『他なる映画と』を読んだら濱口竜介監督作品が好きな理由が分かった
久しぶりに、文字に食らった。
濱口竜介監督の映画は、何本か拝見したことがある。
なかでも『ドライブ・マイ・カー』はわたしにとってかなりお気に入りの作品であり、この作品について考察した記事も以前投稿した。
わたしはこの記事のなかで『ドライブ・マイ・カー』のことを「その人の感情はその人だけのものである」という考えを認めてくれる作品だと評した。その考えは今でも変わらない。
ただ、これはわたしが元来大事にしてきた概念を「認めてくれた」という感覚であり、濱口監督のつくりだす作品を直接描出するにはややニュアンスが異なると思っていた。
『偶然と想像』然り『悪は存在しない』然り、濱口監督の映画作品は会話に重きが置かれているように思える。
特に車内の会話シーンには定評があり、最新作『悪は存在しない』では濱口監督の目指す会話劇がひとつの形として完成したとわたしは感じた。
濱口監督の会話劇を形容しようとすればそれは「聞いていて心地よい」「あまりにも自然体」なものだと言えよう。
しかしそのような会話劇は濱口監督の大事にしているなにかの概念が表出したものに過ぎない。わたしはその肝心な部分が自分ではつかみ取れなくて煩悶していた。
そのような矢先に、濱口監督の著書『他なる映画と』が発売された。
『他なる映画と』を読んだら、なぜわたしが濱口監督の作品が好きなのかがよく分かった。
濱口監督が大事にしていること、それは役者の身体に現れる「些細な出来事」としての偶然を捉えることである。
言われてみれば、濱口監督の会話劇および作品全体にはこれは本当に演出なのだろうか?と思ってしまうような「偶然」が散りばめられている印象がある。だからこの言葉はとても納得できた。
そして濱口監督は、その「偶然」が現れるよう念入りに準備をする。
これを捉えるための準備のひとつおよび偶然の絶対条件に冒頭で引用した部分が関わってくるのである。
もう一度、引用しよう。
また、濱口監督はこうも表現している。
「私」と「あなた」が他者であることは当然なことである。
こんな当然なことを真理として見落とさずにいるこの監督のなんと恐ろしいことか。
自分の目指す「美(と言っても差し支えないだろう)」の完遂のための絶対条件に他者性を挙げる濱口監督の姿勢こそが、わたしの感じる「その人の感情はその人だけのものである」というテーゼと合致したのだと腑に落ちた。
ああ、だからわたしはこの人のつくる映画が好きなんだ。
ようやくわかって嬉しくなった。
9月から下北沢の映画館で濱口竜介の過去作品が一気に再上映される。
より彼の作品が好きになれる予感に胸が躍る。待ち遠しい。
[引用文献]
濱口竜介『他なる映画と1』(2024) インスクリプト
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