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ハイスタ世代のAIR JAM2011の記憶

高校時代の思い出はハイスタと共にある。ハイスタの曲を毎日聴いていた。田舎の高校生だったので、ライブに行くという発想すらなかった。とにかくCDを毎日聴いていた。

大学進学のために東京に出てきたが、その年の春にアルバムMAKING THE ROADをハイスタはリリースした。このアルバムの曲を聴くと、一人暮らしの狭いアパートで、新生活への期待に胸を膨らませていたことを思い出す。

しかし翌年の2000年には活動休止が発表されるのである。ひどく衝撃を受けた。

その後の様子や噂から判断すると、横山健さんと難波さんの仲が決定的に悪くなったということが分かってきた。
この二人が並んでライブをすることは二度とないと思った。

ハイスタが引っ張ってきたメロコアシーンは衰退していき、そのシーンの受け皿は青春パンクとなり、やがて青春パンクシーンも消え去った。

ところが、2011年の4月にハイスタの3人からハイスタが主催する音楽フェスのAIR JAMを9月に行うことが発表された。

ハイスタファンたちは狂気乱舞した。タイムマシンでも開発されなければ、ハイスタがもう一度見られることなんてないとファンたちは思っていたからである。

9月の横浜スタジアム周辺はハイスタファンで溢れかえっていた。チケットを持っていない人も、会場である横浜スタジアムから聴こえてくる曲を少しでも聴こうと、球場の周りを取り囲んでいたのである。

ハイスタの出番はもちろん最後である。ハイスタの出番まで、私は横浜スタジアムを出たり入ったりしていたが会場の外でもモッシュやダイブが行われていて驚いたことをよく覚えている。

チケットが取れなかったファンが会場周辺まで来て、音漏れを聴きにくるということは他のバンドでもないではないが、ここまで盛り上がっていることを見たことはない。

午前中から始まったライブはハイスタとゆかりのあるバンドが次々と登場した。AIR JAM2011の開催を熱望し実現させた、ブラフマンのライブが終わるといよいよハイスタの登場である。

一曲目STAY GOLD。イントロを聴いて、ハイスタがいなくなった10年のことを一気に思い出した。

ハイスタは突然去ってしまったけど、ハイスタが輝き続けろと言ってくれたことを忘れたことはなかった。

ライブで観たり聴いたりするハイスタは格別であった。横山健さんと難波さんのMCがやや噛み合わないことがあったが、それすら一種の緊張感としてライブにいい作用を与えていたようにも思う。

アンコール最後の曲はBrand New Sunsetだった。

ハイスタがかけてくれた言葉
そのおかげで大人になれた気がする。
この日の夕焼けはいつもと違った。
でも私は泣いたりしなかった。
私は強くなったから。

AIR JAM2011は今でも忘れられないフェスである。

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