然竣礼讃

※昨年度(2022年)に書きかけて放置していたのですが、少し修正して投稿します。ぼちぼちと書きかけnoteを放出していこうと思います。


「このひとは太く短く人生を駆け抜け、ぼんやりと過ごす私が瞬きをするその一瞬で、目の前から立ち消えてしまいそうだ」
「消えてしまうその日まで、一瞬たりとも目をはなさず、閃光を放つ瞬間を目に焼き付けなければ」

これが彼、チェヨンジュンへの第一印象であった。
今まで見た誰よりも鮮烈であり、儚かったのだ。

今考えればその第一印象は半分は当たっており、半分は間違っていた。儚さの中に、しぶとい生命力を強烈に持つ人であった。知れば知るほどに、彼は全てにおいてそうなのだ。対極の要素が矛盾なく同居している。

単に両面の要素を持つでも、中間のどっちともとれる良さでもない。対極だと我々が認識している要素を、あのしなやかな体躯の中で両方飼い慣らし、放出し、翻弄させてくる。イメージが定まらず、何事も表裏一体、いやどの面も一体で、まぎれもなく彼なのだ。その様が、私の持っていた言葉の概念すらも変えてしまうのだ。私がこれまでの人生で見ていたものはなんなのか。使っていた言葉はなんなのか。私がこれまで見聞きしたものを蓄積し生まれた概念は音を立てて揺らぎ、無に帰したのちに再構築される存在が彼なのだ。

対極のものの同居、一見対極にある要素の目まぐるしい入れ替わりといえば、谷崎潤一郎の小説が思い浮かぶ。
彼の小説の興味対象に対してのねっとりと絡みつくように細やかな観察眼、単にマゾヒズムを描くのではなく複雑に入れ替わり立ち替わる関係性の変化の面白みに、私は思春期に夢中になった。そして彼に出会ってからふと読み直したら、この感覚と、彼に翻弄される気持ちが似ていることに気づいた。
好きなものと好きなものを結びつけたくなるのはキモヲタの性だが、人間は根底に共通項をもつものに惹かれると考えたほうが、理にかなうのでは?

顔立ちひとつをとってもそうだ。

まず彼の顔をみたときに真っ先に印象に残るのが、切れ長の一重瞼なのではないだろうか。彼の目の縦幅を測定すると1cmと、顔の異様な小ささを考慮しても決して大きいとは言えない。しかし、瞳が下瞼のふちに沿わず少しの余白がある、いわゆる三白眼なのだが、下手くそな似顔絵を描くと、大きな瞳にして白眼の余白を強調させた方が不思議と似るのだ。錯視のようだ。印象が物理的な大きさを超えるのか。更に、タレ目であることは認識したものの、いまだにたぬき顔なのかきつね顔なのかがよくわからない。

無正面から接写すると、一重瞼とあまり長くないカールせず簾のようにおりたまつ毛の微細な印影が、オリエンタルな東洋美の印象を受けるが、少し遠目から眺めるとどうだろう。眉間の骨が隆起しているおかげで、アイホール自体に影ができるほど堀りが深く、東洋人離れしてる。ディカプリオに似ていると言われているのが頷ける。儚さとやんちゃさを併せ持つ雰囲気の要素もあるかもしれないが。

額はきりりと富士額、印象的な深い瞳、立体的な骨格、妖艶なふっくらとした、少しすねているように下がった口角の唇。前から見ると高くはなさそうなのに横から見るとすっきりと高い鼻。彼の鼻が実は顔のパーツで一番愛すべきポイントだと思っている。あのツンと上をいた様がなんとも生意気そうで、興奮する度に小鼻が膨らむのもいい。目は口ほどに物を語るというが、彼の顔は目ほどに鼻も物を語っている。

彼には高貴さと俗っぽさ、清廉さと奔放さが共存している。

彼の第一印象は冒頭に上げた二点に加え、端的に申し上げると「とんでもなく奔放そうだな…」と思った。こんなことを言っている私が一番俗っぽいのは言うまでもない。しかし確実にパフォーマンスをする彼からは、不安定で享楽的な生活をし、心の隙間を埋めるように人肌を歩きわたってそうな種の人間に備わるような、危うい魅力を感じる時がある。酒と重たく甘い香水と肉の匂い。

しかし彼に実際に間近で対面できた時におどろいたのは、その高貴で清廉な雰囲気だ。ほんの数秒であったが、芸能人の浮世離れ感とはまた違う、只者ではない品にあふれていたのだ。近寄りがたい感じは不思議となく、柔和で余裕がある。あんな人は初めて見た。あれほど品がある人を今度見る機会があるとすれば、どこぞの御曹司か貴族かもしれない。これが彼の本質に近いのでは、と今の時点では思っているのだが、また二転三転させられる日がくるかもしれない。

しかし数日後に日本への置き土産のようにインスタにアップされた、日本の街を闊歩する彼の写真から受ける印象は、そのどちらでもない。今にも日常送ってる目の前に現れそうな気はする。不思議と写真の中の彼に限って、肉体の存在のリアルさがある。地の色は白いのに、少しだけ夏の日差しで焼け、とれたての蜂蜜のような甘い黄色味の強い淡褐色に染まった肌も含めてのことかもしれない。日本の日差しも、彼の肌を焼くことに貢献したのだろうかと思うと、好きではなかった夏の日差しも天の恵みのように思えた今年の夏であった。
享楽的な肉の匂いのする風情とも、実際会ったときの高貴な雰囲気ともまたなにか違う。掴めそうな気にさせて絶対掴むことはできない、不思議な存在。なんだか、この古さを残した街に束の間に棲みつく、青い天使のようだ。

どの彼が本当の彼なんだろう、と考えることは愚問もすぎる気がしている。美は強者、醜は負者。こちらにはひたすら礼讃することしかできないのだ。彼という対極の存在を身体の中に飼い慣らす美しい存在を。








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