるなら、退院した弟君は退屈しない毎日が送れそう。

「そうなの、じゃあ早く出てくるといいね」

「おばちゃんの赤ちゃんも早く来るといいね、一緒に遊んであげる」

つい最近お姉ちゃんになった事がとにかく誇らしい、そんな顔をするので私は

(どうかなあ、ウチの娘は手術室が終っても人工呼吸器付き出て来て即ICU行きだからお姉ちゃんと遊ぶのはちょっと無理かもね)

とはちょっと言えなかった。でもこのお姉ちゃんの言葉でその時もう手術開始から10時間が経過し、心配で頭が飽和しそうになっているその場の大人達は少し元気になったと思う。手術室の中にいる家族の無事を信じて疑わない人がいることがあの場所では一番の慰めになると思うし、実際そうだった。

結局、その日は夜9時を過ぎた頃、そのお姉ちゃんの弟の手術が一足先に終わり、家族が執刀医に呼ばれて説明の為の個室に移動する時、ずっと特に言葉を交わさずにいた大人達は

(お疲れ様でした、術後回復が順調でありますように)

(お疲れ様でした、早く手術が終わるといいですね)

この時も特に言葉を交わす事は無かったけれど、そんな気持ちで互いに会釈をして別れた。

そしてこの時、それから1時間後の夜10時頃に無事手術を終えた娘は主治医が

「あの時の娘ちゃんは凄かった」

今でもそう言って笑うほど驚異的な回復を見せ、術後たった3日でICUから小児病棟に病床を移した、あっという間だった。

それから更に3日後くらいに私は小児病棟のロビーであと数日後にあの赤ちゃんとママに再開する。私たちはあの日長時間同じ空間で同じ心配を共有していたお陰ですっかり互いの顔を覚えていた。それで「あ、あの時の…」と軽く挨拶をしてから

「少し前にICUから病棟に戻ったんです」

「そうなんですか、よかったですー。ウチは実はもう直ぐ退院なんです」

少しだけ互いの状況を報告し合うような会話をした。この時、丁度おばあちゃんと一緒に付き添い入院中のママと弟に会いに来ていたお姉ちゃんも、長時間、手術室前で一緒に弟を待っていたおばちゃんである私の顔を覚えていたようで、私に

「おばちゃんの赤ちゃんも元気になった?一緒に遊ぼ?」

そう言って今度は、もう退院が決まっているらしい弟同様、うちの娘がもう退院間近まで回復しているだろう事を疑っていなかった。

娘はあの時ICU を驚きの早さで駆け抜けてきたとは言えまだ身柄をPICU(※小児集中治療室)で厳重に管理されていて、胸水を引くためのドレーンも体に3本さし込まれたまま起き上がる事も出来ない状態で、いくら劇的で驚異的な回復だと主治医が嘆息を漏らしてはいても、術後1週間目の1歳児、まだまだ懸念材料は山盛りだった。

だからお姉ちゃんのこの時の言葉は、私にはとても嬉しかった。

誰かが命を賭して手術室の中で闘っている時、その子とその子の家族への激励の言葉を綴るには、まずはその子の無事を信じて疑わないこと。

手術室の前で、ICUの中で、疑念と憂患だらけの心中を持て余しているその子の家族に代わって、その子が劇的に回復し、必ず退院が叶うと信じること。

あの時のお姉ちゃんの言葉を思い返すとそういう事かなと思う。

大人の方が、知識と経験がある分、きっとそれが難しい。

そんな事を、おちびちゃん達の手術シーズン開始の9月の今、あれから2年3ヶ月が経過してきっともう小学生になっているだろうあのお姉ちゃんの顔と一緒に思い出した。



今日手術のお友達、明日手術のお友達、明後日手術のお友達、とにかくこの先冬に向けて、あのひんやりとした静かな空間にたったひとりで乗り込む皆が、手術に耐え、順調に回復し、元気に家に戻る日が必ず来ることを、あなたが知らない遠くのおばちゃんはひとつも疑うこと無く信じていたいと思います。


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