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インフォデミックを味わう。

世情に疎い僕でも最近になって「インフォデミック」という言葉をよく目にするようになりました。その原因は皆さんもご存知のことだと思います。この言葉の正確な定義はまだ知りませんが、言葉のかたちから察するに「情報」を表す "information" と「感染症の世界的な大流行」を表す "pandemic" が結合されてできた造語でしょう。「良からぬ情報が疫病の如く広く世間に拡散してしまう社会現象」というのがこの言葉の大意だと思っています。

この言葉はネガティブな意味合いが強いでしょうが、ネガティブなものにネガティブな反応ばかり示していたら人生がつまらなくなるので、このインフォデミックという現象を咀嚼・考察し、その思考の軌跡というコース料理を味わってみたいと思います。

オードブル

一次ソースと解釈のマリネ

インフォデミックは先述の通り、良からぬ情報がぶわっと世間に広まることのようです。では、情報はそもそもどこから来るのでしょうか。

情報には必ず出どころがあり、それが人の間をリレーして伝達・拡散されて最終的に自分のところへ届きます。

出どころは「一次ソース」です。一次ソースはたいてい学術論文だったり、記者やジャーナリストの取材記事だったりします。それがさまざまなメディアによって皆さまのご家庭にお届け、となるのですがその過程ではすでに多くの人が一次ソースからの情報伝達に介在しています。なので僕らが見聞きしているのはご存知の通り、たいてい1より大きなN次ソースです。

情報伝達というと機械的に聞こえますが、インターネットの通信を中継するルータのように受け取った情報をそのまま次へ次へと伝達するのではなく、受け取って次へ伝達する過程で伝えようとする人の「解釈」というフィルターを、言い換えればその人固有の色メガネによって多かれ少なかれ伝える情報が変容します。これは人が伝える情報である限り、避けられません。伝言ゲームといわれる遊びはその性質を利用したものでしたね。

スープ

事実確認のポタージュ

情報は理想論で言えば、事実を表すものでしょう。ですが、現実は違う。その理由は先に述べた伝言ゲーム状態が発生するからです。

確度の高い情報を得るには一次ソースにあたるのが最善ですが、僕らもこの溢れ返った情報のすべての一次ソースを追えるほどの労力を割くことはできません。では、自分のもとへ届いた情報とどのように向き合えばよいか。何を信じて何を疑えばよいのか。むずかしい問題です。

ただ情報の個別具体的な中身についてはわかりませんが情報というものの性質から何か有用な答えというか対応策のようなものが導き出せるのではないかと思います。

魚料理

情報確度のムニエル

さきほど、「何を信じて何を疑えばよいのか」と申しましたが、この言いかたにはいくぶん語弊があります。それは情報というものはたいていの場合、そこまで白黒がつかないからです。つまり情報には正しいと正しくないの中間、「概ね正しいがここが違う」とか「だいたいの主張は合っているけど、表現があいまいだ」とかがある。情報に確度という数値を割り当てるとしたら、それは0か100かではなく、80だったり10だったり、条件付きで90だったりします。なので、信じる信じないという表現は情報に対して0か100でしか評価しないということになります。

例えば、「薬Aはめまいや吐き気を催す副作用がある」という情報があったとします。これを無条件に信じてしまうと薬Aを服用するとめまいや吐き気を起こすという情報を得たことになります。逆にまったく信じないとなると薬Aにはそういった副作用が無い。大丈夫。となります。どちらも両極端な考えであることは明らかです。

この例だとあまりに単純すぎるので、そんなの当たり前じゃんとなりますが多くの情報はもっと複雑な内容を持っています。「〇〇政権は富裕層にだけ税制を優遇するような措置ばかりを講じており、中流層や貧困層を圧迫している」とか「この医療措置を行ったあとに亡くなった人がいる。なので、その医療措置が原因である可能性が高い」といった個人が事実だと認定するのがむずかしい情報が世の中には多いです。

こういった情報は、信じるか信じないかの白黒の判断をすぐにせず、確度がいくつぐらいなのかといったグレーで考えていきたいものです。

口直し

恐怖心のソルベ

少し話題を変えましょう。通常の情報拡散とインフォデミックの大きな違いは何でしょうか。僕が考えるにインフォデミックのほうが危機感や焦燥感を感じさせる情報であることが多く、その拡散スピードも早い。「あーこれインフォデミックな感じがする情報だなー」と思う情報は、受け取った人の恐怖心、怒りを煽る内容が多いように感じます。

本で読みかじった知識で恐縮なのですが、人間は狩猟生活をしていたころから精神構造は大きく変わっていないそうです。どういう精神構造かというと、恐怖の感情は記憶に残りやすく敏感であるという性質を変わらず持っているとのことです。現代人は狩猟をしていたころのそんな脳みそで日々、溢れ返る情報に接しているわけです。

