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入社当時の自分に、 「事実」への向き合い方についてフィードバックしてみる。


ちょうど1ヶ月程前のこと。2020年新卒の研修発表があった。

準備期間は数週間。テーマに縛りはなく、「自身で問題を発見しその解決策を提案する」というのが趣旨。着眼点や調査・分析プロセス、まとめ方など、新卒社員それぞれの個性が垣間見れて、非常に興味深かった。

発表者の中には、Slackの全社チャネルで実際にアンケートをとり、アウトプットの骨子に取り入れている人もいた。

企画においては、「事実」を取りに行くことはとても重要だ。
その1つの手法として、アンケート実施は有用であり、既に行動に移せている彼らを見て、素晴らしいなと感じた。

翻って、同じ頃の自分ってどうだったんだろう?



「『現場感』がない」。

自分が入社した当時、代表の村上と1:1でランチをする機会をもらえた。(少なくとも当時は、入社時に必ずそういう機会が与えられていた。)

折角の機会なので、最大限活かしたい。
そう思った自分は、当時関心が強かったシェアリングエコノミー系の事業案(といっても稚拙なものだが)を作成し、ランチを食べながらプレゼンした。

ちょうど丸3年位前の話だが、当時のフィードバックの内容を鮮明に覚えている。

「『きちんと考えてる』という印象。整理の仕方として面白いところも有るけど、『現場感』がないんだよね。」

こんな趣旨の内容だった。

正直当時は、フィードバックの内容を「理解しようと努めているけど、腹落ちさせられない」状態だったように思う。
ただ、今振り返ると、そのフィードバックに含まれる意味合いが、色んな意味で理解出来る。

ポイント、プロセス、スタンス。あらゆる部分が足りなかった。

具体的に何が足りなかったのか。
「今、3年前の自分にフィードバックできるならどんなフィードバックをするか」という観点で、何点か記述してみたい。

①「ちゃんと足を使って『事実』を集めようよ。」

フィードバックを受けた当時は、Web上の情報や本などを漁って、そこからばかり意味を見出そうとしていた。けれどそれでは、価値あるものはきっと作れない。

少し極端なことを言うようだが、誰かの手で収集・整理された情報には、等しく誰かの何らかの意志が介在しているはずだ。

生データのように見えるアクセスログですら、「どういう情報をログに残すか」の設計時点で、設計者の意志が入る。

誰かにより用意された情報に当たること自体は完全に無駄ではないし、むしろとても有意義だ。

けれど、何かしらの点で新規性があるから「価値」があるのであって、他人の意志により切り取られた情報のみで、始まりから終わりまで全て完結できるような企画は、既に誰かがやっているだろう。それゆえに、きっと「価値」はない

足を使って「事実」を集め、自分なりに切り取り、意味を見出す。
感情に関してであれば、webアンケートだけでなく直接話をきく。行動に関してであれば、行動ログだけでなく実際の行動を観察する。

「事実」と直接向き合ってみると、掴みどころがなく扱うのが難しい。けれど、だからこそ、そこから見出す意味にきっと「価値」があるのだと思う。


②「自分の主張を通すことばかりを目的に『事実』を使おうとするのは避けようよ。」

フィードバックを受けた当時は、「説得するため」「案を認めてもらうため」に「事実」を使おうとしてしまう部分もあった。けれどそれでは、価値あるものはきっと作れない。

前述のように、「事実」から意味を見出すプロセスにおいて、ほぼ必ずその人の意志が入る。それは、自分がその情報を扱う場合も同様

例えば、定量的なデータを加工してグラフなどのビジュアルに落とし込むとき。どの範囲(期間・対象など)でデータを切り取るか、何と比較させるか。

例えば、サービスの利用者に話を伺うとき。オープンクエスチョンか、クローズドクエスチョンか。クローズドクエスチョンの際にどんな選択肢を用意するのか。

収集や加工など、「事実」を扱うあらゆるプロセスで、その人のスタンスが問われる。
「説得するため」「案を認めてもらうため」というスタンスだと、無意識であっても、必ずと言っていいほどバイアスがかかる。

企画は、最終的に何らかの形で具現化されて、誰かに何かしらの価値を生み出してこそ意味があるはずだ。少なくとも「誰かを説得する/誰かに認めてもらう」ことが企画の最終ゴールでは無いはずである。
(もちろん、生み出す過程に「説得」が必要になることが多いのも、また事実だと思うけれど。)

「事実」をできるだけフラットに、ありのまま受け入れ、正しく意味を見出そうとする姿勢は、価値ある何かを生み出そうとする際には、きっと重要なのだと思う。


③「数値で表せない、定性的な『事実』ももっと大事にしようよ。」

フィードバックを受けた当時は、定性情報は参考程度で、定量情報のほうが客観性も高く重要だと思っていた。けれどそれでは、価値あるものはきっと作れない。

定量情報も定性情報も、どちらも等しく重要である。
それぞれに得意なこと・不得意なことがあり、うまく補完させ合って企画を考えるのが望ましいだろう。

特に「何か新しいものを考えよう」「根本的に良くしよう」と考える場合は、数値のインパクトや確からしさだけに目を向けるのでは不十分だ

定量情報は、場所や大きさなどを探すのには向いているが、理由や原因などを探すのには限界がある。
定性情報をもとに、背景にあるメカニズムやインサイトを把握すること。こうした活動が行われない限り、何か大きな変化、価値を生み出すことは難しい。
定量情報・定性情報のそれぞれの役割や特徴を把握して使い分けることが、きっと重要なのだと思う。


あたりまえのようで、難しい。

正直観点はたくさんあるが、入社当時の自分にフィードバックできるなら、以上の3点は伝えただろう。

3点に共通するのは、「事実」への向き合い方に関するフィードバックということである。

これらのフィードバックは、言われてみると「あたりまえ」のように感じる。けれど、価値を生み出せるレベルまで本気で実践しようとすると、とても難しい。

3年前の自分にフィードバックしながら、改めて意識したいと感じた。


根本の「気持ち」が一番大事なのかもしれない。

ひとえに「事実」と行っても、たくさんの種類がある。

定量的なもの、定性的なもの。
顧客が自覚しているもの、無自覚なもの。
継続的で不変なもの、一時的で可変なもの。

他にも色々な切り口があると思うし、種類によって、取得方法や分析手法は異なるだろう。

けれど、事実に向き合う上で常に共通して大事なことは価値のあるものを作りたい」という気持ちなのかもしれない。

どんなに手法に精通していても、気持ちがブレていると、「事実」を悪用・誤用するリスクが高まる可能性だってある。

逆に気持ちさえブレなければ、扱える「事実」の種類や手法は、きっと自分の中で増えてく。扱いの難しさに苦労しながらも、少しずつ「事実」を価値に結びつけることが出来るようになるだろう。
少なくともそう信じて、日々仕事に取り組んでいる。


まだまだ知るべきこと・身につけるべきことは山のようにあると痛感する毎日だが、「価値のあるものを作りたい」という気持ちだけは、大事にし続けたいなと思う。



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