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名古屋城復元をめぐる差別発言について


名古屋城木造建築プロジェクトについて差別発言をした方は歴史を大切にしているというより、歴史に執着しているのではないだろうか。

 「執着すること」と「大切にすること」とは全く異なる。歴史に執着するとは歴史を自分の殻に閉じ込めること。自分の見方が正しいと決めつけ、歴史が外に自由に開かれることを許さず、自分の理想の檻に閉じ込めてしまうこと。
 歴史を大切にするとは、歴史の変化を受け入れ、多様な人々に開かれ、それによって歴史の意味づけも多様化し、それによって歴史自体が深みを増していくことを喜ぶこと。
 “城”という物自体も時代の価値観や規範によってどんどん変化してきている。創建当時は耐震設備や消火機能、電気などなかったはずだ。現代では市民の安全を守るという公共性によってそれらを取り付けないことは許されないだろう。
 城は単なる物体ではない。それは同時に社会的構築物でもある。創建当時、城という存在は敵からの防御というインフラであり、大名家の威厳・権力の象徴であった。翻って、現代では広く市民に開放され、観光施設として、訪れた誰もが歴史を学べる教育的施設として、また憩いの場として多くの人に開放されている。
 なぜ現代の城は多くの人に開放されているのだろう。これ自体も分厚い歴史の重みが重なり合っている。身分制が撤廃され、すべての市民に人権が与えられ、憲法上教育を受ける権利が保障されるようになった。江戸時代は城の、しかも天守閣に誰もが立ち入るなんて許されないどころか、想定さえされていなかったはずだ。
 現代は誰もが城に入って、楽しんだり、学んだりする権利がある。しかも、今回のプロジェクトは古い建造物の修復ではなく、新たに木造建築を作ろうとするものだ。新たに建てる天守閣の使用用途は観光だ。市民は立入禁止にして、限られた研究者だけが立ち入りを許可されるものではない。つまり、今回のプロジェクトは現代の規範、価値観を基礎に進められている。その中で、バリアフリーを最小限にとどめ、障害のあるひとを排除するというのは許されるものではないし、世界に対して恥ずかしいことだろう。
 ぼく自身、お城を見るのは好きだ。難攻不落の複雑な階段に圧倒されることがある。そうした遺跡まで平らにしろとは思わない。しかし一方で、その階段を作った人たちが障害のある人たちも通るということはつゆにも思わなかったに違いない。障害のあるひとはおろか、健常な農民や市井の人々も立ち入りは想定されなかったはずだ。市井の人々にとってお城は娯楽や学習の対象としてではなく、畏怖の対象、自分たちを抑圧する権力として視線を集めていたのである。
 もし、障害のあるひとの声を無視したまま、障害のあるひとたち、身体にヴァルネラビリティのある人たちを排除したまま天守閣を作れば、その史実は後世に引き継がれていく。なぜなら、我々が生きている今日一日だってまぎれもない歴史だからである。

 どうか、名古屋市民のみなさんが、そして我々が後世に誇れる天守閣を作ることを切に願います。

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