見出し画像

私は私の耳で音楽を聴いている〈11月毎日投稿〉

中学3年の冬、インフルエンザにかかって1週間学校を休んだ。家族にうつさないよう寝室にこもって、ちょっと前に母が買ってきた竹内まりやのベストアルバムを繰り返し聴いていた。

テレビやラジオなどでよく耳にしていた「元気を出して」のイントロって、こんなにみずみずしくて優しいギターで始まるんだ、と感動したことを、鮮明に覚えている。インフルで弱った心と体にやけに沁みた。「学校ではそろそろ3時間目が始まる頃だな」なんて思いながらぼろぼろと泣いてしまった。

同じアルバムの中には「プラスティック・ラブ」も入っているのに、そのときは聴いた記憶が全然ないのだ。2018年のFriday Night Plansのカバーで知って大好きになったとき、当時の自分が素通りしていたことに無性に腹が立った。

3枚組42曲入りの超特大ボリュームだし、熱にうなされながら寝たり起きたりの枕元で聴いていたのだから、今さら責めても仕方ないか。

私の耳は本当にずっと私の耳だったのか。そう思うくらい音楽の好みが変わっていることがある。今まで興味がないと思っていた音楽を急に大好きになったり。今まで聴こえていなかった音が聴こえて来たり。歌詞の意味が急に分かるようになったり。逆もしかり、聴かなくなる音楽もある。

過去の自分もそのとき好きな音楽だけが本気で好きだったし、今の自分も今好きな音楽だけを本気で好きなのだ。自分でもびっくりするくらいに。

その度「どうして気付かなかったんだろう」と悔しい気持ちになったり、「もうあのときの自分には戻れないのか」と寂しい気持ちになったり。自分が音楽をいい加減に聴いてきたみたいで、曲やミュージシャンに顔向けできない気持ちになる。自分の音楽への視野の狭さを痛感するし、リスペクトが足りていないような気がして自己嫌悪にも陥る。

人間に限らず生物には、変化を嫌う性質がある。恒常性というやつである。新しい習慣を身につけるのが難しかったり、逆に一度身についてしまった癖がなかなか抜けなかったりするのは、恒常性が原因だ。

恒常性が備わっているからこそ、体内が一定の状態に保たれて、生命維持ができる。脅威となる外的要因から自分の身を守ろうとできる。音楽の好みが変化していくことについて、私が自分のことを責めてしまうのも、恒常性によるものなのかもしれない。

でもそれは、音楽へのリスペクトを盾にして、私が生物として持つしなやかさを否定していることになるのかもしれない。好きじゃない音楽があることは、音楽を軽んじていることとイコールではないのだ。

私たちは、新陳代謝や外界の変化の影響を受けて、自分の意思の有無に関わらずどんどん変化もしていく。「私の耳は本当にずっと私の耳だったのか」というのは、あながち誇張ではないのかもしれない。身体や感覚が変化していくからこそ、激しく外的要因が変化しても、しなやかに生きていける。

自分と自分以外の人を比べたときにも同じようなことが言える。みんな同じつくりの耳を持っているように見えて、みんなちょっとずつ違うものを持っている。

そしてなんと、自分の耳で聴く音楽しか聴くことができないのだ。それは脳みそも、脳と耳を繋ぐ神経も、あとはリズムを刻む指先やつま先もそう。

人によって違う音楽を好きなのは、違う体で生まれてきて、違う生き方をしてきたからだ。そこから生まれる個性は、お互いに尊重して活かすことで、共存できるとっかかりになる。

ずっと至極当たり前のことを言っているだけかもしれない。そうなんだけど。

音楽の好みが変化することも、変化していくことに心が揺れ動くことも、私に備わる生きる力のあらわれなのだ。そして、音楽を楽しむためには、生きていかないといけないなあ。

コンビニでクエン酸の飲み物を買って飲みます