恐怖心を煽る情報に接すると、目の前に猛獣が現れたときよろしく戦わなくてはとか逃げなくては(いわゆる「闘争か逃走か」)という反応を示し、SNSが発達した現代で脊髄反射的にリツイートやシェアをする。あるいは、過剰に「それは嘘の情報だ!」と拒否反応を示し白黒判断をしてしまう。

インフォデミック的情報によって引き起こされる、人の行動にはこの2パターンがあるのではないでしょうか。

肉料理

感情のモモ肉ステーキ

インフォデミック的情報によって起こされたこれらの行動の問題点は情報の内容をしっかり吟味せずに拡散したり、信じてしまうこと、あるいは拒絶することです。その結果、拡散された情報が別の人を脅かしたり、本人が見誤った判断をしてしまったりでしんどい思いをする。言いかたは悪くなりますが、情報に踊らされてしまいます。

そうはなりたくないなあと僕は思います。多くの人がそうでしょう。ではどうすればよいでしょうか。これまたむずかしいですが、まずは日常であまり多くの情報に触れないことが大事だと考えます。「あれ?多くの情報を収集して真贋を見極める訓練をすれば良いのでは?」というご意見もあろうかと思います。ごもっともだと思います。しかし、それは機械的に判断できるような鋼の心の持ち主にしかできないです。僕のようなごく普通の人は情報を得るとどうしてもそれについて何かしらネガティブないしポジティブな感情が大小問わず発生します。そうすると感情に引っ張られて事実に対する理解が曇ります。

例えば、政治家が賄賂を受け取ったとか、なんの罪もない家族全員が無謀な自動車運転をする人の事故に巻き込まれて亡くなったとか、動物園で象の赤ちゃんが生まれたとか、よくニュースで取り上げられます。それを見たら多くの人は「けしからん」とか「理不尽で気の毒」とか「あらかわいい」と思うでしょう。こういった気持ちはとても人間的ですが、感情によって思考停止してしまい、見た感想を心のなかでつぶやいた程度で終わりです。こういった姿勢でニュースを見るのは危険です。それ以上の思考をしないからです。

感情が発生すると無意識にエネルギーを消費します。とくにネガティブな情報は太古の精神構造が危険シグナルを発信するので余計に疲れます。疲れると感情のコントロールもむずかしくなります。すると気持ちにゆとりが無くなり情報に対してニュートラルな気持ちで接することができなくなります。感情に流されやすくなってしまうのです。

何かものごとを判断するときや事実を理解するときはニュートラルな感情であるべきです。感情が入ると「A or B」といった判断や「A vs B」といった事実のどちらか一方に偏って肩入れしてしまうのです。

いつの世も政治家の賄賂が横行してしまうのはなぜだろうか。運転していた人はてんかん症状が出てしまった可能性もあるのではないか。なぜゴールデンタイムの時間帯に世界で起きている大問題について報道せず、国内地方の動物園の出来事を報道しているのか。といった疑問や思考は感情に支配されている状況下ではなかなか生まれてきません。

まずは不必要に感情を揺さぶる情報には触れず、自身の精神を安定させることを優先させるのが良いでしょう。

デザート

知識のティラミス

情報流入を意図的に遮断すれば万事解決かというと、そうではないでしょう。それは言い方を変えれば、ただ逃げているとも言えるからです。では、情報から距離を起き、隠遁生活を送っている間に何をすればよいか。それは情報を受け入れる準備をしておくことです。具体的には読書です。

おすすめは新書を読むことです。新書とは文庫本より縦長のかたちをしていて、扱う内容も比較的現代的なものが多いです。もちろん本に書かれている内容が絶対だとは言いません。ハズレもあるでしょう。でも本を出版するには多大なコストがかかるのでそうそうおかしな内容の本を刷ることは少ないです。少なくともテレビ番組や新聞、ネット記事、TwitterやFacebookの投稿よりは平均的に信憑性が高いです。

それでも信憑性を重視したいのであれば、古典を読むことをおすすめします。岩波文庫から出ているような本ですね。古典は有史以来、読みつがれてきたもので、時代の変化という淘汰圧にも耐えた自然言語で書かれた真理です。人間の心に関する真理や一度証明されれば未来永劫、覆されることのない数学的真理、その時代の最先端の観測機器を最大限活用したことで判明した科学的真理などなど。ただ、古典の難点は言いまわしが難解だったりして活字に慣れていないと読むのに挫折してしまうところです。

いずれにせよ読書によって知識を少しずつ増やし、ティラミスのように知識の層を積み重ねていくのが良いでしょう。いくら情報を遮断したとしても日常生活を送っていれば嫌でも何かしらの情報は少し入ってきます。そのときに今までに積み重ねた知識を総動員して「あれかこれか」と思案すると自分なりの解釈ができて、この世界を奥深く見つめることができるようになるでしょう。そうすれば、インフォデミック的情報に出くわしても動じずに思案し、自分なりの答えを導き出せます。

さて、言いたいことは書ききったので今日はこのあたりにしたいと思います。ごちそうさまでした。それでは。

(終)

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